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素数は無限にある:滋賀1-1


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 紫桐しとうつばさが、京都から愛車の黒いミニクーパSに乗り、琵琶湖の湖畔に建てられた天羽あまは家の別荘にやって来たのは、七月二十七日の午後十二時頃であった。


 その日より一ヶ月ほど前、翼の元に一通の手紙が届いた。

 大学の時の友人、天羽綾音あやねからの、彼女の二十六歳になるバースデイパーティへの招待状だった。


 翼の誕生日といえば、行きつけの居酒屋を貸切り、幾人かの友人を招待してのパーティが催される。

 しかし、その宴も、いつ何処からともなく兄の友人たちと称する怪しい人たちが集まり、最終的には彼らの飲み会へと変貌するのがお決まりのコースとなっている。いつからそうなったのかは定かではないが……、つまり、彼らにとっては、お酒が飲める口実があれば何だっていいのである。


 初めての時は、途中で趣旨が変わっていることに対して、今日の主役は私よ――と随分呆れたものだが、毎年のこととなると、翼もあきらめがついたのか、ここ何年かは、彼らと一緒に騒ぐようになった。まあ、従来彼女も、大勢で騒ぐことが決して嫌いなほうではないので、それなりにその場では結構楽しんでいる。


 綾音の父親、天羽正明まさあきは、京都の西大路通りに本社ビルを構えるアパレルメーカの社長で、他にもいくつかのテナントビルも所有している。彼は、現在独身である。というのも、彼の妻は十年前に癌で亡くなっている。


 彼は、毎年、愛娘のバースデイパーティには、娘の友人と自社社員数名を、彼女の誕生日の前日から、その別荘に招いた。


 天羽家の別荘は、琵琶湖左岸の国道161号線沿いにある勝野というところにあった。

 JR湖西線の近江高島駅で降りると、すぐに萩の浜海水浴場がある。別荘は、そこから少し南よりに位置する。


 高い塀に囲まれたゲートのインターフォンで来訪を告げると、自動的にゲートが開かれ、翼は愛車を敷地内に辷り込ませた。

 塀の中はとても広く、針葉樹がバランスよく配置され、それらは、よく手入れされていた。


 玄関口で出迎えたのは、その別荘の管理と来客の世話をしている山本という、お互いに白髪の老夫婦であった。


 翼が通されたラウンジには、既に大勢の先客がいて、各々ソファに座って談笑していた。


 綾音が翼に気付き、同時に綾音の父親、正明が挨拶に来た。

 綾音の父親とは以前から面識があったので、翼は招待へのお礼と礼儀的な挨拶を済ませた。

 翼は綾音から、その場にいた人たちを紹介された。


 中央のソファに腰掛け、夏の全国高校野球地区大会決勝戦のテレビ中継に見入っていたのが、父親、正明が懇意にしている作家の広中ひろなか数馬かずまと、正明の会社の社員で、営業部長の望月もりづき貞明さだあき、販売部長の吉田よしだ峰子みねこ。この三人は毎年招待されている常連さんらしい。そして、ファッションデザイナの仲井なかい知乃ちの相川あいかわ郁子いくこは、窓際のテーブルに陣取ってグラスを片手にして談笑していた。


 翼とは面識の無い人たちとの紹介が終わると、湖畔側のガラス戸のドアが開き、綾音と翼との共通の友人である、岡田おかだらんと、森川もりかわひとみの二人が姿を見せた。ガラス戸の向こうにはデッキテラスがあり、彼女らは、そこから琵琶湖を見ていた――と言った。


