芳香は惑乱する:#14 覚醒と決断

 僕には……、彼女が必要なのだ。


 瀬戸智志は覚醒から覚めた。

 自分にとって一番大切なものが、やっと分かった。


 自分の愚かさと腑甲斐なさが……。

 彼女の存在の大きさが……。

 どれほど、今まで自分が活かされてきたか。

 確信するのに遅過ぎたのかも知れない……。

 自分は何を恐れていたのか。

 失う怖さが身に沁みる。


 約束の時間が刻一刻と迫る。

 行かなければ。

 瀬戸は走った。


 間に合うだろうか……。

 不安が瀬戸を襲う。


 大丈夫だ。

 瀬戸は、自分に言い聞かせた。


 まだ間に合うはずだ。

 そして、見える形で彼女に対する自分の気持ちを伝えよう。


 行かなければ。


 ――行かなければ。どうしても……。


 ――行かなければ。そこには……。


 ――行かなければ。大切なものが……。


 ――行かなければ。待っている……。


 彼女の微笑みが……。

 もうすぐ……。

 見える……。


 もう少しだ。

 もう少しで……、彼女に会える。


 瀬戸は走った。


 愚かな自分との決別のために……。

 二人だけの永遠の時間を求めて――。



 瀬戸は、赤信号の交差点で立ち止まった。

 横にいた大きな手荷物を持った年配の女性が、瀬戸の顔を見上げ、京阪の三条駅に行くには、この方向でいいのかと訊ねてきた。

 瀬戸は優しく首肯うなずき、指でその方向を示した。

 三条大橋を渡ったところに京阪三条駅の地下への入り口がある。


 詩織との待ち合わせ場所に指定したのは、三条大橋にある『土下座像』の前だ。

 『土下座像』の正式名称を『高山彦九郎たかやま ひこくろう像』といい、高山彦九郎は幕末の倒幕派に影響を与えた江戸後期の尊王思想家で、“奇人”とも評された人物だ。

 その彼が、入京前に京都御所を望拝する姿を表している像なのだが、土下座しているような姿に見えることから一般には『土下座像』と呼ばれている。


 瀬戸の切実な思いが、無意識のうちに、その場所を指定していたのかも知れない……。


 まだ、ここからは、その場所が見えない。

 勿論、詩織の姿も、ここからは確認できない。

 しかし、もう目の前だ。この信号を渡り、橋さえ渡りきれば詩織に会える。

 逸る気持ちを抑え、瀬戸は信号が変わるのを待った。

 ようやく信号が青色に変わり、瀬戸は、横断歩道に足を繰り出した。


 もうすぐ彼女の返事が聞ける――


 そう思ったとき、彼の視覚の隅に、信号無視した車が侵入してくるのを捉えた。


 ――危ない!


 誰かの叫ぶ声。

 直ぐ後ろを振り向くと、先ほどの年配の女性が……。

 瀬戸は走り出し、彼女の躰に覆い被る。


 車のブレーキの音――


 その直後、ガツーンという衝撃が彼の背中から腰にかけて走った。

 瀬戸の躰が宙を舞う。

 瀬戸をはねた車は、急発進してその場から逃げ去る。


 瀬戸の躰は、そのまま前方につんのめるようにして転がった。

 全身を痛みが貫く。


 ――うっ!


 薄れゆく意識の中で、瀬戸は詩織の名前を叫んだ。 


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