芳香は惑乱する:#11 葛藤と分岐

 樋口祥子が企画した交流会のおかげで、あの日から詩織と会える機会が増えた。

 しかし、正式に交際を申し込んだわけではなく、彼女の気持ちを確認できたわけでもない。


 ――つまり、今は友達以上恋人未満ということか……。


 彼女に対する気持ちは日々募るのだが、樋口祥子の絞殺事件のあと、二人の間にすきま風が吹くように擦れ違いの日々が続いたな。


 事件はまだ終わっていない。

 瀬戸を含め数人が警察の取り調べに応じたようだが、未だ犯人は特定されていない。

 噂では、祥子の付き合っていた彼氏の犯行だろうということだが、その彼氏が誰なのかは未だに不明らしい。


 瀬戸は、しばらく絶っていた煙草を吸いながら、詩織と会ったときのことを思い出す。

 

 彼女との会話の中で、「何かに一所懸命になって打ち込んでいる男の人の姿って素敵だと思います」という言葉があった。

 そのひとことが瀬戸の心に深く残り、闇雲に仕事に打ちこませることとなった。

 それが、彼女の望んでいることのように錯覚し、愛されることに繋がると信じた。

 彼女の存在が瀬戸の心の支えであったし、彼女の存在こそが、自分の生きがいなのだとさえ思った。


 振り返れば、仕事だけに没頭してきた日々――。

 そうすることで、彼女の愛を手に入れられると思った。

 

 それは、知らず知らずのうちに自己満足の世界を構築させることにも繋がった。

 そんな日々が、彼を覚醒させていた。

 

 しかし、彼を取り巻く環境は、知らず知らずのうちに、いろいろな変化を誘発していた。

 微塵にも感じなかった運命の岐路が――ある日突然、瀬戸に襲ってきた。


 久し振りに詩織と会うことができたときのことだった――。

 逸る気持ちを抑えて、彼女の近況を尋ねた。

 その時、彼女の口から告げられた現実に、瀬戸は閉口した。


「ある人から、交際を申し込まれました」


 彼女の口から出た言葉は、彼にとって思いもよらなかったものであった。


 交際……?


 それが何を意味するものなのかを認識するまでに数秒掛かった。

 それは、瀬戸にとって――予期もせぬ言葉であった。


 純粋に彼女を思う気持ちを有する者だけに許される、潔白性が生んだ自信と信念に浸り、ただ只管に仕事に打ち込んでいた自分が崩壊されていく。


「そうか……」

 瀬戸は、ただそれだけしか言うことができなかった。

 彼女は俯首いて黙っているだけ……。

 熱いものが瀬戸の体中を包み込んだ。


 彼女にとって、僕の存在は……?


 胸奥の何処かで今まで蓄積されていたに違いない思い、脅威、不安が、敗北感という形で、突然、姿を表し、絶望感となって瀬戸に襲いかかってきた。


 彼女が去って行く……、という実感と不安。

 きっと彼女は、随分前からサインを送っていたに違いない。

 それに、気付かなかった。

 そんな言い訳は、もう通じない。

 きっと彼女との距離は、そんな所まで離れてしまっていたのだ。


 運命は、瀬戸を置き去りにしたのだ。

 瀬戸は、詩織への気持ちを蔑ろにしていた自分を攻めた。

 瀬戸は自分だけが取り残されているような不安に襲われ、自信が疑惑に変わった。


 そういえば、忘年会の翌日、同僚の真田が妙なこと言っていたのを思い出した。

 何やら斎藤課長に、強引に引き立て役を頼まれて断り切れなかったとか……、

全然割の合わない役だったよ……、とか、それより詩織には誰か好きな人がいるらしい――とも言っていた。


 何故、真田はそんなことを言ったのか?

 彼女の好きな相手とは、今まで自分のことだと思っていたのだが……。


 違うのか……?


 それじゃ……、

 一体

 誰なんだ……?


 なかなか会う機会に恵まれなかった。

 だから、彼女と会えない状況を紛らすために――。

 彼女を手に入れたいがために、仕事に打ち込んだ。

 それが、

 自分の知らぬ間に。

 こういう結果を生むことになるとは……。


 瀬戸は吸っていた煙草を灰皿の上で揉み消して、紫煙の行方を追った。



 細かい雪が舞い落ちる日――。

 樋口祥子の葬儀が親族とごく親しい者だけでしめやかに執り行われた。


 瀬戸は葬儀に参加し、お仏前に線香を上げて、お焼香を済ませた。

 その参列者の中に、悲しみに打ち拉がれた詩織の姿を見かけたが、そんな彼女には話しかけることが瀬戸にはできなかった。


 葬儀場の外では冷たい雪が雨に変わり、線香のニオイとともに瀬戸の心の中にまで染み込んできた。


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