 翼は、彼女らとの久し振りの再会を果たし、しばらく談笑していたが、綾音が山本を呼び、翼を部屋に案内するようにと告げた。


 山本が、翼が持ってきた荷物を手にして先に進む。

 翼は、山本の後に付いて階段を上り、二階に用意されたという個室へと向かった。


 折り返し階段の踊り場で一八〇度方向転換をして昇って行くと、二階の階段前のスペースを挟むようにして、左右に三室ずつ同じような部屋が配置されていた。

 翼は、その右側の一番奥の部屋に通された。


 たぶん三階も同じような構造になっていて、普段は社員の慰安のための宿舎としても利用されているのだろうと、翼は想像した。


「こちらの部屋をお使いください」山本が荷物を置くと、短いチェーンに小さなタグが付いた部屋の鍵を翼に渡し、「それでは、ごゆっくり」と会釈をして去っていった。


 ドア正面にはナンバプレート。部屋番号は、『201』。下方には、換気用にガラリが取り付けられている。翼はタグに付いている数字を確認し、その鍵で部屋のドアを開けた。


 その部屋は、個室といっても十二畳ほどのゆったりとした部屋だった。ちょっとしたワンルームマンションのように小型テレビとクーラは勿論のこと、小さな丸いテーブルとソファ、ベッドにクローゼット、ユニットバスやトイレまで付いた立派な部屋である。


 その部屋の湖畔側には一対のフランス窓があり、巻き上げ式のシェードが窓ガラスを覆っていた。


 翼はシェードを開け、窓から見える風景を眺めた。

 眩しく降り注ぐ光の先には、雄大な琵琶湖が広がっていた。

 翼の視線は左右に移動した。


 眼下には、小さな入江が広がり、左右の小高い丘には針葉樹が植えられていて、その先は岬になっている。真下にあるデッキテラスからは、白い砂浜が波際まで続く。


 丘の周囲には、別荘を取り囲むように三メートルほどの塀がめぐらされ、それにより部外者の視線と立ち入りを禁じていた。それは、プライベートビーチであった。


 取り敢えずシャワーを浴び、軽装に着替えると、翼は階下へと向かった。


 翼が、吹き向けのロビィのソファに座り込み、そこに置かれてあった新聞に手を伸ばし、何とはなしに紙面に眼を通していると、それを、目敏く見つけた岡田蘭が、森川瞳と綾音といっしょに、翼のところにやってきた。


「ねえ、翼。この問題わかる?」

 瞳が翼の横に座り、パズルの本を見ながら言う。


「三百人の人がいて、一番から三百番までの番号が付いている。番号が、二でも三でも割り切れるが、五では割り切れない人は何人か?」


「な、難しいやろ」

 翼の前に座り、蘭が同意を求める。


「答え……、言ってもいい?」

「えっ、もうわかったの?」驚いたように瞳が言う。

「ええ、だって、簡単な問題よ。暗算で、すぐに解けるでしょ?」


「そんなアホな! 答えは言わんといて、私は、まだ考えている最中やし……、ホンで、答えは?」

 蘭はあっさりと諦め、翼に聞く。


「四十人よ」


「どうして……?」瞳の前の席で綾音が聞く。


「二でも三でも割り切れるのは六の倍数でしょ。だから三百人分の六は五十人。そのうち五でも割り切れるのが三十の倍数だから、三百人中で十人。五十人から十人引けば四十人」


