第15話「俺は恭子のことを何も理解していなかった」


 正直言って、その日の仕事は全く手につかなかった。


 業務量自体は一時に比べ落ち着いており、直樹が率先してフォローしてくれたため職場への影響はなかったのだが、俺の様子に部下たちが心配してくれているのにも関わらず、自分自身に心の整理がついていなかったこともあり、チーム全体への報告は先延ばしにしてしまった。



 悩む理由の大半は恭子への九州転勤辞令の報告だ。


 只でさえ何故か年末から年明けにかけて恭子と余り話をしておらず、顔を合わすことも少なかったこの状況でどうすればいいか、そればかり考えていた。



「ナベさん、後は俺がやっておきますんで」


 定時になって『早くあがった方が良い』と直樹が進めてくれたので帰り支度をするも、どうして足取りは重く気分が晴れない。



 それでも、車に乗ってアクセルを踏む度に自宅は着実に自分へと近づいてくる。



 

 俺がマンションのドアを開けて、靴を脱いで、背広をハンガーに掛けていると、部屋から恭子が出て来た。


「おじさん、お帰りなさい。すみません私は先に夕食をいただいてしまいました。おじさんのご飯をすぐに準備しますね」


 ここの数日、一緒に食事をしていない。


 恭子は俺の飯をつくるとすぐに部屋に戻ってしまう。


 話すなら今しかない。


「恭子……話があるんだ。とても大事な話だ」


 俺がそう言うと、キッチンに行こうとしていた恭子が翻って俺に向かい合う。


「はい」


 俺は生気の感じられない深呼吸をして、覚悟を決めた。



「俺……どうも九州に転勤しなくちゃいけないみたいなんだ」



 言い終えると共に俺は目をグッと閉じる。


 情けないほどに恭子の反応が怖かった。


 

 恭子からは何も声が聞こえてこない。


 恐る恐る、目を開く。



 そこには何故か表情ひとつ変わっていない恭子の姿があった。


 「……はい」


 ただ、静かにそう答えただけだった。



 何故?どうしてそんなに平然としているんだ。


 むしろ、心なしかどこか吹っ切れた様子にも感じられる恭子。


 もしかして……


「おまっ……恭子、ひょっとして知ってたのか」


 俺の言葉に、コクリと頷く。


「吉沢さんに……口止めされていましたが、同級生の吉沢瞳さんから一週間ほど前に聞きました。たまたまおじさんの会社の人事の方の話を耳にしたそうでして」


 吉沢瞳……、あの巨乳か!?


 高校生の小娘が『たまたま聞いた』だなんて余りにも不自然過ぎる。


 仮に本当に偶然耳にしたとしても、大して面識もなく名前に特徴もない俺のことをピンポイントで反応するだろうか?


『―――神海ってオジサンに依存し過ぎじゃない?』


 餅つきの最後で投げかけられたあの言葉が脳裏に過った。


 直樹にしても、恭子にしても、俺のいる蚊帳の外で色々と何かに動かされているのではないかという疑念が湧いたが、敢えてそれを無視する。

 

 今、優先すべきはソレじゃない。



 少なくとも、これで恭子がずっと俺を避けていた理由が分かった。


 俺に気づかれないように、一人で悩んでいたんだ。



「そうか、知っていたのか」


 それに対する、恭子の何度目かの「はい」は決意に満ちた力強さがあった。



「私はおじさんに付いていきます」

 

「恭子……それは、いや……それは、だな……」


 正直これは余り想定していない反応だった。



「九州に編入できるところがあればどこの学校でもいいです。それが無理なら中退して働きます」


 恭子の覚悟が俺の脳の処理速度を超えて攻める。


「ちょっと待て、待つんだ、恭子」


 中退して働くだなんて、師匠になんて報告すればいいんだよ!



「私は色々と考えました。それでも、おじさんを絶対にひとりにはできません。それが北海道でも海外でも私はおじさんに付いていきます」


 だから、待て、待てってば!


 なんで、俺をひとりにできないのが理由なんだ!


 恭子が俺のところに来る前もちゃんとひとりで生活していたんだ。


 

 そんな葛藤と裏腹に、俺には込みあげて来る喜びも確かにあった。


 しかし、俺の都合で恭子の自由を奪っていいはずはない。


 此処には、恭子にとって俺以上の本当に得難い存在があるんだから。



『―――神海ってオジサンに依存し過ぎじゃない?』


 違う、これじゃあ俺が……恭子に依存してしまっているじゃないか。


 くそう。


 くそう、くそうッ。



「恭子、だめだ、駄目なんだ。それじゃ、駄目なんだよ」


 俺はがむしゃらに首を振った。


「此処には、心の底から恭子のことを思ってくれている姫ちゃんがいる。それにとっちゃんもいる、じゃないか……彼女みたいな無二の親友なれる存在なんてどこにでも居るもんじゃないっ!!」


 俺は形振なりふり構ってはいられなかった。



 でも、その後の恭子はそんな俺以上に取り乱していた。



「お、おじ、さんっ。お願いです、私を置いていかないでくださいっ!!お願いです、これ以上の我がままは絶対に言いませんからっ!!言うことも聞きますからっ!!なんでもしますからっ!!―――私を置いていかないでっ!!」



 くそう。


 くそうッ―――クソッタレ!!


 

 俺は唇を噛みしめて、絞り出すように答えた。


「恭子は、ここに、いる、べき、だ」


 

 縋りつく恭子の目を直視できずに、顔を逸らす。


 俺の顔から汚い涙がボロボロと落ちていくのが悔しくて堪らなかった。



 

 そして、泣き叫んだまま恭子は自分の部屋に閉じこもり、恐らくはここに来て初めての鍵を自室の扉に掛けていた。



 取り付く島もなかった。



 結局、俺は恭子のことを何も理解していなかったんだ。



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