騒霊は屈折する:第3話 居酒屋


「まあ、仕事で遅くなっているんだろうから仕方がないよ。まあ、待ち人が来るまで、のんびりとしようや。」翔琉が、ジョッキを口に運びながら言う。


「すいませんね。お忙しいのに……」滝沢は頭を下げて言った。

「忙しいと思えば忙しい。そう思わなければそうでもないが、何か面白い話は無いかね」翔琉は、枝豆を取って口に運ぶ。


「そういえば……」滝沢は、そう前置きをして話を始めた。

「この話も、何とも言えぬ奇妙な事件なのですが……」


 その事件とは、約一ヶ月前に西京極で起こった、不思議な出来事から始まる。


 その不思議な出来事の目撃者であり、第一報を警察に通報した人物――定岡邦男さだおかくにお。五十八歳。工務店勤務。住所は、そのマンションの近くの市営住宅で、そこに細君と二人で住んでいる。

 

 彼の話によると――。


 その日の夜、彼は、仕事仲間数人と仕事を終えた後、『労いの会』と称して、行き付けの居酒屋で大いに酒を酌み交わし、何時間かの有意義な時を過ごした。

 最終電車に間に合うようにと、その宴も切のよいところでお開きとし、居酒屋の前で仲間と別れる。その後、彼は、ほろ酔い気分で最終の各駅停車の電車に乗り、居住地である阪急電鉄西京極駅で下車。

 そして改札口を抜け、西京極総合運動公園近くの、街路樹が立ち並ぶ道を、演歌を口遊みながら、ふらふらと千鳥足で自宅へと向かって歩いた。

 その自宅へと向かう道すがら、彼が何気なく前方の高層マンションに眼を向けたその時、マンションの七階付近から地上に向かって、人が飛び降りたように転落していく場面を目撃した。

「えっ?」と一瞬、彼は自分の眼を疑ったが、直ぐに、飛び降り自殺ではないか……? と思い、すぐさまその場所へと駆けつけた。

 しかし、飛び降りたと思われたマンションの下の街灯に照らされた植え込みには、猫の子一匹いなく、彼は、ただただ呆然としたという。酔ってはいたが、確かにこの眼で飛び降りるところを見た……、と彼は、近くの交番に通報に行った際に何度もそう訴えた。

 それを聞いた警官一名が、すぐさま現場に向かい確認したが、その場所には何も変わった様子はみられないと報告され、結局、単に、酔っ払いの見間違いだろうということで、その場は収まったらしい――。


「ところが……」と、滝沢は続ける。


「翌朝、そのマンションの住民から、マンションの下の草木が植えられた専用ガーデンの茂みの中に女性の死体があると通報があったのです。その場所は、昨夜の目撃者が証言した場所でした。被害者は、そのマンションの七〇一号室に住む、島田百合子しまださゆり、二十六歳、銀行員。着衣は、かなり破れていて、彼女の背中には切り傷と、飛び降りた際に出来たと思われる傷痕がいくつかみられました。死因は全身打撲による転落死です。また、彼女の部屋は、きれいに整頓されており、争った跡も、荒らされた形跡なく、遺書も見つかっていません」


 黙って滝沢の話を聞いていた翔琉が、口に付けていたジョッキをテーブルに戻し、「それで?」と促す。


「それで……、って、昨日見たときには、その場所には死体がなかったのですよ。それを現場に駆けつけた警察官も確認しています。どう考えてもおかしいでしょう?」


「君がどう考えたのかは、僕は知らないが……、何かおかしいかい?」

「だから……、私の話をちゃんと聞いていました?」

 滝沢が呆れたように言う。


「ああ、聞いていたよ」

「だったら、言い換えます。おかしいではなく、不思議でしょう?」と、顔を上げ、翔琉に同意を求める。


「つまり、何も無かったところに、出て来た……、ってことが……、かね?」

 そう言って、翔琉はメニューを手に取る。


「そうです」

「有は無から生まれるってことかな?」

「何ですか。それは?」

「道徳経だよ」

「何でここに、道徳経が出て来るんですか?」怪訝な顔で滝沢が言う。

「それに、ハイデッカーも『実存と有』の中で、『われわれの人間的現存在は、無の本来の表れの基盤においてのみ、有るものへと進み入る。しかし、現存在が、無いもの有るものというように、あるものに関係する限り、現存在としての現存在はつねに無から生じる』と言っている」

