3-17 妖蝶、復活

 午前七時半を過ぎた頃、宇津木望は普段通りの朝を迎えた。昨晩のプラトニックな出来事が夢であったかのような、すっきりとした目覚めだった。

 身支度を整えた望は、朝食を取りにホテルのレストランへと足を運んだ。漁業の盛んな町とあって、食卓には魚介類の豪勢なメニューがずらりと並んでいる。どれも鮮度抜群で申し分ないが、一際人気なのは勝手丼のコーナーだった。

 好みの具を盛って自分だけの海鮮丼を作るというものだそうで、望も他の人に倣ってオリジナルのものを仕上げた。カニ多め、イカ、イクラ、サーモン、ごはん少なめのご機嫌な朝飯だ。そこに出汁の利いたつみれ汁を盆に乗せれば完の璧と言えよう。

 空いている席はないかと望は辺りを見回すと、見慣れた背筋があることに気がついた。運の良い事に、対面の席が空いている。もう食べ終わった後のようだったが、望は迷わずその席に腰を下ろした。

 しかし、対面の男は空っぽの器を眼前に、腕組をして思案顔を浮かばせるだけだった。さも望がそこに座るのを知っていたかのように。


「なーに朝からぼーっとしてんのよ。シャキッとしなさい、シャキッと」


 おはようから始まらない間柄の男は、足りない頭で何か物思いに耽っているようだった。斯様な豪華な朝飯を平らげて、こんな冴えない顔をする男がゼトライヱの適合者だとは、誰も思うまい。

 その男――志藤塁は、うーんと相槌なのか何なのかわからない声を出した後、やや身を乗り出して幼馴染に問うたのである。


「なあ望、俺って空を飛べるかな?」

「は? あんたが?」

「そう。翼が生えてビューンって」


 手を飛行する物体に見立てて、塁は大真面目にそう言った。彼の口から何も聞かされていないが、どうやらペタルダを倒す方法について喋っているのだろう。この様子だと、昨日からずっと考えを巡らせているに違いない。

 実に分かりやすい奴だと思いながら、望はそんな彼を案じた。


「……悪いものでも食べたんじゃないの?」

「うーん。イクラ丼はすげぇ美味かったけど」

「そう。じゃあ、おかわり持ってきてあげる」


 望は空になった丼ぶりを手に取り、また食卓へと戻って行った。気になったのは塁の様子ではなく、空の容器の少なさだった。食欲で体調がわかるというのも変な話だが、望は塁に限ってのみ本人より敏感に体調の機微を感じ取ることができたのだ。

 そういう時はなりふり構わず、胃袋にものをながしこんでやればいい。望はきょとんとする幼馴染を横目に、山盛りのイクラ丼を完成させた。


「おいおい、盛りすぎだって! こんなに食えないよ」

「食事もトレーニングって、どっかの誰かさんが言ってた気がするけど?」

「野球の話だろ、それは」

「野球じゃないからって、本気を出さないつもり?」


 本調子でない幼馴染の胸を拳で軽く小突き、望は毅然とした口調で続ける。


「塁は野球しか能がないんだから、変に難しいこと考えない! やると決めたら、思いっきりやりなさい! 強く願えば何だって出来るはずよ、あんたなら……!」


 望の脳裏には古城の言葉があった。信じる者は救われる、そのような詭弁が自明の理であるわけがない。しかし、しかしだ。思想の自由は守られて然るべきである。信じるという行為は、無垢であるが故に思いがけない良き結果をもたらす事もある。

 正義の味方を、ゼトライヱを信じたいという望の思いに嘘はなかった。

 だから、その思いは直接的に塁に伝わったのだ。


「空が飛べるとは思えないけどな。でもサンキュ。望の言う通り、ちょっと考え過ぎてたかもしれない。何があっても思いっきりやるしかないか!」

「そうよ。お残しは許さないからね」


 レンゲで掬い取られたイクラと白米を口に運び、塁は大きく頷いた。


 ――塁がよく食べるときは、試合でファインプレーをすることが多かったっけ。

 ――望から一言もらって気が楽になった。何となく体も軽くなったような気がする。


 二人は互いの顔を見合って心を通じ合わせた。また、適合者の方は飯を過量に摂取することで、直近に迫る未知の生物との闘いに、大河の静流の如き荘厳な闘気を高めていった。


                  ***


 ペタルダ来襲から一日経ったその日の函館は、言い表し難い面妖な空気が流れていた。学校や企業、そしてあらゆる交通機関が敢え無く臨休となったこの日、通りに市民の姿はほとんどなかった。代わりに行き交うのは報道メディアの関係者と、物々しい格好をした集団――警察の機動隊であったり、自衛隊であったり、ゼナダカイアムの隊員らだった。非常時なので互いに連携を取りつつも、彼らの間にぎこちなさや警戒心が見え隠れしていた。

 けれども、悪いニュースばかりではなかった。彼らの活動もあって、難色を示していたペタルダの捜索に一筋の光が見え始めたのだ。生い茂る雑草が地点から明らかに増殖し、捜索班の進行はさらに鈍くなった。ドローンさえ飛ばすことの出来ない茂み具合に士気が下がる一方、この近くにペタルダが潜んでいる説が有力になったのだ。

