第五奇譚:「騒霊は屈折する/The poltergeist is refracted」

PROLOGUE

騒霊は屈折する:断続音/Intermittent Noise


     *


 コツコツ……。

 コツコツ……、コツコツ。


 何処からか……、音がする。


 真夜中の静寂を破って、断続的に……。

 コツコツとフローリングの床を敲くような音がする。


 夜っぴて繰り返し聞こえる耳障りな音に――。


 安眠を妨げる無神経な行為に――。


 田尾たお香住かすみの神経は相当参っていた。

 意識すればするほど、その断続音は益々大きく聞こえてくる。

 眠るという行為を妨げられることが、これほど苛立ちを覚えるものなのかと、香住はベッドの上で寝返りを打つと、隣で小さく鼾をかいて眠っている夫の背を揺さ振った――。


 ――三〇五号室。


 それが、田尾夫婦の住居である。


 結婚を間近に控え、二人の新居となる物件を探していたとき、身内から、空いている部屋があるから……、と言って紹介されたのが、この賃貸マンションであった。

 築一年余りの物件で、環境、間取り、交通の便、それに家賃と、どれをとっても希望の枠内であった。

 竣工して一年未満で、未入居以外の物件を新築マンションと呼ばないそうだが、このマンションは、何処も彼処も綺麗で、設備も真新しかった。


 夫の孝之たかゆきは、これならと、たいそう気に入った様子であった。

 二人の意見が一致し、即決のようなかたちで、このマンションへの入居を決めた。

 

入居した当初、このマンションは、とても静かで快適な住まいだった――。

 快適な新婚生活が送れると、香住はキッチンに立つたびに嬉しさが込み上げ、自然と顔が緩んでしまう日々が続いた。


 ところが――


 ここ、二、三日、変な物音が聞こえてくる。


 それも毎日決まって、深夜だった。


 その物音は、いったい何処から聞こえてくるのだろう……?


 音の根源を限定できるほど確かではない。

 近所の人は誰も文句を言わないのか――と、香住は不思議に思う。

 何処から発せられる騒音か不明だから……、ご近所の手前のあって、ただ黙っているだけなのか?

 それとも、この部屋だけに聞こえる物音なのか?


 香住には、故意に誰かが行なっている悪質な嫌がらせではなのかとさえ思える。


 ――しかし、どうして我が家に?

 香住は、思いあたる節がないかと考えてみた。


 ――あっ?


 そういえば……、越して来た時に、デパートで買った粗品を持参して、隣接する同階のお宅と、階上のお宅に、引越しの挨拶にまわった。しかし、その時、階下の二〇五号室だけが留守で……、それで、しかたなく、後日、もう一度改めて伺うということにして……。


 ――あっ!

 香住は、そのまま忘れていたことに気がついた。


 ――まさか、そんな事が原因だなんて……。


 いや、あの断続音は階下からしたものだとは、断定できない。

 しかし、その音は床の下から響いて聞こえるように感じる。

 考え過ぎなのかも知れないと香住は、かぶりを振った。


「ねぇ、起きて」

 居た堪れない不安に苛まれながら、香住は孝之の肩を強く揺さぶった。


「う……、うん」

 酔眼朦朧としたような彷彿とした眸をして孝之が振り返り、香住の顔を見据えた。


「ねぇ、またよ」

 香住は夫に訴えた。


「な……、何が……?」


「あの音よ。ほら……、聞こえるでしょう?」

 香住は憎悪をたぎらせ、階下を指差した。


 コツコツ……、コツコツ。


 香住は元来、至って楽天家で、どちらかと言うとポジティブ思考であると自負しているのだが、ここ数日間続いている断続音で、睡眠不足と過度の心的疲労が重なり、知らぬ間に神経が過敏に反応するほどにノイローゼに陥っていた。


 コツコツ……、コツコツ。


 孝之は怪訝そうに眉を顰めて、徐にベッドから抜け出すと、床の上にうつ伏せになり、片方の耳を床につけた。

「なるほど、下から聞こえてくるように思えるが、こんな真夜中に一体何をしているんだ。全く、非常識にも程がある」

 孝之はそう言って立ち上がると、枕許の置時計に目を遣る。


 午前一時二十分――。


「で、下には、どんな奴が住んでいるのか君は知らないのか?」

 孝之が問う。


「ええ、知らないわ」

 香住は、ネグリジェの胸元の紐を握り締めながら言った。


「取り敢えず、明日、管理会社に抗議の電話しておくから……」

 孝之はそう言いながらカーテンを開け、サッシのガラス戸に手をかけた。

 ガラス戸が開いたとたん、生暖かい風が部屋の中に舞い込んできた。

 孝之は、外気に押し戻されそうになりながらもベランダに出た。


 香住も夫の背後から付いて行く。

 孝之が、手摺りに体重をかけ覗き込むように階下の様子を窺った。


 階下の住人はまだ起きているらしく、その部屋の明かりが外気に漏れて見えた。


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