素数は無限にある:滋賀2-3


     3


 翼の兄、翔琉が愛車の白いセダンで到着したのは、それから三十分ほど後のことだった。

 朝倉警部補は、久闊を叙し翔琉の到着を喜んだ。


 翔琉は、現場を隈なく確認しながら朝倉から話を聞き、鑑識の人にもいろいろと質問した後、順番に関係者一人ひとりにも話を聞いた。


 部屋は、一階に山本夫婦の部屋。二階の『201』号室から『203』号室には、翼、蘭、瞳と順番に並び、階段を挟んで左側の『204』号室から『206』号室には、郁子、知乃、峰子と並ぶ。そして三階は、『301』号室が正明。『302』号室には綾音。『303』号室が正明の書斎。『304』号室は空室で、『305』号室が望月。奥の『306』号室には広中と、各々別々に振り当てられていた。

 すべての聞き取りが終わると翔琉は、翼を呼びつけ何やら二人で打ち合わせをする。


 時刻は0時ジャスト――。ラウンジに関係者一同を集め、翔琉が言う。


「まずは、綾音さん。お誕生日おめでとう」

「ああ、ありがとうございます」綾音は不意をつかれたかのように、一瞬面食らった顔をしたが、にっこりと微笑み返し礼を言った。


「それではこれから、『304』号室。つまり郁子さんの部屋の真上にあたる部屋で実験を行います。その部屋は、今回使用されずに空室でした。現場と、まったく同じ造りだそうなので代用の部屋としてお借りしましたので、皆さんは三階の部屋へお願いします」そう言って、翔琉は先頭に立って階段を上る。


「紫桐さん。今から何を? まさか、これは他殺だとでも……」

 翔琉の後をついて行きながら、朝倉が聞く。

「ええ、まずは密室のトリックを解明します」

 翔琉は、振り返って、朝倉の顔を見つめ、莞爾と笑った。

「えっ?」朝倉は茫然とした顔で、翔琉を見つめた。


 用意された部屋に着くと、ドアを開け一同を室内に入れる。


「みなさん。いいですか?」そう言うと、翔琉はカバンの中から釣り用のリールと指輪を取り出した。「それではこれから、この事件の犯行のトリックを実践して皆さんにお見せしますが……、知乃さん、お体の方は大丈夫ですか」


「ええ、ただ、寝不足で貧血をおこしたようです。少し眠るとよくなりました」

「そうですか。寝不足はよくありませんよ。お体には十分気をつけてくださいね」

「ええ、ありがとうございます」


「そこで、知乃さん。誠に申し訳ありませんが、被害者である郁子さんの役をお願いしたいのです。よろしいですか?」


「えっ? わ、私が……、ですか?」

「ええ、是非。この指輪は、たぶん貴女の指に、お似合いだと思いますので……」

 そう言って翔琉は、知乃に指輪を渡して言う。「それを、左手の中指に嵌めてください」

 知乃は戸惑いながら頷き、その指輪をして、翔琉の指示を待つ。


「それと、私の妹に、犯人役をやってもらいます」

 少し不満そうな面持ちで、翼が一歩前に出る。


「では、知乃さん、お願いします。あの時の郁子さんが、どのような格好で倒れていたか……、思い出せる範囲で結構ですから」と、翔琉は言った。

 知乃は、戸惑いながらも床に膝をつく。


「もう少し、こっち側だよ」正明が知乃に言う。

「そうだったわ」峰子が同意して、郁子が倒れていた位置を指差した。

 知乃は立ち上がり、その位置で俯せになって横たわった。


「違うわ。たしか仰向けだったと思うけど」綾音が言う。

「そうだ。仰向けだった」広中が同意する。

 知乃は言われたとおりに、躰を入れ替えた。


「右手が首の横で、左手はドアの方に伸ばして」瞳が口添えする。

「そうそう、そんな感じ」蘭が相槌を打つ。

「皆さんが郁子さんの死体を見た時の状態は、これで間違いないですね」

 望月以外の人が、一斉に頷く。


 それを確認すると翔琉は、翼にリールを手渡して目配せを交わす。

「では、始めます」と言って、翔琉が一同の顔を見渡した。


「まず、釣り糸の端を遺体の左の中指にはめられた指輪に通します。通した糸の端とリールを持ち、リール側の糸を弛めながら少しずつドアの方に向かいます。同時に弛んだ分だけ釣り糸側の糸を引っ張り、両方の長さが均等になるように調整しながら、ドアまで行きます」