 今朝から市民の避難活動の指揮を執る古城も、季節外れに色濃くなった函館山の方を、祈るような気持ちで何度なく振り返った。その時が訪れてしまえば、また函館は脅威にさらされる。だけど訪れなければ、市民の不安はよりいっそう深まることになる。

 そういったジレンマに地域全体が陥りつつある中だった。始まりは常に唐突である。

 時刻は午後二時八分。通信班からの一報がゼナダカイアム司令室に響き渡る。


『函館山でバッタを駆除していた市民らが、頂上付近の森林で奇妙な物体を発見した模様!』

「現場と繋げろ」大和司令は即座に告げる。

『只今、尾塚おづか隊員が向かっています!』

「尾塚だと? あいつ、またしゃしゃり出てきたのか。物好きなやつめ」

『お褒めの言葉と受け取ってよろしいか、大和司令?』


 張り詰めた空気が漂う中、軽い調子の中年の声が隊員たちの耳に届く。この声の主こそ、現場至上主義をモットーとする男、尾塚だった。


『こちら尾塚、現場に到着。肉眼でそれらしきものを確認した。やっこさん、どうやらかなりダメージを負っているらしい』

「映像を出せ」

『さっきから試しているんですがね、これがちっとも上手くいきませんのよ。てぇ事はすなわち、頭上の繭が元凶だという事ですかね』

「繭じゃと?」怪訝な声の主は近藤だ。

『ええ。深い茂みに紛れるようにして、大きな白い繭のようなものが木の枝に張りついてます。さらにまずい事に、小さく脈打っているようにも見える』

「復活が迫っているのか……!?」


 蓮見がそう言うと同時に騒然とする司令室。再び彼のヨルゴスが鱗粉を撒き散らせば、たちまち函館は反理想郷へと誘われるだろう。そうなる前に被害を未然に防げるかどうかで、自分たちの評価も大きく変わってくる。いずれにしても、ここが一つの分岐点にあることに変わりなかった。

 様々な考えがひしめく中、声を上げたのは現場にいる尾塚だった。先ほどとは異なる、至って真面目な口振りに皆が身構えた。


『大和司令、具申申し上げます。ここに一丁の擲弾発射機グレネードランチャーがある。弾薬はB.O.W.Lボウルだ。撃つなら今しかない』

「B.O.W.Lだと?」

「海水弾のことか? それはまだ試作段階のはず。なぜ貴様が持っておる?」

『役に立つかと思って一応持って来たんですわ、これがね』


 ヨルゴスのためだけに造られた、自然にも害を及ぼさない弾薬ならば文句を言われる道理はない。取ってつけたような理由だったが、指揮官としてまだ日が浅い大和がそのような不適切な判断を取るのではないかと、近藤は気が気でならなかった。

 蠢く白い繭に狙いをつけた尾塚は、その態勢を維持したまま指示を仰ぐ。


『さて、司令殿。こいつの威力を確かめるにはもってこいの状況ですぜ。引き金はいつでも引ける。今一度訊きましょう、射撃の可否は?』


 一笑に付す大和を見て嫌な予感を過ぎらせる近藤。しかし、それは杞憂だった。


「昔の私なら、即座に認めていただろうな」

『では、撃たぬと?』

「多くは語らん。私も不安で仕方がないが……ひよっこ共を信じてやれ」

『……賢明なご判断です』


 尾塚は司令の指示に従って火器を下ろしたが、このときの彼の心情は不明だった。

 結局のところ、大和の言葉に全てが示されていた。強き者を信仰することはある意味で脆く、身勝手な振る舞いに見える。とはいえ、自分だけを信じるのもまた危うい行為だ。人は過ちを犯す生き物なのだから。

 人類の命運がかかった闘いの前哨戦。大和の決断は決して間違っていなかった。

 かのように思えた。


『だが司令。あんたは選択を誤ったかもしれん』

「なに?」


 大和が訊き返すと、バリバリと何かを突き破るような音がスピーカーから響き渡った。


『奴さん、空に舞い上がっちまったぜ!』


 顔をしかめる大和とは対照的に、尾塚の声は狂喜に満ちているようだった。

 ペタルダの復活。映像は映らなくとも、先日の事を想起すれば容易に思い浮かべられる。


 大型の蝶のような生物がひらひらと上空を踊る。羽根を羽ばたかせる度に、光の鱗粉が地上に落ちる。光の加護を受けた植物はたちまち全盛期の姿へと成って、季節など関係なく色彩に満ちた花々が絢爛に咲き誇る。

 在り得るはずのない理想郷。その訪れが刹那ならば、還るのもまた。


『何だこれは……? 雑草が急に伸びてきやがった!?』

「尾塚、現地にいる者にその場を離れるよう指示しろ! バッタの群生相が来るぞ!」


 理想郷を食らう無数の蝗が、再び函館の地に迫ろうとしていた。

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