「正解。翼には勝てないなぁ……、それじゃ、これは?」瞳はページを捲り、次の問題を言う


「『素数は無限にある』このことを証明せよ」

「ゲッ、何やのんそれ。クイズやあらへんやろ? 頭が痛うなるわ」頭を抱えて蘭が叫ぶ。


「背理法ね」翼が一言いう。

「何、それ?」蘭は、また頭を抱える。


「取り敢えず、この問題の制限時間は夕食までとします。それより翼、お兄さんは元気?」突然瞳が、そんなことを聞く。


「相変わらずよ」

 彼女たちは、何度か翼の兄に会っている。


「お兄さんに会いたいなぁ」本を閉じながら瞳が、眼を潤ませて言う。


「あっ、そうだ。今からでもいいから、お兄様もお招きしてはいかが?」綾音が提案する。

「賛成!」

 蘭と瞳が、両手を叩いて嬉しそうに賛同する。


 翼の兄は翔琉かけると言って、京都で『紫桐探偵事務所』という探偵業を営んでいる。

 翼は現在、その兄の探偵事務所で助手として働いている。


「私がここに来る前、一件だけ浮気調査の依頼が入っていたけど、それが片付いていたら大丈夫だと思うんだけど……」


「浮気調査? 何や、それってエロくあらへん?」蘭が、ニヤニヤ笑って興味を示す。


「いたって地味な調査の、積み重ねよ」翼は、あっさりとかわす。


「ねえ、取り敢えずお兄様に連絡とって、来られるようなら大歓迎するわって伝えてよ」

 綾音が掌を顔の前で重ねて、お願いのポーズ。

 他の二人も同様に翼を促す。


 翼は仕方なく携帯電話を取り出し、兄に電話をかけた。

 その様子を、他の三人が声を潜めて見つめる。


「……ああ、お兄さん。ええ、今、綾音の別荘から……」

 翼がみんなの意向を伝え、「ええ、わかった」と言って、携帯を閉じた。


「どうだった?」三人が一斉に身を乗り出し、綾音が聞く。


「一応仕事は完了したらしく、今、調査報告書の作成をしているところだとかで、明日の正午までには、そっちに行けると思う……、だって」


「やった!」一同が一斉に声を上げる。


「何を楽しそうに騒いでいるんだい?」

 背後から、綾音の父親、正明が声をかけてきた。


「ああ、お父様。実は、翼のお兄様をご招待したの。いいでしょう?」


「綾音がそうしたいのなら、何も私に断る必要はないよ」

 満面の笑みを浮かべ、正明が答える。


「ありがとう、お父様」綾音は両手を重ねて喜ぶ。


「で、そのお方は、これからこちらに来るのかい?」


「いえ、仕事の関係で、明日いらっしゃるそうよ」


「そうかい。では、山本にそう伝えておくよ。ああ、それから、少し早いけど今日のディナは五時からと言うことで、ラウンジ横のリビングにお食事とお飲物を用意させていますから、皆さんもその時刻には、リビングに来てくださいね」

 そう言って正明は、階段を上って行った。


「ヤッホー、飯や、飯!」蘭が、手を打って喜ぶ。

「下品な言い方ね」瞳が、嫌味たらしく言って微笑む。


「今、何時?」蘭が聞く。

「ええと、二時十四分三十六秒ね」翼が、腕時計を見て答える。

「二時十五分か」蘭が呟く。


「翼、何か冷たいものでも召し上がる?」綾音が尋ねる。

 翼が「ええ、頂くわ」と頷いて言うと、「私たちも!」そう言って、四人は、ラウンジへと向かう。

 ラウンジでは、望月がソファに座り、テレビに夢中になっていた。


「望月さん。他の人たちは?」辺りを見回して綾音が問う。

「ああ、釣りをすると言って、みんな出かけたよ」

 デッキテラスに出て、入江の先を見ると、左の岬に数人の人影が見えた。


「何が釣れるんやろ?」蘭が聞く。

「最近は外来魚が多くて、ブラックバスなんか釣れるそうよ」綾音が言う。

「ブラックバスって食べられる魚なの?」瞳が訊く。


「食べられるとは聞いているけど、臭い魚というイメージがあって食べる人は滅多にいないらしいわよ。バスフィッシングでは釣った後、すぐにリリースするんだって。琵琶湖では在来種の保護のため禁止されているのに……」翼が応える。


「何やのそれ! 男女の関係なら、まるで結婚詐欺師やないの」蘭が、口を尖らせて言う。

「わけのわかったような、わからないような喩えね」翼が呆れたように言う。

 各自が、好みの飲み物を手に、しばらく他愛のない雑談に花を咲かせる。


「あかん。眼が引っ付きそうや。ウチちょっと部屋に戻って、ひと眠りして来るわ」

 蘭が眼を擦りながら、欠伸を堪えて呟く。


「じゃあ、私も。シャワーでも浴びて、ひと眠り」そう言って瞳も蘭の後を追う。

 翼も綾音に、自室に戻ることを告げ、階段を上った。


「じゃあ、あとで」と、『203』号室の前で瞳と別れ、『202』号室には蘭。一番奥の『201』号室には翼と、各自ドアの鍵を開けて部屋に入った。


 翼はベッドの上に腰を下ろし、テレビのスイッチを入れた――。


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