双数は対偶にある:双数 -1


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 京都府警捜査第一課の御厨みくりや賢二けんじ警部が、部下の滝沢たきざわ正人まさと刑事と連れ立って現場に到着したのは、二十一時を少し回ったころだった。


 室内には、既に数人の鑑識課の連中と、管轄である洛西警察署の刑事が二人いた。

 背が高く恰幅の良いほうが徳永と名乗り、少し色白でチタンフレームのメガネをかけたほうが岸本と名乗った。


 御厨は早速、床の上に横たわる遺体と対面した。


「凶器は?」


「これが、遺体のすぐそばにありました」そう言って岸本は、ビニール袋に入った血痕のついた包丁を見せた。「確認したところ、この部屋にあった包丁だと判明しました。おそらく凶器はこれだと思われます」


「十中八九間違いはないだろう」御厨は、遺体の顔を確認した。「ところで、被害者ガイシヤはこの部屋の住人なのか?」


「いえ、この部屋の住人は、小川おがわ裕子ひろこという女性だそうです」


「女性? では、この被害者は?」


「今のところ身元は判明していません」


「住人の知り合いではないのでしょうか」滝沢が言う。


「ああ、独り住まいの若い女性が、男性を部屋に入れるという間柄なのだから、友人か恋人という可能性もあるが……」御厨は、一瞬厳しい表情を見せた。


「ええ、そうかも知れませんが、今のところは何とも……」


「そうか……、では、この部屋の住人は?」御厨が、室内を見渡して問う。


「それが……、消えた――と言っているんです」困惑顔で徳永が答える。


「消えた? 消えただって、それはどういうことだ」徳永の顔を見詰め御厨が問う。


「ええ、実は通報者がこの部屋の住人の姉だと名乗ったらしいのですが、その女性が、妹が消えたと」徳永が答える。


「で、その姉だと名乗った女性は?」御厨は部屋の中を見渡す。


「通報は近くの公衆電話からで、通報時間が十九時二十五分だそうで、管轄署員が駆け付けたときには、公衆電話にも現場にも誰もいなかったと……」


「その姉だという女性の名前は?」御厨が徳永に尋ねた。


「オガワユウコ――と名乗ったそうです」


「そうか。では、その通報内容は?」


 徳永はポケットから出した手帳を開き「本日十九時前、彼女はこのマンションを訪れ、風除室からオートロックシステムのインターフォンで、この部屋に来訪の連絡を取り、返答の後ロックが解除され、それでエントランスに入ったと……」そこまで言って徳永は、御厨の反応を窺った。


「なるほど。それで?」御厨は、立ち上がって部屋の状況を確認する。


「ええ、部屋の前まで来て……、インターフォンのボタンを押したのですが、何の反応もなかったと……。風除室からのインターフォンでは返答があったのに……、と彼女はそのとき、奇妙に思ったそうです。それで、急いでドアを開けようとしたのですが、ドアには鍵がかかっていたので、合鍵を使って室内に入ったと言うのです。それと、ここのマンションの住人が、十九時ごろ、近くのコンビニに買い物に行こうとエレベータで一階に降りたところで、その姉らしき人物と出会ったとの証言を得ています」


「姉は、スペアキーを持っていたのですか」滝沢が横から話に加わる。


「ええ、このマンションでは入居の際、鍵は二本渡されるそうです」


「なるほど、その一本を姉が預かっていたのか……。それで、マスターキーのほうは?」


「ええ、部屋に入ったときに、そこのテーブルの上にあったと、姉が証言しています」テレビの前の小さなテーブルを指さして徳永が答えた。


 御厨はテーブルに眼をやる。

 テーブルの上には、封の切られたスナック菓子の袋。それに、飲み干した缶ビールがふたつあり、その横に、直径十五センチほどの円が、白いチョークで記されていた。


「ここにマスターキーがあった……、それで?」御厨は確認しながら言った。


「ええ、室内に入ると、すべての照明が消された状態だったので電気をつけ、そこでソファの陰に人の足が見えた。最初、妹が巫山戯て隠れているのかと思ったが、近づいてみると、そこには知らない男性の遺体があった――と、これが遺体発見に至る経緯で、その時、妹の姿は何処にも無く、まさしく消えてしまったと思わずにいられない状況だった――と、そこまで一方的に喋って電話が切られたそうです」


「管轄が駆けつけたとき、ドアの鍵は?」


「開いていました」


「そうか……。では、死亡推定時刻は?」御厨が岸本に問う。


「断定はできませんが、鑑識の所見では、おそらく本日の十八時から二十時の間だろうということです」


「通報が十九時二十五分……」御厨はそう呟いて腕を組んだ。


「ドアは施錠されていた……、室内のすべて電気は消されていた……、見知らぬ男性の遺体があった……、住人である妹の姿が見当たらない……、これは、妹が加害者であり、犯行後に訪ねて来た姉が妹を逃走させた――と考えたほうが状況的には納得できますよね。それに、姉の通報自体が、犯行を行った妹を庇うための偽装だとは解釈できませんかね?」滝沢は御厨の反応を待つ。


