第11話「鬼瓦清秀」
姫紀は婚姻届けと叔母の同意書を持って部屋から飛び出そうとしている恭子へ最後の言葉を掛けていた。
『アレは本当に小難しい爺さんだけど、この屋敷では私が最も信頼していた人だから安心なさい』
且つての計画通りに恭子が屋敷の裏門に向かうと姫紀が言っていたように黒いセダンと運転手の白髪の老人が待機していた。
「恭子お嬢様、お急ぎください」
「お願いしますっ!!」
恭子が既にドアが開らかれていた後部座席に飛び乗ったのを確認すると、運転手の老人はその風貌からは考えられない程の俊敏さで後部座席のドアを閉めてあっという間に車を発進させていた。
向かうは市役所。
その道すがら、白髪の老人はか細い声で恭子に話しかけた。
「前当主様が亡くなって以来、恥ずかしながら私は保身に走ってしまい今は只の運転手を務めさせて頂いておりますが、以前のお屋敷では執事長をさせて頂いていたのです」
「……はい」
それは近い将来いつ寿命を迎えても良いように心のしこりを清算しておくべく、ある種最後の懺悔のようなものだったのかもしれない。
「貴女様の母君である咲子お嬢様は本当にお優しいお方でした……」
恭子は老人の口から自分の母親の名前が出た瞬間に意識がそこに集中した。
「おじいさんは私の母のことをよくご存知なのですか?」
恭子のその声に老人は小さく嗚咽する。
「ふっ……ふぅ……お姿も『お爺さん』呼んで下さるそのお声も、当時のお嬢様にそっくりでございます」
「私はお屋敷を守る執事長という大任を仰せつかりながら、『あの子を守ってあげてください』という咲子さまの母君の遺言をも守れず、前当主様をお諫めすることも叶わず、今になって思い返しても私の選んだ道は、これまでの日々の選択の全ては間違いだらけでございました」
老人の懺悔を聞きながら、一般家庭の母親としての彼女しか知らない恭子はお屋敷で過ごしていた自身の母親に思いを馳せる。
「私は貴女の母親を、咲子お嬢様を見捨てたも同然なのです。……前当主様が亡くなられた後も私は自分の過去の選択を誤魔化して正当化しようと、精神が不安定な姫紀お嬢様に厳しく当たってしまったことも多々ございました」
「どちらに転んでもこのお屋敷と吉沢の直系の力が消滅してしまう危機の今にならねば私は自分の過ちに気づけなかったのです」
「どうか……どうか……恭子お嬢様、私を憐れと思われるのでしたら、どうかっ……私を罵ってください。私を蔑み非難して『咲子お嬢様の人生を奪った愚か者』と叱咤してください。自分勝手な老人の戯言だと百も承知でございます。しかし、そうあらねば私は命が尽きるその日まで永遠に闇の中を彷徨い続けなければなりませぬ」
屋敷で単純な帝王学を学んでいた母親の咲子や叔母の姫紀と違い、ただの16歳の小娘にそれを願うのは余りにも酷なのは老人が言うように承知の上だった。
それでも彼は救われたかった。
一度でも誰かに自分の歩んできた道が誤りだった指摘されなければ、最後の道へ歩き始めることができないのだとずっと思い知らされていたからであった。
恭子も植松の家での半年間で自分は何を間違っていたのだろうと自問自答を繰り返し、その結果深い闇の中で現実逃避をしてしまったという過去により、多少なりとも老人の気持ちが解る節もある。
しかし、純一によって救われた恭子にはこの老人を責める理由は何一つなく、何よりも悲しい声で懺悔をしている人を責めたくなかった。
―――お爺さん。
その時恭子は純一の願いより一度だけ思い出していたあの日のことが頭に過ぎる。
『向こうで姫紀を助けられることができたら、もう一度だけでも……のお爺さんに会いたいわ』
それはあの日、事故に合う前に車の中で言っていた母親の言葉だった。
恭子は割れそうなほど痛む頭を押さえ言葉を絞り出していた。
「お母さんはあの日、車の中で言っていました。えっと……なんとかのおじいさんにもう一度会いたい……って」
老人はカッと目を開き、運転中にありながら恭子の座る後部座席に顔を向けた。
