芳香は惑乱する:#12 打診と打算

 あの日の出来事は、詩織の心を揺るがした。


 会社の忘年会で、途中でトイレに立った詩織が、トイレの入り口で営業部の真田茂樹と偶然出くわした。


「やあ、お疲れ様」

「あ、お疲れ様です」


「君、かわいいね。オレのタイプや。ホンマ、ど真ん中やわ」

 真田は上下に視線をゆっくりと動かし、詩織の顔をまじまじと見た。


「えっ?」


「上品で、知的で……今まで、君のような女性に出会ったことが無いよ。よかったらオレと付き合ってくんない?」

 あまり面識の無い真田が突然、そんなことを言った。


「あのう、困ります」

「いや、冗談違うで。オレ、真剣やし」

 そう言うと真田は、素早く詩織に顔を近づけてきて、矢庭に唇を重ねようとした。


「よしてください」

 寸前のところで詩織は、それを躱した。


「わ、私、好きな人が居るんです!」

 思わず出た言葉に詩織自身驚いたが、その時、自分が瀬戸を愛しているのだと確信した瞬間でもあった。

 詩織の眼には涙が溢れてきた。


「そんなところで何をしているんだ!」

 詩織の背後から声がした。


「あっ、課長!」真田が目を見開いて言う。

 その声の主は、営業部の斎藤課長だった。


「真田、お前は彼女に何をした!」

「いや、別にも……」


「何もって……、彼女泣いてるじゃないか」

 斎藤は、詩織の顔色を窺い、「大丈夫ですか?」と声をかけた。


「あっ、はい」

「真田。お前はもう向こうに行け」

 その言葉で、真田は恐々とその場から逃げ出した。


「あ、ありがとうございました」

「いや、君のようなきれいな人は、何かと誘惑も多いことだろうから気をつけた方がいいよ」


「そんなことは……」

「ところで、君には彼氏はいるのかい」


「えっ、どうしてですか?」

「先程、好きな人がいるとか……」


「ああ、片思いですが、好きな人なら……」


  ――瀬戸か……。


「えっ?」

 詩織の耳には、確かにそう聞こえたような気がした。


「もし、交際している人がいないのなら、私が申し込んでもいいわけだね」

「えっ、そんなぁ……」

「まあ、返事は急がなくてもいいから、よーく考えてほしい」

 そう言い残して、斎藤は詩織の前から消えていった。


 後日、瀬戸智志に会った時、詩織は告白されたことを告げた。

 名前は出さずに、ただある人からと言った。

 それは、瀬戸の本心を探るためでもあった。

 反応をみて、彼の自分に対する自分の気持ちの本気度を計ろうとした。

 だが彼は、「そうか……」と言ったきり黙り込んでしまった。

 彼女の待っていた反応――では無い。


 詩織は何も言わなかった。

 彼女は彼からの言葉を待った。


 詩織は、瀬戸の自分に対する愛の深さを確認したかっただけだった。

 しかし時間が無駄に過ぎていくだけで、事態は変わらなかった。

 詩織は居たたまれなくなり、その場から逃げ出した。


 その夜、瀬戸から大事な話があるからと、日付と時間を指定して会う約束を打診してきた。

 詩織は自分の気持ちにけじめを付けるためにも、その日に彼と会うことを承諾した。


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