「その可能性もあるが、姉が訪ねて来た時間が十九時ごろ、これはマンションの住人が出会ったと証言している。マンションに着いてから通報までの時間が約二十分……」御厨は時系列で事象を考察してみた。


「しかし、妹が犯人なら、姉が訪ねて来るのを知っていての犯行でしょうか? それとも予期せぬ突発的な犯行ですかね?」滝沢が首を傾げる。


「どちらにしろ、インターフォンに出たのも、オートロックを解錠したのも、不明な行動だ。さっぱりわからん」御厨も首を傾げて言う。


「ええ、妹が犯人ならその行動は変ですよね。姉が来るのが事前にわかっているのに、その日に犯行に及ぶのは変です。たとえ突発的な犯行だとしても、インターフォンには出たときに、何らかの理由をつけて、日時や場所を変更することも可能ですし……、取り敢えずは、姉を、この部屋に入れないようにすればいいだけの話ですから」滝沢は、首を傾げて天井を見上げた。


「もし、妹が姉との約束を忘れていて犯行に及んだとしても、その直後、インターフォンから呼び出し音が鳴った。そこで、姉が迎えに来ることを、突然思い出した。応答すべきか否か、居留守を使うかどうか……、しかし彼女はインターフォンに出た。そして、姉が乗っているエレベータが到着するまでの時間に、エレベータ横の階段を使って逃げた。そういうことですかね?」滝沢は御厨に向かって問う。


「いや、あり得ない。それに鍵がかかっていたんだよ」


「だから、鍵をかけて……、あっ、そ、そうですね。鍵は部屋の中にあったんでしたね」


「ああ、鍵がかかっていて、その鍵は部屋の中に合った。どういうことだと思う……?」



 ――裕子は何処に消えた?


 ――ドアには鍵がかかっていた。そして、その鍵は部屋の中に。


 滝沢は何が何だかわからなくなってきて、首を傾けた。


 ――考える方向が違うのか?


 鍵のことは別にして、妹が犯人とするには、彼女が取った行動には奇妙で腑に落ちない点が多い。



「まだ、この段階では何もわかりません」と滝沢は言った。


「犯人が別にいる場合だが……」御厨が、少し間を置いて言った。


「え、ええ。やはり姉の言うとおり、犯人が妹を連れ去った、という場合ですね」


 ――何のために……。

 目的は、彼女をさらうことなのか。


「しかし、やはり無理がある」御厨がそう言って徳永のほうに向く。


「犯人は何処から逃走したしたんでしょうか? 妹を連れて逃走したとなると、やはり階段からですかね?」滝沢が徳永に尋ねる。


「いいえ、七階のエレベータからこの部屋までの通路は一本道。そして、この部屋は一番奥の突き当たりの部屋です。犯人がもし玄関から逃走したのなら、当然、途中で姉と出くわしますよね。まして、室内に鍵を残したまま逃走しているのに、玄関のドアは施錠されていたのですよ」徳永が検証事実から否定する。


「そもそも、鍵を残していった理由がわからない」御厨が首を傾げて言う。


「鍵が、事件の鍵か?」


「何か言ったか?」


「あ、いえ何でも……」滝沢は、自分が何気なく口にした言葉が駄洒落のようだと気づき、思わずニンマリとした。「では、ベランダからは逃げたというのはどうです?」


「ええ、確かにこのリビングのガラス戸からベランダに出ることができますが、ガラス戸の鍵はすべて内側から施錠された状態でした。また、鍵穴には細工された形跡は見当たりませんでした」徳永が、事実を述べる。


 滝沢は、ガラス戸のカーテンを開け、それぞれのクレセント錠の状態を確認した。


「……、ほかに出入りできるところは?」

 御厨が、滝沢の行動を一瞥した後、徳永に尋ねた。


「ええ、入り口は玄関だけです」


「それでは、一体犯人は何処から……」御厨の視線は部屋の中を彷徨う。


「警部。形跡の残らない何らかのトリックを使い、犯人はベランダに出て、鍵をかけて逃げたということは……」滝沢は、思いついた安易な推理を述べた。


「トリックを使って逃げた? 何処へ?」


「ええ、仕切り板を越えて、ベランダ伝いに逃げ込んだのでは?」


「妹を連れたまま?」御厨が冷静に言う。


「あ、あり得ませんかね……」


「あり得ません」横から徳永が、滝沢の考えを簡潔に否定する。「たとえ、隣に逃げられたとしても、そこまでです」


「えっ? どうして?」滝沢が尋ねる。


「ええ、お隣の七〇二号室には、女子大生が入居していまして、彼女が言うには、十九時ごろトイレから出た直後に、外で名前を呼びながらドアを叩いている女性の声を聞いたが、友達でも訪ねて来たのだろうと、それほど気にせずにリビングに戻り、テレビを見たと言っています。いつも楽しみにしている番組なのでつい夢中になり、ベランダの外にはあまり注意していなかった、とも言っていますが……」