 翼は、翔琉の支持どおりに細工し、ドアに向かった。

 そこで、翔琉が説明を再開する。


「ドアの前に到着すると、釣り糸側の糸の長さを指輪からドアまでの距離の二倍強にします。そうしておくことが重要なのです。そうしておいて、リール側の糸を、少し余裕を持ってリールから切断します。そこで、両端の釣り糸をドアの下方部にあるガラリの隙間から外に出します。そしてドアを慎重に開けて外に出ます。廊下に誰もいないことを確認し、そしてドアに鍵をかけます」

 翼は、そのとおりに工作し、外に出て鍵をかけた。


 一同は室内で、釣り糸の行方を見つめる。


「次に、ガラリの隙間から出ている切断した方の釣り糸を、通路側のガラリの面に押しピンか何かで固定します。そこで、もう一方の釣り糸を慎重に張った状態になるまで引き、手ごたえを感じたところで止めます。それから、その釣り糸の端を鍵の穴の部分に通し、通った糸を鍵のキーヘッドとキーウェイの付け根に一周巻きつけます。その糸をもう一度穴に戻します。後は、その鍵をガラリの位置まで移動させ、ガラリの隙間から鍵を室内に入れます。後は、固定した側の釣り糸を引き、それに合わせてもう一方の糸をゆっくりと弛めていけば、丁度、糸が無くなる寸前で、鍵は指輪のところまで運ばれます。そのまま糸を引き続けば、鍵は手の中に残り、釣り糸は鍵から離れ、そのままガラリの隙間から外に出て来ます」


「あっ!」一同は同時に声を上げた。


 鍵が目の前を通過していく――少しずつ、少しずつ。

 そして、ついに指輪のところで止まる――釣り糸は、まだ引かれている。

 そして、釣り糸の端が目の前を通過する――釣り糸が指輪からスルリと抜ける。

 鍵だけが、手の中に納まる――釣り糸はガラリの隙間から消えていく。


「あっ! そういうことだったのか! しかし、短時間で、そんなに込み入った細工ができますかね?」朝倉が、声を上げる。


「ええ、今の実験は、みなさんにわかりやすく説明するため、リールなどを使って少し変えています。実際は、犯人は最初から自分の部屋で測っておいた長さの釣り糸だけを用意していたのでしょう。それだけでも、かなり時間を短縮できます。ああ、知乃さんもう立っていただいてけっこうですよ。ありがとうございました」翔琉はドアまで歩いて行き、鍵を開けて翼を部屋の中に招き入れた。


「で、自殺ではないとしたら、犯人は一体誰なのですか?」広中が詰め寄って聞く。


「わかりませんか?」翔琉が一同を見渡す。

「ええ」広中と朝倉が、同時に返事をする。


「今の実験を見ていたでしょう」

「どういうことですか?」朝倉が首を傾げて問う。


「それでは、別のことを尋ねますね。犯行後の遺体の状態を見ていない人物が、この中にいますよね」

「ええ、たしか、望月さん……」綾音が答え、望月が頷く。


「ですね。望月さんは、ダイニングで酔いつぶれて眠っていたそうです。山本夫妻がそれを証言しています。ですから、遺体が運ばれた後で事件を知りました。彼にはアリバイがあります。現場にいながら遺体の状態を見ていない人が他にもいます」


「私……」知乃が、立ち上がって言う。


「そうです。知乃さん、貴女は、郁子さんが亡くなっているのをドアの外の廊下で聞き、その場で気を失いました。そして、その後、隣の貴方の部屋に運ばれました」


「そうです。僕が運びました」広中が答える。


「では、ここで一度話を変えます。ところで、郁子さんが指輪をした状態で亡くなっていたことを、皆さんはご存知でしたか?」翔琉が、パーティに参加した一同に問う。


「いいえ、そこまでは……、夕食の時までは、何もしていなかったけれど……。ああ、その指輪って、もしかしてパーティ用にしたのではないかしら」峰子が言う。


「私たちも、気付かなかったです」瞳と蘭が言う。


「ええ、たぶん皆さんがそうだと思います。指輪は鍵の下になっていて、よく見ないとわかりません。それに、普通はそんなところには意識は届きません。目の前に死体があるという事実が、事実に対して目隠しをしますから……、しかし、彼女は指輪をしていました」