「老子もハイデッカーも、この際まったく関係ありません。僕が知りたいのは、実際に起こったこの事件のことなんですよ」

 滝沢は、口を尖らせて言う。


「幽霊じゃないのかい?」

 翔琉は、幽霊の手つきをして言う。


「ゆ、幽霊って、またぁ……。真面目にちゃんと答えてくださいよ」

 滝沢は、少し腹が立ってきた。


「僕は、いたって真面目だよ」

「じゃあ、幽霊の仕業だとでも言うのですか?」

 滝沢は、呆れ返って翔琉を睨む。


「まあ、似たようなもんだと思うよ」

「どういうことですか?」

「幽霊の正体見たりて何とやら……、だよ。だから、そこには最初から何も無かったのさ。そして、現れたんだよ」

 翔琉は、当然のように言った。


「現れたって、死体が……、ですか?」

「死体だったのかい?」


「えっ?」

 滝沢には、その確信がない。

「では、生きていたんですか?」

 滝沢が、身を乗り出して不審気味に訊く。


「そういえば、それと似たような事件が、三年前、滋賀県の山中でもあった――」

 そう言って翔琉は、三年前に起こったという事件のことを語った――。


「三年前の冬、比叡山にある途中峠の途中……、といっても洒落でもなんでもないが……」


 ――うっ……。


「翔琉さんは、自分で言って自分で突っ込むんですね」

「いや、本人はまったく意識していないのだが……、だから面白い」

「面白くないです。で、どんな事件なのですか?」


「ああ……、何処まで話したっけ?」


「もう……。途中峠の途中、までです」

「ははは、やっぱり面白い」お腹に手を当てて、翔琉は笑う。

「そんなに可笑しいですか? いい加減にしてくださいよ」眼を三角にして滝沢が言う。


「ああ……、ごめん、ごめん。ともかくだ。そこの高台に、三階建ての立派なペンションがある。ペンションの周りは樹木や草花に覆われ、ペンションの窓からは、琵琶湖が一望できる。自然に囲まれた、それは眺めのいいペンションだ。マスタは六十八歳になる白髪の男性、仮の名をA氏としておく。A氏は会社を定年退職したあと、奥さんB子さんと、いっしょにこのペンションを始めた。そこに、若い男女のカップルが二組。一方のカップルをC子とD夫、そしてもう一方のカップルはE子とF夫にしておく。それと女子大生コンビ。こちらはG子とH子だ。それにあと一人、二枚目で知的な独身男性の I 氏が一人泊まっていた。ある夜、宿泊客全員がペンションの食堂で一緒に夕食をとっていたとき、窓の外で、ちらちらと白いものが舞ってきたのが見えた。女子大生は喜んで、テラス・デッキに飛び出し、わあわあ、と最初のうちはお祭りのように騒いでいたのだが、その雪も次第に量を増やし、全員が寝付くころには、外は吹雪のような大雪となった。そして、その雪は朝方まで降り続いた。案の定、朝になると、あたり一面は白銀の世界へと変わっていた。事件は、その朝起きた」


 翔琉は、そこで話を一旦止め、「滝沢君。君は、お腹が空いていないかい?」と滝沢に訊いた。


「突然ですね。まあ、空いているかと言われると、空いていますけど……」

滝沢はあきれ顔で、それほど空腹でもなかったが、付き合い上仕方なく頷いた。


 翔琉は、カウンタに向かって「すみません」と声をかける。

「はい」と言って、若い女性店員が注文を取りに来た。


「ええと、ラーメン、ふたつ!」と、翔琉は勝手に注文する。

「居酒屋でラーメンですか?」

「そう、ここの店のラーメンは、のラーメン屋よりも美味いんだよ」と、翔琉が白い歯を見せて言った。


 注文が通り、を口にすると翔琉は、「ええと、何処まで話したっけ?」と聞くので、滝沢が「今度は、途中峠の途中じゃないですよ。翌朝、雪が積もっていたというところからです」と、苛つき気味に教える。


