第80話 ほろほろと流れる…

 不思議だ…。

 彼女との思い出は、あまりいい思い出が無い…。

 彼女が、もう1時間早く起きれば、出来立てのピザを食べれるのに…冷えたピザを食べるハメになる。

 マッサージチェアがあるホテルじゃないと嫌だと、夜中に車を何時間も走らせる。

 メニューに載ってない料理を店に作らせる。

 コンビニで買った食べ物を飲食店に持ち込んで食べる。


 常識的に出来ないこと…言えないことを平気で出来る。

 イライラとした…恥ずかしい思いもした…呆れたこともある…。

 そう…知り合って、一緒に行動するたびに彼女の常識の無さに驚かされた…。

 いい思い出なんて…思い出せない。


 なのに…なんで、思い出すと僕は微笑んでいるのだろう…。

 楽しかったのか…。

 彼女の癇に障る声…間延びしたしゃべりかた…感情的になると一方的に大声でしゃべりまくる彼女。

 車の助手席で膝を立て、食べ物をこぼしながら食べる彼女。

 彼女が座る様になってから、洗車の回数が増えた…。

 ケーキが少し嫌いになった…。


 鳴らなかった携帯が鳴るようになった。

 他愛もないやりとりが楽しみになった。

 次の休みを待ち遠しく感じるようになった。


 寂しさも知った…。


 今は…彼女の声を聞きたいと思う。

 彼女を抱きしめたいと思う。


 ロクな思い出がないのに…その思い出が、ひどく懐かしく…かけがえのないものだと思える。

 とても大切な時間だったと思う…。


 僕の感情は、彼女が揺り起こしていたんだ…。

 僕だけでは微かに動かすことすら適わなかった感情を彼女だけが…。


 塞ぎこむだけの日々に、彼女だけが僕の特別だった。

 ホテルでしか逢えないけど、特別な時間だった。

 いや、ホテルを出てから、送迎が来るまでの間、彼女が僕の車で待っている時間のほうが楽しかったかもしれない…。


 僕が失職してからも、彼女は僕にメールを送り続けた。

 労働審判までの不安なときも、僕に頑張れと…諦めるなと応援してくれた。


 ずっと隣にいてくれた…。


 それなのに…僕は…それが当たり前だと思っていたのかもしれない。


 手放そうとしても…放り出そうとしても…逃げようとしても…。


 僕の手は、彼女の思い出を握ったまま…強く…強く…握ったまま。

 この手は、彼女を放そうとしない…。


 握ったままでいいのだろうか…。

 もし…彼女が僕から離れて行っても、この思い出は消えることは無い。

 ずっと…ずっと…僕を微笑ませてくれるのだろう…。


 今も僕の思い出で彼女は笑っている。

 彼女が隣に居てくれるなら…僕に微笑んでくれるなら…僕は大丈夫…。

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