双数は対偶にある:双数 -5


      5


 翌日の夕方、紫桐翼は『紫桐探偵事務所』の一階にある、喫茶『ぷらいむナンバ』で人を待っていた。


 昨日、小川優子から聞いた話を反芻しながら思う。

 ともかく、彼女の証言しか、手がかりが無い。


 まさか裕子は、既に犯人の手によって何処かで殺害されているのではないのだろうか?

 いや、そのことは考えまい。

 まず、裕子の交友関係を探ってみる必要がある……、その前に。


 そのとき、翼の思考を停止させるように入り口の戸が開き、待ち人が顔を覗かせた。


「やあ、お待たせ」


「いえ」翼は、その人物にテーブルを挟んだ向かいの席に招いた。


「滝沢さん、お呼び出ししてすいません」


「いや、翼さんの頼みなら喜んで飛んで来ますよ」滝沢は翼に微笑んだ。


「しかし、お仕事大変なのでしょう?」翼が微笑み返す。


「ええ、まあ、例の事件で、休みもクソもないですから……」


 ウエイトレスが、御絞りと水の入ったグラスを持って、注文を取りに来た。


「ええと、アイスコーヒーね。ああ、フレッシュ抜きで……」滝沢は、注文を済ませると、翼のほうに顔を向け、「ところで何ですか? 聞きたいことって……?」と顔を引き締めた。


「実は、その例の事件のことを聞かせてほしいの」


「どうして、翼さんが、その事件のことを知りたいのですか?」


「ええ、まあ、何か面白そうな事件だから、個人的に興味がわいてきたのよ」

「面白そうだから。個人的に……、ですか?」


「そう。細かいことは抜きにして……、いいでしょう?」翼が滝沢に秋波を送る。


「どういうこと?」


「そういうこと」翼はにっこりと微笑んだ。


「いくら翼さんでも……、守秘義務があるので、無理ですよ」滝沢は困惑した顔で答える。


「じゃあ、御厨さんか……、いや、伯父さまに、聞こうかな……」


「えっ、東儀とうぎ元警視監に、ですか?」滝沢は、御絞りで首筋から揉み上げ部分の汗を拭う。


 ウエイトレスが、アイスコーヒーを運んで来たので、しばらく二人は黙る。


「わ、わかりましたよ。翼さんのことだから、やりかねませんからね。でもお応えできる範囲で、ですよ」と頭を抱えて承諾した。


「じゃあ、まず、犯人のことね。目星はついているの?」


「い、いや、今のところは……。ただ、この事件は怨恨説が有力ですから、被害者の周辺を洗っていくうちに、はっきりすると思いますが……」

 滝沢は、運ばれてきたアイスコーヒーにシロップを入れ、ストローでかき混ぜながら言った。


「で、その被害者の男性ってどんな人?」

 翼は、滝沢がアイスコーヒーを一口飲むのを待って尋ねた。


「ええ……」と言って滝沢は、翼に断ったうえで煙草を取り出し、火をつけた。


「中嶋智史という男性ですが、彼は中京区にある中嶋不動産の次男坊で、H大学の二回生です。大学のほうには滅多にいっていないらしく、といってアルバイトをしているわけでもない。まあ、恵まれた環境で育った、お坊ちゃまって感じの青年ですかね」滝沢は煙草の煙を出しながら言う。「それと、これは森下浩司もりしたこうじという中嶋の友人の話ですが、中嶋は、かなり女癖が悪かったみたいですね。なんせ、取り換え引き換え女性に手を出して、それを勲章のように自慢していたようです。それが、友人の彼女でもお構いなしだったそうで、その中の女性の恨みでもかった犯行ではないのか――との見方も考慮に入れて捜査しています」