「ああ……。事件は、その朝起きた」と、翔琉が活弁士のような口調で始めた。

「それは、聞きました!」と、滝沢がツッコミを入れる。

「ともかく事件は、その朝に起きたんだ。その朝は、昨夜の大雪が嘘だったかのように止み、青空が広がっていた。女子大生の一人G子が眼を覚ましたとき、窓の外に雪が積もっているのを見て感動し、テラスに出た。しばらく景色を堪能していたが、ふと下を見ると、雪の上に誰かが倒れている。それで友人のH子を起こし、彼女らは急いで他の人に知らせた……」

 そこに、先程の女子店員がラーメンを運んできたので、話は一時中断。


つかちゃん、生ビールのお代わりも、ふたつね!」


 翔琉が、殻になったジョッキを手渡しながら追加注文。

 塚尾という女子店員は、終始笑顔で受け答え、奥へと消えた。


「あの……、お知り合いの方なんですか?」

「いや、名札を見ただけだよ」


「…………」


 凄い、凄すぎる……、と滝沢は一瞬思ったが、彼の性格は、滝沢には皆目理解できるものでもないと。しばらく二人で、黙ったままラーメンを食する。

 翔琉が、運ばれてきた生ビールに手を伸ばし、一口飲む。

 自分が食べ終わり、一息つけると、早速、翔琉が口を開いた。


「何処まで話したっけ?」


 やっぱり、聞いてきた……、と滝沢は思った。


 翔琉は食べるのが人一倍早い。

「翔琉さん早いですね」と言うと「君が遅いのだよ」と言う。

 滝沢は、口に含んでいたラーメンを、急いで噛み砕いて飲み込んだ。


「ええ、翌朝、雪の上に人が倒れていて、それを女子大生が発見。みんなに知らせたってところまでですよ」そう言って、滝沢はコップに手を伸ばし、水を飲んだ。


「うむ。雪の上に倒れていたのが、そのペンションのマスタのA氏だったんだよ。それも、既に事切れた状態でね」

「死んでいたんですか?」

 滝沢は身を乗り出して訊く。


「そう、死んでいた。そして、不思議なことに、その死体の周りの雪の上には、足跡がひとつも残ってはいなかったんだ」

「被害者の足跡も……、ですか?」

 滝沢はナプキンで口許を拭きながら訊いた。

「そうだよ」翔琉が、生ビールを一口飲んで言った。


「それは……、つまり、犯行が雪の振る中で行われ、そのあと、残された足跡の上に雪が降り積もり、それで足跡が消されたということでしょう」

 そのぐらいわかりますよ……、というように滝沢が答える。


「しかし、死体の上には雪が積もっていなかったんだよ」

「えっ……?」

 滝沢は、その意味を理解するまでに、ラーメンを口に入れて飲みこむほどの時間を要した。


「そこで、泊り客の一人が、ペンションの屋根の上、つまり雪の積もり具合に眼をつけた」

 翔琉は、話を続ける。


「どういう状態だったのですか」

「屋根の上に積もった雪の一部分の個所が、除雪されていたんだよ」

「つまり、誰かが除雪したってことですか?」

「ああ。それを見てすぐに、その男が、すべてを理解した」

「だ、誰ですか、その男というのは?」

「独身男性のI氏だよ。『 I 』を日本語に訳してごらん」


「『 I 』……、アイ。あっ!」


――アイ・マイ・ミーの『私』……、単数一人称の『 I 』かよ!

 ああ……、こっちが曖昧ミーだよ。

 二枚目で知的な独身男性って、自分のことか……、自分で言うなよ!

滝沢は唖然とし、翔琉を睨みつける。


「つまりこの事件と同じことが、今回も起こったと考えていい。たぶん、西京極の事件も、飛び降りたというより、誤って落ちたんだろうが、落ちた所でしばらくは生きていたと思うよ」

 生ビールを半分ほど飲んだところで、翔琉が言う。


「落ちたところ……、って茂みの中じゃないんですか?」

 滝沢は、翔琉の言っている意味がわからない。


「ああ、茂みの中に落ちるまでの数時間は、気を失ったままの状態で、近くの街路樹の枝に引っかかっていたのさ」


 翔琉は煙草を取り出して、火を点けた。


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