第二奇譚:「素数は無限にある/The prime number is infinite」

プロローグ

素数は無限にある:ひとつの事件のプロローグ



     *


 京都府警捜査第一課の滝沢たきざわ正人まさと刑事が、その屋敷を訪れた目的は、十年前に起きたある事件が端を発していた。


 当時、彼はまだ高校生だった。


 冬休みに入って間もないころ、彼が自宅の居間で寝転がり、夢中になって見ていたテレビ番組の途中で、突然、画面の上部に臨時速報のテロップが流れた。

 それは、滝沢の同級生、仲真なかま美智みちの父親が、自宅の書斎で首を吊り自殺しているのが発見されたというショッキングなニュースであった。


 それを見た滝沢は、着の身着のままで家を飛び出すと、自転車に飛び乗り、一目散に彼女の家へと駆けつけた。


 美智の父親、仲真博之ひろゆきは、当時売れっ子のミステリィ作家だった。

 叙述トリック物を得意とし、それまで長編、短編を合わせて百六十編余りの作品を世に送り出している。その中には、ベストセラーになったものや、推理作家協会賞の長編賞候補となった作品も幾つかあった。


 滝沢は、美智の父親とは面識がある。

 愛娘が通う学校側からの要望に応えて催された、彼の講演会の席で美智から紹介されたのだ。


 会場で彼は、「執筆は、いつするのか?」との学生の質問に、「執筆するのはだいたい深夜だよ」と答え、「君たちが寝静まった頃、私はパソコンに向かって朝方まで執筆をする。君たちの試験前と一緒かな? そして、君たちが昼食を取った後くらいに起き出して食事だ。君たちにとっての昼食が、私の朝食なのだよ」と言って、笑いを誘っていた。


 美智に紹介され、著書にサインをする博之の印象は、小柄で華奢な体躯の笑顔の絶えない温厚そうな人物であったように思う。滝沢はその時に、少なからず彼に好感を持った。


 滝沢が仲真家に到着した時には、既に大勢の野次馬と報道陣でごった返していた。


 屋敷の周囲には、黄色いテープが物々しく張られ、数名の警察官が門番のように関係者以外の侵入を拒み、入口付近では、テレビカメラの前でマイクを抱えたレポータが、慌しく生中継の実況をしていた。彼は、ただそれを遠くから見ているだけでしかなかった。


 事件があった後、美智は一ヶ月間ほど学校を休んだ。


 彼女が、久々に学校に姿を見せた時、少し窶れたようにも思われる彼女の容姿がとても痛々しくて、滝沢は、しばらく彼女とは何も話すことができなかった。

 当然その事件のことは、学校中みんなの知るところとなっていて、一部の心無き連中が、あらぬ噂を立てて、美智に白い目を向け誹謗中傷した。


 滝沢はそんな美智を庇い、その連中と大喧嘩になったこともあった。

 三対一ではあったが、結果は、滝沢の圧勝だった。その後、担任の先生からこっぴどく叱られうえに、その日は一日中、職員室の前に立たされた。それを見た他の生徒からは、美智のことが好きなのだろうと揶揄されたことを、今では懐かしく思い出す――。



 十年前の事件当日――。


 その日の午後二時に、出版社『遊心社』編集部の小林こばやし秀則ひでのり片桐かたぎり未瑠みるの二人が予定どおりに、刊行予定の新シリーズの打ち合わせということで仲真家を訪れた。


 家政婦の飯島いくしま敏江としえが、お茶と茶菓子を出している間に、博之の妻の美鈴みすずが、編集者の来訪を夫に告げるために、二階の博之の書斎へと向かった。


 ところが、ノックをして、いくら呼んでも当人からの返答がない。美鈴は怪訝に思い、ドアノブに手をかけたが、書斎のドアは内側から鍵がかけられていて、びくともしない。このことから、当人が室内に居ることは明らかだった。


 美鈴は、そのことを小林に伝えると、彼はすぐさま携帯電話を取り出し、書斎に置かれている電話の番号を押した。しかし書斎からは、ただ空しい呼び出し音が、いつまでも聞こえてくるだけであった。


 この家の離れに居候をしている、作家志望の中居なかい敏也としや新見にいみ芳樹よしきを呼び出し、最終的には、編集者の二人とともに、そのドアを壊して中に入ったという。


 そこで、首を吊って死んでいる博之を発見した。妻の美鈴が、それを見て卒倒し、片桐と飯島が彼女を居間へと運び介抱をした。

 小林が、後に残った中居と新見に、現場維持のために何も触れないようにと断ったうえで、一緒になって室内の状態を確認した。

 もちろん、室内には誰もいなく、ドアの、陰に隠れている人物もいなかった。書斎の窓にはすべて内側から錠が下ろされている――所謂、密室という状態であった。


 遺書は残っていなかったが、机上に置かれたパソコンは起動したままの状態で、ディスプレイではスクリーンセーバが、周期的な変化を繰り返していた。

中居がマウスを動かすと、映し出された画面には、ただ『』と、それだけの文字が……。


 小林はこの時の状況を、後の警察での調書で証言している。

 しばらくして、長男の博和が帰宅し、その後で美智が帰宅した。その時点で、ようやく警察に通報。

 駆けつけた警察関係者や鑑識、監察医により、室内はくまなく捜査された。


 死亡推定時間は発見時より二時間から三時間前と判明し、関係者による犯行時刻のアリバイは、飯島と美鈴、小林と片桐、中居と新見、それぞれにお互いのアリバイを証言した。

 ただし、長男の博和と妹の美智は、互いに当時十六歳ということもあって、それぞれに一人で外に遊びに出ていて、彼らのその時間のアリバイを、はっきりと証明してくれる特定の人物は見つからなかった。


 なお、博之氏の体内からは睡眠薬が検出された。

 そのことについて、美鈴は、「夫は、普段から不眠症で悩んでおり、寝付けない時には時折、睡眠薬を服用していた。昨夜も主治医から処方された『エリミン』という薬を服用して、午前三時頃に自分の寝室に入った」と証言をしたため、すぐに博之の主治医に確認を取り、証言に間違いがないことを確認した。


 結局、現場は荒らされた形跡や、紛失した物も見つからず、別にこれといって不振な点も無い、ということで、この事件は自殺として処理された。


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