四十二振目 正宗がわからない

 正宗、それはもはや一般常識レベルの存在。日本において最も有名な刀鍛冶……なのですが謎の分からない人物。


 一般的な説明では鎌倉時代工期の相州伝鍛冶、日本刀中興の祖。相模国、山の内で鍛刀。系列が「国光-正宗-貞宗」という感じかと。

 でも、実際には以下のように不明点が数多かったり。

・鎌倉幕府お抱えの筆頭鍛冶ながら生没年不明。南北朝期まで生きたとする説もあれば、そうでないものもある。

・もちろん主たる活躍年も正和頃?と曖昧で資料が残っていない。

・相模国住というのは確かながら、実際にはどこで鍛刀したか記録がない。

・新藤五一派とされるが、師匠が五国光だったり行光だったり。さらに古い資料では国宗一派とするものまである。

・日本各地の鍛冶を巡り技術を学んだという伝承もあるけれど、足跡の類いは一切記録にない(これは水戸黄門と同じような感じ?)。

・俗名が五郎とあるため、五男と想像されるものの出自も家系も判らない。たとえば行光との関係も、兄弟弟子、兄弟、子、養子と様々な説が。

・新藤五の「国光」系列としても、他の弟子が「国広」「国泰」「行光」などと名乗る中で、「正宗」と一字も合っていない。

・その弟子も「正宗-貞宗」と続いただけで後は「宗」が続かなかった。

 などなど。

 抜群の知名度に比べ、ハッキリするのは「鎌倉時代後期に存在した、相模国にいた、国光・行光と関係がある」といった程度。鎌倉幕府筆頭鍛冶のわりに、資料が残ってなさすぎ。

 一時は架空人物とまでされ存在を疑われ「正宗抹殺論」が唱えられたのも無理ない事かと。これは文明開化という名の革命後、旧体制の徳川家への反発と共に、その価値観の中で最高峰とされた正宗が巻き込まれただけかもしれませんが。


 そして正宗という名前も分からない。国光系統の生え抜き弟子でありながら、その字が一つも使われていない。

 さらに「正宗」という名を考えると

 「正:標準とすべきもの」

 「宗:初祖を伝える宗派」

 となるわけで、随分とご立派な名前。

 しかも、鎌倉の地にはご存じの通り国宗系統が存在したわけですから、国光系統の一員が「宗の正当」とも読める名乗りをするものか?

 現代で考える以上に名前は重い意味を持っているはずなのに……。


 さらに、その後の時代で兼光や長義といった備前系の刀工が正宗に私淑し相伝備前で作刀を行った点も分からない。

 通常は「備前鍛冶が時流を読み、柔軟かつ積極的に相州伝の作風を取り入れた」と解釈されますが……本当にそう? それまで時代の中心であった一派が、あっさり新興鍛冶の真似をするものでしょうか。

 歴史ある大企業が新興企業と提携しようと社長が決断しようとも、OBやその派閥が首を縦に振らない事は普通によくあるわけでして。人間感情的にそれはありえるのでしょうか。

 当時の備前伝と言えば、大手軍需会社にして最先端兵器製造所。一族郎党合わせ、二千数百名が存在していたとも言う大勢力。その備前が納得できるだけの理由はなんだったのか。


※※※ここからは全くの妄想※※※

 正宗という人物は、国宗系の正統の意味をもつ「正宗」を名乗れるだけの、国宗系血筋があり、周囲もそれを知っていた。

 しかし、何らかの理由で素性が隠され、備前国や国宗一派では養育することができなかった。そのため、国宗の高弟である国光が引き取り養育をした。

 その後に大成したため、国宗系血筋である事を知らしめる意味で「正宗」の名乗りが許された。よって備前正統系は正宗に縁族という名目があるため、相州伝を取り入れる事に抵抗がなかった。

※※※以上妄想※※※


 そして正宗の刀も分からない。

 正宗をそれと知らず渡された時は、「相州系上作、肌が立ちすぎ騒がしく刃文も強すぎ」とイマイチな感想。で、正宗と知らされビックリすると同時に肩すかし。なにせ、もっと見た瞬間に感動する作に違いないと思っていたのですから。

 国光・行光は一目で名品と分かるものの、正宗はどうにも分からず素晴らしい何かがあるわけでもなし。好きなだけ観せて貰って小一時間、正宗を観続けたものの一向に良さが理解できず……。

 所有者によれば「正宗に近づくほど正宗を良くないと思い、正宗を超えたら素晴らしいと思える」のだとか。よく分かりませぬが、見る側に見る眼を要求する玄人向けの刀が正宗という事のようです。

 なんにせよ正宗はわからない。

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