 ――テレビに夢中になっていて気づかなかった? いや、それでも無理だ。

 たとえ気づかれなかったとして、犯人はその後、どうすることもできない……。


「では、階下に?」滝沢は、口を尖らせて言った。


「ええ、それも無理です。階下の六〇一号室は独身の会社員男性が入居していますが、彼も丁度その時刻、ベランダで洗濯物を干していたそうです」


「ベランダに出ていたと言っているのですか?」


「ええ」


 これで完全に、滝沢の推理は否定された。滝沢は、憮然とした表情を見せて黙り込んだ。


「それと、どちらの住人も犯行時刻の前後、変な物音や争うような物音も聞いていないと言っています。」徳永は淡々と報告する。


 滝沢は、鑑識課の作業の邪魔にならないようにして、黙ったままベランダへと向かった。「うわぁ、いい眺めですね」滝沢が、一望できる夜景を見て、頻りに感動する。


「エントランスホールの風除室から、エレベータに乗り、この部屋まで来るのにどのくらいの時間がかかるのだろう?」滝沢を横目に御厨が問う。


「だいたい二、三分ほどです」ただしそれは、捜査員が何回か繰り返し試した結果ですが、と徳永は付け加えた。


 いずれにしろ犯人は、その二、三分の間に殺害を犯し、部屋を密室にし、電気をすべて消したうえで逃走した……、無理だ。どう考えても、無理だ。物理的にも時間的にも無理がある。御厨の思考は、どうしても、そこに辿り着く。


 滝沢は、しばらくベランダの手摺り越しに、恐る恐る下を覗き込んでいたが、一旦視線を手摺りに戻し、今度は躰を手摺りに凭れかけて、マンションの屋上へ視線を移した。

 そして……、「屋上へは、誰でも上がれるのですかね?」と、滝沢は、ベランダに出てきた岸本に尋ねた。


「おいおい、まさか君は、犯人が妹を抱えたままロッククライミングでもして、屋上に逃げたとでも言うのではないだろうね?」御厨が、部屋の中から言う。


「いえ、ただ、屋上に逃げるのが一番の方法かなぁ、と思ったものですから……」


 その会話を聞いた岸本が言う。

「この七階のエレベータホールの横に、鉄の扉があります。その扉を開けたところに、屋上へと上がれる階段があります。その扉は、通常関係者以外の人間が勝手に上がれないようにと施錠されているのですが……」


「施錠されていたのですか?」滝沢が聞き直す。


「ええ、早速、捜査員が管理会社の人間と、その扉を確認に向かいましたが、その扉は施錠されたままの状態でした。その後、屋上も隈なく捜索しましたが、犯人が隠れているということもありませんでした。当然、現在も鑑識の係員が数名、屋上での作業を継続しています」岸本が答える。


 ――それなら、たとえ屋上に逃げたとしても、屋上からは逃げられない。

 滝沢は、そういう結論を出すことを余儀なくされた。


「それと、その扉とは反対側に、一階のエレベータホールまで続く非常階段がありますが、犯行を行い、玄関の鍵をかけ、それから非常階段のところまで行くには時間的に無理があります。途中で、どうしても被害者の姉と鉢合わせになるでしょう」岸本は、メガネの鼻の部分を人差し指で持ち上げながら答えた。


 ――では、犯人は、一体何処へ逃げたというのだ?

 滝沢は頭を抱え込んだ。


 御厨がベランダに出て来て、階上を見上げ、「ところで、屋上はどのようになっているのですかね?」と岸本に尋ねた。


「ええ、屋上には、エレベータの機械室、電気・ポンプ・モータ室などがひとつになった建物が中央にあります。その上には貯水タンク、地上波や衛星放送のテレビアンテナと、避雷針など、マンションには必要不可欠なものが集約されて設置されています。まあ、何処にでもあるマンションとそれほど変わりはないです」

 岸本がメガネの奥から、御厨を見詰めて淡々と話す。


「警部。これは、あきらかに密室殺人ですよね?」滝沢が、横から眼を輝かせて言った。


 御厨は、滝沢を一度睥睨し、ベランダから一望できる夜景に視線を移した。


「状況的には……、そうだな」

 少し間を置いて言うと、そのまま御厨は黙り込んでしまった。


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