「な……なんと……」
血。
痛み。
額から流れる赤。
「ううっ……っ……っはあっ」
「恭子お嬢様っ!」
頭を必死に抑え、恭子は純一の願いで思い起こしたあの瞬間の続きを頭の中に蘇えさせる。
―――頼りなさい。
「も……もし、恭子が……吉沢のお屋敷に……捕まってしまったら……鬼瓦のおじいさんを頼って助けてもらいなさい……あのお屋敷で恭子を守れるのは姫紀とあのおじいさんだけだから」
それは絶命の瞬間に放った咲子の言葉だった。
「それが……お母さんが亡くなる前に言い残した……言葉です」
「本当に……本当に……咲子お嬢様が……鬼瓦と……」
「はい。そう言っていました。おじいさんは鬼瓦というお名前なのですね……」
恭子は母親の遺言に重ねて、必死に老人に縋る。
「おじいさんっ!お願いしますっ!私を助けてくださいっ!どうかっ、私とおじさんを助けてくださいっ!!」
責めるでもなく、怒るでもなく、縋りついて自分を頼る恭子の姿を見て、老人の皺くちゃの瞼からすでに枯れ果てたはずの雫が零れた。
「咲子お嬢様は私なんぞのために……最後の最後にチャンスを残してくれておられたのですなっ!!」
老人はバックミラーに映る3台のパトカーに睨みを向けて思いっきりブレーキを踏む。
同時にブレーキに備えて受け身を取りつつも、追いかけて来るパトカーの存在を知った恭子の顏に険しさが表れた。
「恭子お嬢様……役場はもう目の前です。どうか行ってくだされ。私はここで咲子お嬢様のご遺言でもある最後の約束を果たしとう存じます」
「でもっ……」
しかし、恭子には一人の老人が複数の警官を抑えるのは荷が重く、最悪捕まってしまうことも考えると、そのまま自分だけを降ろしてこの車で立ち去ってもらったほうが良いのではないかと迷いが生じる。
「心配なさるな……私は久々に日の光を感じたように思います。私は恭子お嬢様が思い出して下さったお言葉によって私はこの日の為に誤りだらけの選択を自問自答してきたのだと確信することができました」
「行かれよお嬢!お互い今、自身が何をすべきか迷う暇などござらんっ!!」
それは恭子自身も靄がかった何かが晴れた瞬間でもあった。
「お願いしますっ、おじいさんもどうかご無事でっ」
二人が同時に車から降りてお互い逆方向に足を向ける。
そして老人は恭子が役場の方へ遠く離れていったのを確認すると、改めてパトカーから降りた警官たちと対峙した。
「なんなのよっ!あの小娘はっ、次から次へとおかしな仲間を連れて来てっ!今度は老いぼれのジジイって、一体何がどうなってんのよっ」
「ほう……娘よ。お主にもワシが老いぼれに見えるか……そうかワシはそれほどにも老いたのか」
老人がそう述べた瞬間、その後ろから獣のようなオーラが漂っているのを女性警官は感じた。
「じ、爺さんが何者かは知らないけど……こっちも今度は……(合コンで知り合った)現役の機動隊の友達を連れて来てんだから、爺さん一人で適うわけないでしょうが!!」
女性警官の威嚇の言葉により、その後ろに並んでいた強面の警官連中に老人は目を向けた。
「見たことのある連中が顔を並べていると思ったら、小童たちではないか」
「「ひぃ……おっ、鬼の
「なっ、なんなのよアンタたち!揃いも揃って老人一人にビビってんじゃないわよっ!」
「いや……でもっ……この方は……以前の俺たちの……その……県警本部の柔道の師範で……」
「お主等もお主等の立場があろうことは十分わかっておる。お互い情けは無用じゃな……ここで且つての師弟対決も面白かろうて」
老人はスーツの上着をシャツごと脱ぎ捨てて、筋肉粒々の上半身を露わにする。
「この鬼瓦清秀が相手を致す!……小童共よ、彼の日からの鍛錬の成果を見せてもらおう。見事この師を越えて見せよっ!!」
オロオロする女性警官の尻目には、機動隊の面々が次から次へと白髪の鬼にぶん投げられている姿が映し出されたいた。
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