素数は無限にある:滋賀1-2


     2


 翼は、ノックの音で眼を覚ました。

 時計を見ると、四時。テレビは点いたまま。

 あのまま眠り込んでしまっていたようだ。


「はい」と、ドア越しに返事をすると、「先にリビングに行っとくね」と瞳の声。

「ええ、わかった」と答え、翼は化粧を直しに急いで洗面所に向かう――といっても、彼女の化粧は簡単だ。薄ピンク色のリップクリームを口許に塗り、日焼け止めのローションを顔につけるぐらい。


 翼は、黒地に花柄のシフォンワンピースの上に、オフホワイトのサマージャケットを羽織り、部屋を出てリビングへと向かった。


 広々としたリビングには、ちょっとしたステージがあり、そこにはカラオケセットが設置されてあった。その前には、六人掛けの円卓が左右に、ふたつ。それぞれに白いレースのテーブルクロスが眩しい。翼は一瞬、その配置はまるで結婚式のようだと思った。


 翼は綾音から指定された右側のテーブルに座る。

 それぞれのテーブルの上には、素敵なキャンドルと、既に盛大なご馳走が並べられ、翼は思わず唾を飲み込んだ。


 誕生日パーティは明日だというのに、この豪華さは一体どうしたのだろう――あっ、そうか。午前〇時を過ぎれば、綾音の誕生日だと翼は納得する。


 この衣装のままでは駄目かなぁ――と一瞬考えるが、蘭と瞳、二人の姿を見て少し安心する。

 蘭は、アイボリィにピンク系の花柄のプリントワンピースにストールを羽織り、胸にはピンクのコサージュを付けた装いで、瞳は、黒い小さなドット格の青い膝丈のカクテルドレスで、首にはティファニーのテンダネスハートクロスペンダントが映る。


 翼が座ったテーブルには、綾音の友人たちと、若いファッションデザイナの二人。


「翼さん……、でしたよね」

 既に、ドレスアップして座っている女性が話しかけてきた。


「はい。えーと、貴女は……、相川……?」


「はい、相川郁子と申します」


「ああ、そしてそちらが……?」


「仲井知乃です」


「翼さんは、綾音さんと同い歳ですよね」郁子が尋ねる。

「はい、相川さんはおいくつですか?」

「私も二十六です」郁子が答える。

「えっ、じゃあ、同い年の人ばかり?」

「ええと、翼さんと友人の方二人。それと、彩音さん。郁子と私」知乃が、ゆっくり指を折りながら言った。「みんなで六人」

「そうなんだ。知乃さんも一緒なんだ。凄い」翼が目を大きく見開いて言う。

「おお、そんなら、このテーブル席は、オールレディス、イズ、トウェンティ・シックスイヤーズ、オールドってことか」蘭が、流暢な発音で言うと、「ギネスもんやわ」と、瞳も訳のわからないことを言って、二人は盛り上がって、はしゃぐ。


「ねえ、翼」綾音が、ぼそっと言う。「さっきの問題、いくら考えても、まったくわからないわ」

「ああ、あれね……」

 その時、スピーカから声がした。


 前を見ると、望月がマイクを手にしてステージに立っていた。

「あー、あー、お食事の準備も整いましたようですので、僭越ながら私、望月が、乾杯の音頭を取らせていただきます。なお、乾杯の後は、どうぞ皆さんご自由にお召し上がりください。それでは、綾音お嬢様の、二十……、いや、女性の歳を告げるのは礼儀に反します」


「そのとおり!」蘭が、一声かける。

 笑いが起こって、望月は照れくさそうにして、みんなに頭を下げる。


「お誕生日の前日ではありますが、まあ、前夜祭といいますか、イブとでも申しますか……、ともかく皆さま、席をお立ちになって、グラスをお取りください」

 みんなが席を立ち、綾音に向かって一斉にグラスを高く掲げた。


「よろしいですか? それでは、お嬢様の誕生日を祝しまして……、乾杯!」

 グラスを合わせ、祝福の拍手が沸き起こった。

 望月の音頭で、その夕べは幕を開けた――。


 宴もたけなわ――


 望月が、自慢の喉を聞かす。

 望月は先ほどから三曲ばかり続けて歌っている。歌唱力はあるほうだが、歳のわりに古い歌が多い。会社の接待で、年配の人ばかりとスナックにでも行っているのだろう、と翼はみた。


