芳香は惑乱する:#15 岐路と思慮

 詩織は、約束の時間より前から指定された場所で彼を待っていた。

 時計の針は、既に約束の時間を過ぎている。

 決断の時が、過ぎてゆく。


 何の変化も無く、何の気配も感じられない。

 時の流れを視覚で捉えるための道具によって、人生の岐路を確認する。

 それが、どういう意味を持つのか――は、どうでもいい。


 待つのは慣れているはず……。


 でも、それ以上待つのは……、嫌。


 もう、彼女は迷わない。


 答えを出すのだから……。


 しかし……。


 詩織は、後三十分だけ待ってみようと思った。

 そう、後三十分。

 あと三十分、それが、彼女が出した気持ちを清算するためのタイムリミットなのだ。

 ここで期限を区切らなければ……、詩織は、このまま永遠に待ち続けているような気がした。

 二十五年という年月は、彼女に何を残したのか……。

 ただ、年月を無駄に消化しただけ……。


 二十五歳になったばかり――。


 彼女は学生のとき、一度だけ恋をして、その男性と付き合いをしたことがあった。

 バイト先で知り合った妻子のある男性だった。

 彼は、妻子と別れ、結婚したいと言った。

 彼女は、その言葉を信じてずっと待った。

 ただ、待っているだけでは不安であった。

 彼女は、寂しかった。どれほど愛されていても……。

 いや、どんなに強く愛していても人間の心は弱いものだ。たかが数日のことでも、『待つ』と言う時間は長い。

 その間、種々の誘惑の中で彼女の心は揺れ動いた。

 それでも詩織は、ただ彼を愛し、彼を信じた。

 信じることが愛だと思った。

 そうすることで自分の正当性を保っていた。

 ただ……、

 若かったから……。


 しかし終焉は訪れた。彼女の純朴な心をズタズタにして……。

 無常な現実が、そんな彼女に恋に対する拒絶反応を植えつけた。

 彼女の心の何処かに、戸惑いとわだかまりを残した。

 それも、時間の流れと、仕事に打ち込むことによって和らいでいった。

 詩織は現実的な恋愛を無意識に拒否し、空想的な恋愛を愛するようになっていた。


 社会人になって、瀬戸に好意を持った。

 忘れていた。

 いや、自らが無理矢理避けていた恋愛感情を、彼の登場が甦らせてくれた。


 忘れられない祥子との思い出。

 彼女が二人を結びつける接点であった。

 思いも寄らぬ展開ではあったが、今では彼女には感謝している。


 憧れていた瀬戸との交際が始まり、それは純粋なほどに弱々しいものではあったが、彼女に安らかな日々をもたらした。

 しかし、未だ自分の本心を告げられぬままにいた。

 

 そんな時に、斎藤からの告白があった。

 斎藤に対する気持ちは、会社の上司という域を出ない存在。

 ただそれだけの人。


 でも、瀬戸に対する感情は違うと言える。

 彼の交際申し込みを、今は素直に受け入れようと思う。

 その返事を、今日伝えることに決めた。

 自分は、瀬戸が好きだということを……。

 今日で、待つのも待たせるのも終わりにしよう。

 そのほうがいい。そのほうが……。

 人間というものは、そういうものだ。何処かでけじめをつけなければ生きていけない。


 今日が特別の日になることを願う。

 だから、あと三十分だけは待つ。


 それに賭けてみよう――と、彼女は自分に言い聞かせるように呟いた。


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