 苦虫を噛み潰したような顔をして滝沢は言った。


「へぇ、最低な男ね。死んだ人に言うのも不謹慎だけど、そんな奴、死んじゃえって言ってやりたいわ」翼は顔を顰めて吐く。


 滝沢が大きく頷く。


「ええ、まあ、そんな感じですから、学校での評判も、あまりよくないです」

「当たり前よ!」翼は不機嫌な表情を浮かべた。「それで、その中嶋と裕子との関係は?」


「それが、ですね……」滝沢は、吸いかけの煙草を一旦灰皿の上に置き、上着のポケットから黒い手帳を取り出すと、それを見ながら話を始めた。「森下の話によると、彼が裕子と一緒にゲームセンタで遊んでいるのを、たまたま目撃したことがあるそうです。それを後日、彼に見たことを話すと、あれは新しい彼女だと言っていたそうです」


「彼女……? それは最近のこと?」


「いえ、三、四ヶ月前のことだと言っています」


「ハッキリとはしていないのね」


「ええ、森下はそのとき、また何処かで引っ掛けた女だろうと思ったそうです。その後、一度だけ、森下と、中嶋と裕子の三人で木屋町の居酒屋に行ったことがあると言っていました」煙草を一服して、滝沢は話を続ける。「そのときの話ですが、中嶋がトイレに立ったとき、森下は裕子に、中嶋には気をつけろ、と言ったそうです。彼女が純情そうなので、つい助言したそうです。中嶋が帰って来て、入れ替わりに裕子はトイレに立ったのですが、その後、いつまで待っても席に戻ってこなかったと言います。中嶋が不審がって、すぐにトイレに向かったそうです。しかし、彼女の姿は、そこには無かったそうです。翌日中嶋に会ったとき、彼女は少し気分が悪くなったので、そのまま、家に帰ったと説明したそうです。しかし、それなら普通何も言わずに帰りますかね……? と、森下は怪訝な様子でした」

 煙草の火を消して、アイスコーヒーを口にする。


「それは、確かに気になるエピソードね」翼は、テーブルの上に置いてあった、ピンク色のシステム手帳を開き、そのことを記入した。「あっ、そうそう、肝心なことを聞くのを忘れていたわ。被害者の、死亡推定時刻は?」と、思い出したように翼は言う。


「ああ、死亡推定時刻は、六月二十一日の、午後六時から八時の間ということになっています」


「それと、指紋は?」


「ええ、これといって事件に結び付くような、不振な指紋は出てきていませんが、玄関のドアノブから第一発見者の指紋らしきものが採取されたぐらいですかね」

「ああ、姉の優子さんの指紋ね。それはそうでしょうね。おおよそのことはわかったわ。ありがとう」


「いいえ、でも僕から聞いたことは内緒ですよ」


 翼はそれに頷いて、赤いシステム手帳に記入していると、突然、着メロが流れた。


 滝沢は、一瞬ビクッとなり、慌てた様子で携帯電話を取り出し、画面で相手を確認した。


「ちょっと、すいません」滝沢は、席を外して入り口付近に向かった。


「もしもし、はいそうです。えっ? 何ですって! 小川裕子には……、姉はいない。ほ、本当ですか? わかりました……。ええ、すぐに署に戻ります」滝沢の声は、翼のところまで聞こえた。


 ――えっ?


 小川裕子には姉はいない? 思わず翼は、滝沢のほうに顔を向けた。


 ――どういうこと……?


 ――私と会った人物は、一体誰?


 頭の中で疑問符が飛び交う。

 席に戻って来た滝沢が、顔を強張らせて翼に言った。


「翼さん、署に戻らなければならない急用ができました。すいませんが、これで……」と言って滝沢は、テーブルの上の勘定書きを取ろうとしたのを、翼が制止。


「いえ、こちらこそ、忙しいところ無理なお願いしっちゃって。だから……」


「じゃあ、今回は、お言葉に甘えてご馳走になります。今度は僕に出させてくださいよ。約束ですよ」

 滝沢は申し訳なさそうに、翼に微笑みかける。


「わかったわ。今日は、ありがとう」翼が微笑み返す。


「いや。じゃあ、また」

 滝沢は片手を上げ翼に背を向けると、そそくさとドアから消えた。


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