 望月の歌が終わり、一同が拍手をする。

 望月は、峰子にマイクを渡した。


「私、先月二十六歳になったばかりなんですよ」郁子が言う。

「あ、それは、それは……、後れ馳せながら、おめでとうございます」

 翼が言うと、郁子は嬉しそうな表情を浮かべ、「ありがとうございます」と言って俯いた。


「その時、彼から指輪をプレゼントされたらしいのよ」横から知乃が言う。

「まあ、素敵。で、その指輪は?」翼が郁子の指を見つめて言う。

「ええ……、今はしていませんけれど、バースデイパーティの席でお見せします。ただ、それまでは、このことはみんなには内緒でお願いします」知乃を横目で窺い、郁子は翼にそう言った。


 その時、知乃が、「あっ」と言って口に手を当てた。


 峰子の歌が終わる――


「次は、翼さんに一曲お願いしょうかな」望月がマイクを持って翼のところにやって来る。

「えっ? 私?」

「お願いしますよ、翼さん。こんな美しいお方の美声が聞けるなんてことは、滅多にありませんから」

「それはどういう意味ですか?」吉田峰子が望月を睨む。

「い、いや、そういう意味じゃ……」望月は、狼狽して只管弁解する。

「では、一曲歌います」翼は、そう言って席を立つと、モニタの前まで行き、リンダ・ロンシュタットの『LOVE HAS NO PRIDE』をアカペラで歌う。


 翼が歌い終わると、一同が席を立ち、スタンディングオベーションよろしく万雷の拍手。


「うわぁ、凄い。プロ並みの歌唱力だ。英語の発音もバッチリだ」

 望月は興奮して、みんなに同意を求める。


 翼は、正明のテーブルに招かれ、その席に座った。

「これじゃ、この後、もう誰も歌えないわ」峰子が、マイクを受け取って言う。

 知乃と郁子が、こちらのテーブルにやってきた。


「いやぁ素敵でした。どうぞ」正明が、新しいグラスを翼に渡し、ビールを勧める。

「ところで、翼さんは、探偵のお仕事をなさっていらっしゃるそうで……」

「ええ、兄の助手をしています。しかし、仕事はほとんど事務的なことばかりですが」

「では、お兄様が探偵ですか?」

「ええ、明日こちらに、参ります」

「それは、お会いするのが楽しみですね。こんな美しい方のお兄様なら、きっと美男子でしょうね」

「そう伝えておきます。兄もきっと、喜ぶことでしょう」


「探偵って、殺人事件みたいな場面に遭遇することもあるの?」峰子が横から会話に入る。

「ええ。でも、ほとんどは浮気調査と素行調査です」

「そうでしょうね。探偵小説のように探偵が活躍できる事件って、現実では、ほとんどありませんものね」峰子は、広中の方に顔を向けて言う。


「そう言えば、広中さんは推理作家でしたわよね」峰子が言う。

「ええ、マニアック過ぎるのかどうか、あんまり売れていませんから、みなさん御存じではないでしょうけれど?」広中は、謙遜するようにして含羞した。

「私、広中さんの小説、読みましたよ。と言っても、知乃に薦められて読んだだけですけど」郁子が言う。「知乃は、大の推理小説マニアですから……」

「そうなんですか。私も、推理小説が好きで、よく読んでいます。ただし日本のミステリィばっかりですけれど……、広中さんは、どんなミステリィをお書きになっているんですか?」翼が言う。


「ああ、僕は、ジョン・ディクスン・カーが大好きでね。彼に随分影響を受けました。その所為か、専ら密室トリックを使った本格物ばかりですね」

「たしか、知乃も本格物が大好きだって言っていたわ」


 そう言った郁子の視線は、翼の上を通り過ぎた。


 翼が郁子の視線を窺い、振り返ってみると、そこには、知乃が正明に、お酌をしている場面があった。

 その横で、急に望月が席を立ち、千鳥足でトイレの方に向かった。


「どうぞ、どうぞ、もう一杯」

 突然、横から峰子が、ビール瓶を持ってやって来た。

 翼は、残っているビールを飲み乾し、空になったグラスを差し出した。そこで、改めて回りの様子を確認する。


 向こうの円卓は空席だ。


 ――蘭と瞳は……?

