第二章 怪奇と数奇

芳香は惑乱する:#10 匂いと臭い

 京都府警の滝沢正人刑事は、『紫桐しとう探偵事務所』の紫桐翔琉かけると妹のつばさの二人と、行きつけの居酒屋のテーブル席で向かい合い、連日報道されている九条のマンションで起こったブティック店長の絞殺事件について語っていた。


「被害者の樋口祥子が入居しているマンションは、京都駅の八条口を少し南に少し下がったところにあります。このマンションは彼女が勤めていた『フォセット・駅ビル店』にも近い、新しくて綺麗なマンションです」

滝沢が、好物の〝たこわさ〟を肴に熱燗を口に運びながら言う。


「被害者は、洋室のベッドの上でパジャマ姿のまま、ストッキングで首を絞められ絞殺されていました。現場では、誰かと争ったという様子も、誰かが訪れたという形跡も見られませんでした。また、部屋の中で、指紋が拭き取られている箇所が数カ所ありました。その事実から、親しい者によるの犯行が濃厚であると推測されます。極めつけは発見時、部屋の鍵はすべて閉じられていたということです」


「つまり、その部屋は密室だった――と言うの?」

 翼が、目を輝かして訊いた。


「ええ、しかし、隣の部屋の住人が、時々、彼女の部屋に男性が訪ねてきていたらしいと証言していますから、多分その男性が合鍵を持っている可能性があります」

「なぁーんだ。密室じゃないのね……」

 翼は残念そうに酒を煽り、「――で、その男性のことは?」と訊いた。


「いや、隣の部屋の女性も、その男性の顔をはっきりと見たわけではないということでしたが、二度ほど、深夜帰宅したときにエレベータを降りた所から、丁度その部屋に這入る男の姿を目撃したことがあると言っていました。そのとき、その男性は鍵を使っていたらしく、彼女も、そのとき、おかしいと思ったそうです。あとから、その人物が彼女の彼氏なら有り得るか……、と納得したそうですが……。それと、そのあと、部屋の前を通ったときに、何やらバニラに似たような甘ったるい匂いがした、とも証言しています」


「バニラ?」

 翼は首を傾げた。


「ええ、多分香水の匂いか何かだとは思いますが……」と、滝沢は自信なさげに呟いた。


「ニオイといえば、漢字では、くさいニオイや、不快なニオイは臭気の『臭』で、いいニオイや好ましいニオイには香気や、匂やかの『匂』と、書き分けているわよね」

 翼が、俄か知識を口にする。


「匂やかの『ニオ』という漢字は、平安時代に日本で作られた和製漢字だね。『つつみがまえ』に『ニオヒ』の『ヒ』を書いて『匂い』としたものだ」

 翔流が補足する。


「へぇ、そうなんですか。ニオイに関しては、警察犬は凄いですよ。犬の嗅覚は人間の100万倍と言われています」

 滝沢も負けずと、俄か知識を述べる。


「そうだね。臭いの対象物によっては1億倍とも言われているよね。それに、犬の鼻はニオイを階層分け出来るので、いらない匂いを遮断し、目的の匂いのみを探すことができるらしいよ。それに、人間では男性より女性の方が嗅覚がほぼ4倍ほど鋭いらしい。無論、個人差はあるがね」翔流が残りわずかになったビールを、自らグラスに注ぎながら言った。


「へぇ、それは知らなかったです」そう言って滝沢は、自分のスーツの腕のニオイを嗅いだ。


「で、滝沢君。被害者の公休日は?」翔琉が質問する。

「えっ? ああそうでしたね。『フォセット』では、店長は全員水曜日が公休だそうです。水曜日と祝日とが重なったときは翌日の木曜日になります。それと、現在『フォセット』が出店しているテナントも、すべて水曜日を定休日としていますから、この例に洩れません」


「なるほどね。水曜日が公休日。つまり、その深夜に、絞殺された――ということか……」

 翔琉は、そう言ってビールを煽った。


「彼氏かぁ……? その男のことを知っている人物は、誰もいないの?」翼が滝沢に訊ねる。


「ええ、彼女の勤めていた株式会社『フォセット』での聞き込みにも、口を揃えたように彼氏がいたという事実を誰も知らないと答えたそうです」


「では、その人物の特定にはまだ至ってはいないと……」翼が言う。


「ええ、現在、徹底的に交友関係を捜査中です」


「その男性が、そんなに頻繁に訪れていたのなら、指紋が採集されてもおかしくない状況だが?」翔琉が訊く。


「ええ、しかし、彼女の住居では、よく仲間が集まってはパーティや飲み会などを催していたらしいのです。その所為か、数多くの指紋がいたるところから採集されています。もちろん彼女の会社の連中にも指紋の照合に協力してもらいましたが……、これといって不審な指紋は出ていません」


「つまり、その彼氏と称する男性が、最も有力な容疑者としてあがっているのね」

 翼が横から嘴を挟む。


「ええ。それと、被害者が一番親しくしていた同僚の、葉月詩織の話ですが……、被害者は彼氏から貰ったと言っていた、ティファニーのペンダントが何処かにあるはずだと言うんですが……、何処を探しても見当たらないんですよ」


「へぇ、ティファニー……?」溜息をついて翼が言った。「やっぱり犯人は彼氏よ。きっと足がつかないようにと持ち去ったのよ」


「僕もそう睨んでいます。それと……」と言って、滝沢は、彼女が言っていたストーカ被害についても話した。


「で、その手紙からしたという匂いの正体は?」

滝沢の話を聞き終えた後、翔琉が尋ねる。


「ええ、それですが……」

 滝沢は、背広の内ポケットから手帳を取り出しページを捲った。


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