第一章 合縁と奇縁

芳香は惑乱する:#1 最初の手紙

 マンションのエントランスホールに取り付けられたポストボックスで、葉月はづき詩織しおりは、自分の郵便物を取り出した。


 それを、たすき掛けにしたショルダーバッグの中に突っ込み、エレベータのボタンを押した。

 ここ一週間ほど家を留守にしていたため、久し振りの我が家だ。


 詩織は部屋に這入はいると、まずシャワーを浴びたいと思った。


 昨日まで仕事で、国際的なファッション素材の見本市「プルミエール・ヴィジョン」に参加するために、パリに行っていたのだ。


 プルミエール・ヴィジョンは、パリで毎年二回開かれる世界でも最高峰の国際的なテキスタイルの見本市で、ファブリックを中心に糸、プリント図案、服飾資材、皮革素材、縫製業者の六つの見本市で構成され、プルミエール・ヴィジョンで提案されるカラーや素材といったトレンドがファッション業界の動向に大きな影響を与えるほどの重要なイベントである。


 この見本市に参加し情報収集や研修のために会社から選出されたのが、本社の鮫島さめじま隼人はやと営業本部長、販売部長の佐伯さえき香奈かな、そして詩織の三名だった。

 仲のよい友人との観光旅行ならそれなりに楽しかったのだろうが、今回は、飽くまでも研修を兼ねた仕事がメインの海外旅行であった。

 案の定、帰国の日まで、限られた自由時間も上司に同行という気が休まらない旅行となった。


 大阪国際空港から臨時バスに乗り、新大阪駅まで行き、そこからJRの電車に乗換えて、京都駅に着いた頃には、詩織の躰は限界に近い状態だった。


 京都駅からはタクシーに乗り、マンションの前に着いたのが、数分前のことだった。


 エレベータを降りると、詩織はキャリーケースを重そうに引き摺り、我が家へと廊下を進んだ。


 ようやく、我が家の前に辿り着くと、詩織の疲れは一気に噴出した。

 これほど通路が長いものだと感じたのは、初めてのことだった。


 詩織は玄関の鍵を開け、静まりかえった我が家に、生命を与えるかのように電気のスイッチを入れた。

 シャワーでも浴びて、すっきりとしたかったが、詩織は、そのまま寝室に向かい、ベッドの上に倒れ込んだ……。


 しばらく眠っていたのだろう。


 詩織は前髪を手櫛で掻き上げながら躰を起こすと、ベッドの隅に転がっていたショルダーバッグを手繰り寄せて、郵便物の束を取り出した。

 郵便物のほとんどが不動産関係の広告チラシ。ほかに、ファーストフードの割引券つきチラシ。

 それと、無断で使用しているとしか思えないグラビアアイドルの写真を使ったデリバリィクラブとかいう疑怪しい部類のチラシ。

 それらを纏めてゴミ箱に捨てると、残ったものは電話会社からの口座振替のお知らせと、行き付けの美容室や、馴染みのショップのダイレクトメール。


 そしてワープロで書かれた一通の封筒。


 封筒の表面には詩織の名前だけ。切手は貼られていない。

 封筒を裏返し、裏面をみると、ただ『S』とだけ書かれている。


 ――『S』?


 誰だろう……?


 誰から送られたものなのか、まるっきり検討がつかない。

 詩織は首を傾げながら封を切ると、そっと中を覗きこんだ。

 そこには、ただ一枚の便箋が入っているだけ。


 便箋を取り出した瞬間、何処かで嗅いだ事のあるような匂いがした。


 何の匂い……?

 香水?


 だとしたら……、

 手紙の主は、女性?


 詩織は、いろいろと推測しながら便箋を開き、そこに書かれている文面に眼を這わせた。



    お帰りなさい。



 そこには、それだけしか書かれていない。

 やはりこれも、ワープロで書かれた文面。


 何……、これ?


 詩織は少し考えた後、その便箋を丸め封筒と一緒にゴミ箱に捨てた。


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