 よく見ると二人は、綾音と一緒に夜風にあたっているのか、デッキテラスに出ていた。


「知乃はね。私の大親友なんです。デザイン学校の時からの親友で、知乃には何でも話せるの」郁子が言う。

「へえー、そんな友達がいるなんて幸せですね」翼は羨ましそうに応える。

「翼さんだって、たくさん友達がいらっしゃるでしょう」

「ええ、みんな当てにならない悪友ばかりですけど……」

 郁子がクスッと笑う。


「でも、一ヶ月ほど前からかなぁ。彼女、何か、急によそよそしくなってきて……」

「何か、思い当たることは?」翼が訊く。

「ええ、長野県の実家にいる彼女の父親が、再婚したって話を聞いた時からかな?」

「再婚ですか」

「ええ、知乃は、自分の母親が、彼女が二歳の時に亡くなったと、聞かされていたのをつい最近まで信じていていたらしいのですが……」

「そうでは無かった?」

「ええ、どんな経緯で知ったのかは言いませんでしたけれど、それまで亡くなったと聞いていた母親の話は父親の作り話で、実は、母親とは離婚していたということがわかったそうです。その上、別れた母親側には、妹がいることもわかったそうです」

 郁子は、酔っているのか、翼の耳許で声を潜め、そんなことまで言った。


「そ、そうなの……」翼はどう返事をしていいのか、笑顔を見せて峰子と話している知乃の横顔を、何気なく見つめた。


「そ、それれは、あと三時間程でぇ!」と言う大きな声が、リビングいっぱいに突然響き渡ったので、翼は声のするほうに顔を向けた。


「綾音お嬢様が、誕生日を迎えます」そう言って望月は、拍手を求めた。

 翼が、時計に眼をやると、九時を少し回ったところだった。


「取り敢えずぅ、前夜祭はこれくらいにしておいて、今夜〇時の時報とともにぃ、バースデイパーティを執り行います。皆様は、三十分前にはラウンジのほうにぃ、お集まりくらはい。それまれは、各自ご自由にしていたらいて結構れす」望月は、だいぶ飲んだらしく、呂律が回らないのか、おかしな口調でみんなに告げた。


 デッキテラスから戻ってきた三人は、翼のいる円卓に座る。

 望月が、またトイレに向かった。


 しばらく、他愛のない話で盛り上がったが、「じゃあ、私ひと眠りして、ドレスアップしてくるわ」と峰子がそう言って、席を立つのを引き金に、「じゃあ、私も」と知乃が続く。


「郁子さんは?」翼が尋ねる。

「私も、一旦部屋に戻ろうかな」郁子はそう言って微笑む。

「翼。私たちも部屋に戻ろうよ」

 赤い顔をした瞳と蘭が、同時に翼に言う。

「そうね」そう言って翼も席を立った。

 来賓の女性人たちは、そろって自室に戻るという。


 主役とご主人にその旨を伝えると、綾音は、「私も自室に戻ります」と言って父親に告げた。


「それでは此処で……、一旦お開きに」と言って父親の正明と席を立ち、その場に残っている広中数馬と望月貞明に、「あんまり飲まずに、程々に」と言って退室する。

 彼ら二人だけは、リビングに残ってまだ飲むようだ。


 途中で翼が振り返ると、山本夫妻が、空いたテーブルから後片付けを始めていた。


 その時、望月がトイレから戻って来て、山本に耳打ちをした。


 その後すぐに、山本がバケツを片手に、翼の前を横切って行った。


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