「ええ、高価そうな指輪でした」朝倉が言う。


「たしか、その指輪は彼女の誕生日に彼からプレゼントされたものだって、それに、その指輪を、バースデイパーティの席でお見せします。と言っていたわ」

 翼が、知乃の方を見てそのことを確認する。


「そうです。実はその指輪は、郁子さんの誕生日に、正明さんが彼女にプレゼントしたものです。そうですね、正明さん」

 正明は下を向いたままで頷いた。


「えっ!」一斉にみんなが、正明の方を向く。


「そうです。皆さんは、その事実を知らなかったはずです……。彼女が言うところの彼とは……、正明氏のことだったのです」翔琉は正明を見つめて、続ける。「正明氏は、彼女との関係を秘密にしていました。それは、彼女が自分の娘と同じ年齢だということもあって今まで言い出せなかったのかはともかく、娘のバースデイパーティの席までは、みんなには内緒にしておこう……、と二人は約束していたのです」


「そうだったの……」峰子が肩の力を落とし、そのまま黙る。


「彼女は、今日のこの時までは、指輪をしないでいました。彼との約束です。しかし、郁子さんは、嬉しさのあまりにか、友人であり同僚の知乃さんだけには、話してしまったのです。他の人には内緒で、と断ったうえで、ですが……」

 一同が、知乃に視線を向ける。知乃は、下を向いたまま唇を震わす。


 そして翔琉は続けて言う。


「そんな彼女が自殺するはずがありません。なぜなら、その指輪は『エンゲージリング』だったのですから……、知乃さんは、郁子さんから誕生日に指輪を彼から貰ったと聞かされた時に、その相手の名前を聞き出したのでしょう。それを知った知乃さんは、相当のショックを受けたでしょうね。何故なら、彼女自身、以前から正明氏に密かな恋心を抱いたからです。彼女は悩み、苦しみました。しかし、彼女は友情の方を選んだのです」


 正明は驚いたように知乃の顔を見つめ、知乃は顔を両手で覆い泣き崩れた。

「年甲斐もなく私は、娘と同じ年の郁子と交際していました」正明が重そうに口を開けた。「そして今日、娘の誕生日の席で婚約を発表すると彼女と約束していました」


「そうだったの……」綾音は力無く呟いた。


「犯人は知乃さんではありませんよ。私は、殺人現場を見ていないのは一人だけだとは言っていませんよ」その言葉に一同は唖然とした顔で翔琉を見た。


「犯人は……」翔琉は広中に視線を移し、そして言った。「広中数馬さん、貴方です」


「えっ?」一同が一斉に、広中に視線を移す。


「先程の現場検証で、貴方は見ていないはずの死体の状況を口にしていましたよね。知乃さんは見ていないので、当然の対応を取っていましたが、貴方も部屋の中には入っていない。知乃さんと峰子さんが証言してくれました。それに対して口を挟んだ。貴方は、食事を終えた後、望月氏と二人でリビングに残っていたと警察には話したようですが、実は、その場には三十分も居なかった。望月氏が眠ってしまい、貴方はその席を外している。山本婦人が見ていたのですよ。何処に行っていたのですか?」


「ト、トイレだよ、トイレ! 酒に酔って気分が悪くなったのでトイレに行っていたんだ」


「トイレですか、何処のトイレですか?」


「一階のトイレだ!」向きになって広中が大声で叫んだ。


「そのトイレで、誰かとお会いになりましたか」


「いや……、誰とも」


「おかしいですね。その時間、山本氏がトイレの掃除をしていたのですよ。望月さんの吐瀉物を掃除するために」


「えっ?」


「それと、あなたは例年パーティに招待されていますよね。あの部屋にも宿泊したことがあるのでは……? いくら釣り糸の長さを測ると言っても、自分の部屋と他の部屋の構造が一緒だとは限りませんからね。広中数馬さん……、いや、仲真博和さん。広中数馬というのは筆名ですよね。広中数馬というのは、本名である仲真博和のアナグラムではないのですか?」


『ひろなかかずま』

『なかまひろかず』


 博和は頭を抱えて、その場に崩れ落ちた。


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