第7話「歪んだ婚姻のカタチ」
恭子が吉沢の屋敷に向けて全力で走っていると門の近くには見知った若い女中が既に隠れており彼女の姿を見るや表に飛び出す。
「恭子お嬢様!こちらへお急ぎ下さいっ」
「朱音さんっ!お願いしますッ」
恭子にとっても姫紀の実家は純一が貸倉庫に入れていた両親の家財道具や遺品を彼女と共に運んで以来、特に純一が出張してからは何度も招かれたりしており、もはや勝手知ったるといったもので女中に案内されるまでもなく、姫紀の執務室へと走る勢いを更に増していった。
「姫紀お姉ちゃん!!」
勢いよく恭子が扉を開けると机で淡々と執務を行っていた姫紀は彼女の顔を見上げて、表情こそ凛としたままに見えたが一瞬だけ顔を綻ばせていた。
「恭ちゃん、本当に良く来たわね。貴女が絶対に来てくれると私は信じていたわ」
短くそう労いの言葉を掛けると、大きな机を挟んで対面に小さく息を切らせながら立っている恭子の前にスッと2枚の紙をスライドさせその横に印鑑を置く。
「えっ?これは……あっ」
「ええ、そうよ。渡辺さんが出張にたつ前……あの日、彼に書かせたものよ」
無論その日恭子も同じ場所にいたのでそのことを知らないわけもなかったが、『ヤキモチ焼きの姫ちゃんがあっちで浮気させないために冗談で書かせていただけだよ』と都華子に言われており、恭子自身もいつも純一にちょっかいをかけている姫紀のいつもの悪ふざけ程度にしか感じていなかった。
「婚姻届けに、もう一枚の紙は以前植松に書かせていた貴女の行動を自由にさせる覚書、それとこれは形見分けに貰っていたお姉ちゃんたちの遺品の神海の印鑑」
そして再び恭子に向けて顔を上げた姫紀はその目をジッと見つめ言葉を続けた。
「埋められていない最後の空欄に自分の名前を書きなさい……そして捺印を押すの。これはあなた自身がやるべきことよ」
「ひ、姫紀……お姉ちゃん」
これが冗談の類でないことくらいは恭子でもわかる。だからこそより困惑する。
「恭ちゃんは私が渡辺さんの居ない時にマンションへ家庭訪問に行ったことを覚えてる?」
ゆっくりと頷く恭子。
「あの時はとても酷いことを言ってしまったわね。あのマンションは貴女にとって所詮は砂上の城でしかないって……ね」
「……覚えています」
そして、それが今のような事態を招く意味だったことも理解しており、恭子は自身の体温が徐々に失われていくを自分でもわかった。
実際に砂の上に立っていた牙城は吉沢旧体制派と彼らが操っている警察組織によっていとも簡単に崩されてしまった。
「いくらお互い家族のように思っていたのだとしても、法的に何の根拠ももたない貴女たちの関係はアイツ等にとって十分過ぎるくらいの隙になっていたのよ」
「私はあの家庭訪問の翌日に渡辺さんに二人きりで会って直接提案したわ。恭ちゃんを守りたいなら植松を脅してでも結婚しなさいと」
恭子にとってその先の純一の反応を知ることはこれ以上に無い恐怖でもあったが、自分がこれから何をすべきか薄っすらと理解していた彼女は、それ故にこれからの自分にとって知らなくてはいけない事だともわかっていた。
「お、おじさんは……」
姫紀は静かに微笑んだ。
「軽く流そうとされたもんだから、私がそれなりに煽ったら『まるで人買いだな』って胸倉を掴まれたわよっ」
姫紀から説明を受けても、その時の状況がイメージできずただ困惑しながら想像することしかできない恭子に彼女は優しく声をかける。
「安心しなさい。渡辺さんのことは恭ちゃんが一番理解しているはずよ」
「不要な説明だったわね。旧体制派の強硬手段……こうなるのはわかっていたわ、でもあの時に私の覚悟が足りなかった所為で今のような状況に陥ってしまったの。それを知っていて欲しくて……ね」
「恭ちゃん、胸を張りなさい。貴女にはやましいことも後ろめたいことも一切何もないわ。堂々と渡辺さんを連れて帰ってきなさい!」
「本当の家族になりなさい」
色々な想いが姫紀と恭子のふたりの距離を交錯したが、刹那、恭子の目から力強い輝きが溢れ彼女は何重にも折りたたまれて皺くちゃになっていた婚姻届けの空欄にスラスラとペンを走らせた。
そして横に置かれていた印鑑に掘られた『神海』の文字を確認すると、朱肉と婚姻届けの用紙にありったけの力を込める。
「姫紀お姉ちゃん―――私、渡辺恭子になります」
その力強い声は決して幸せになるべく嫁に行く女性のそれではなかった。
感覚的にはむしろ、政略結婚で嫁に出される戦国時代の姫の覚悟に近かったのかもしれない。
全てを差し出してふたりを守ろうとする姫紀の想いと彼女の自身の彼への想いが決意をさせる。
それは恭子にとって初めての失恋だった。
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