3-13 心は何処に

 聞こえないはずの翅音が古城を苦しめていた。

 ヨルゴスの襲来、そして彼の存在がもたらした蝗害からおよそ半日。その時間は古城にとって、まさに激動と呼ぶに相応しいものだった。

 緊急事態においてはスピードが命だ。消防隊や自治体のみならず、警察機動隊や自衛隊に自ら掛け合って怒涛の勢いで捲し立てる一人の公務員を、あいつは何者だと皆が不思議がった。沈着な物言いから殺気めいたものを感じさせる交渉術。立場が上の者でも物怖じせず、真っ向から説得に応じる精神力。指導者たる素質、大器の片鱗を持った若者の名を各組織の上官たちは知りたがっていたそうだが、古城自身はそんな事など知る由もなかった。

 市に蔓延するバッタ駆除の指揮を執っていた古城だったが、最後は居ても立っても居られず自らも現場に馳せ参じた。惨状と化した函館山、辺り一面バッタに覆い尽くされた世界は、一種の地獄のようにすら思えた。足を一歩地につけば五匹を踏み潰す。それが比喩でも何でもなく事実なのだから古城は狼狽えた。分厚い防護服を着ていなかったらまともに立つことすら困難という状況だった。


 夜間の作業には危険が伴うため、素人である古城は退却を余儀なくされた。市役所の一区画に設けられた災害対策本部の二つ隣の誰もいない静かな一室で、古城は長椅子に辛うじて身を預けていた。

 足元から伝わる生々しい生命の感触。何度となく振り払っても遮られる視界。そして、長時間耳元で煩わしく鳴り続けたバッタの翅音が、今もなお幻聴となって古城の精神を削っている。全てが悪夢のようでありながら奇しくも現実であることを、古城は自身の疲弊を以てやっと理解したのだ。

 そこに、一人の人物がドアを開けて部屋に入ってきた。不思議な事に、古城は顔を上げずともその不躾な足音を聴いて誰が入ってきたかを正確に読み取った。こうなると、机に荷物を置く音すらも不躾に聴こえてくるものだ。

 足を投げ出して座る古城を一瞥して、その男は見下げたように鼻で笑った。


「おやおや、苦労知らずのエリートが随分と泥まみれじゃあないか」

「……前園主任」


 古城は憎たらしい上司の名前を呼ぶに留まった。お疲れ様ですの一言すら出てこないほど疲れ切っていた。

 すると、何か用かと訊ねる前に、前園はスンスンと鼻を鳴らしてにおいを嗅ぐ仕草をした。


「ん? 少し臭うぞ。古城くん、身だしなみには気をつけろ」


 そう言われて古城が二の腕付近を顔に近づけたのは、自分のにおいを確かめるためではない。実際は、あまりに耐え難い上司の口臭を防ぐためだった。煙草とコーヒーを単に混ぜ合わせただけではこうはならない。ドブや吐瀉物にも似た腐臭が、色をつけて漂っているようだった。

 確かに自分も少し臭う。先ほどまで汗だくになってバッタの駆除に追われ、防護服を纏った身体は蒸している。一刻も早くシャワーを浴びた方がよいだろう。だが、上司の放つ強烈なそれと比べれば、幾分かはマシなはずだ。

 これ以上口を開かないでほしいという古城のささやかな願いは、願う間もなく打ち消された。


「ったく、ゼナダカイアムだか何だか知らないけど、無駄に我々の仕事を増やさないでほしいね。おかげで立ちっぱなしで腰が痛いよ」

「怒りの矛先は、ヨルゴスの方に向けるべきでは?」


 それまで表情を変えることなくやり過ごしていた古城がついに眉をひそめたのは、上司の発言が聞き捨てならないものだったからだ。

 突っかかる部下に対して、上司はその臭い口から唾を飛ばして反撃を始める。


「あん? あのね、ヨルゴスは災害なんだよ。国がそう決めたんだ。災害が起きちまうのは仕方ない。それを上手く対処できなかった連中に文句を言ってるんだ俺は」

「今のところ、蝗害による負傷者は出ていません。彼らが率先して避難誘導を行ない、未然にそれを防いだのです。主任も五稜郭の惨状をご覧になったでしょう? 少しでも避難が遅れていたら、全身がバッタに取りつかれて窒息死することも考えられた」

「どんな言い訳をしようと、被害が出ていることに変わりはない。観光客が脅えているんだぞ? 函館のイメージが壊れるじゃないか! はっきり言うと、これは人為的ミスなんだよ!」


 まるで古城に責任があるかのように、前園は声を大にして言い放った。これが普段の古城であれば、とりあえず頭を下げて反省した風を装っていたかもしれない。

 けれども、今日の午前に各組織の上層部をも唸らせた古城の饒舌っぷりは、この場においても遺憾なく発揮されたのだ。古城はおそろしく滑らかな口調で、駄々をこねる上司に反駁を唱えた。


「私は観光課の人間ですから覚えています。我々の度重なる忠告も意に介さず、災害が訪れようとしている時期に多くの人を招き入れるべきだと言って聞かなかった人物を。前園主任、貴方がおっしゃった人為的ミスという言葉、そっくりそのままお返しします」

「上司に向かってその口の利き方は何だ! 外交官くずれの出来損ないのくせに!」


 前園は声を荒げて、机に置いた書類一式を薙いで床に散らばせた。激昂する前園とは対照的に、散乱した紙の書類を見る古城の視線は冷ややかなものだった。相手が癇癪を起こすと謂れのない優越感を覚える。データ上にはない古城の性格が露になる瞬間だった。

 そして、その冷徹な視線はキレた上司をも怯ませ、虚勢を張らせることに成功した。


「ひ、拾え! 誰かさんの所為で通常業務すらままならないんだ! そいつぁ今日の君の分だ。明日中に必ず仕上げてこい」

「わざわざご足労いただき申し訳ございません。ですが主任、情報保護のためデータの持ち出しは禁止されています。これは後で私が片付けておきます。もう定時ですので主任は先にお帰りください」


 やる事なす事全ていなされた前園の感情は、怒りと困惑でわけがわからなくなっていた。ただ、そんな状態でも部下の言葉に皮肉がたっぷり含まれていると理解できたのは、一端の社会人が故であろうか。

 やられっぱなしでは済まないのが前園の性分だった。皺一つない状態の書類の何枚かが、前園によって踏みつけらた。


「あー悪い悪い。足が滑っちまった。それじゃ、お疲れさん」


 前園がそう言った後、さらにグリグリと押しつけらた書類には、彼の足跡が薄黒くこびり付いていた。古城が何か反応を返す間もなく、上司は苛立った足取りでその場を去った。扉を乱暴に閉めるという行為は、もはや必然だった。

 少々大人げなかったな。古城は申し訳程度に頭を掻き、散らばった書類に手を伸ばした。視線は冷ややかなれど、実はその心の内をふつふつと煮えたぎらせていたのだ。仕事において、イライラする事ほど無意味なものはない。憎たらしい上司の事などとうに忘れて、古城は頻りに自身の行ないを反省した。

 心身共にフラストレーションが溜まっている。この状態から脱するには何をすべきか。書類を片づけ、再び長椅子にもたれた古城だったが、その問いの答えは既に決まっていた。電子端末を手に取り、何も表示されていない黒い画面をしばし眺める。

 数瞬思いつめた後、古城は発信履歴の一番上にいる人物の名前をタップした。

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