空―Kuu―

 ええっと、まずは。

 腰を低くして背筋を伸ばし、足腰をしっかり地面に固定して。

 足元においていた空手入門書のページが風でパラパラとめくれる。


(頭の先からケツの穴までに一本の芯が入ったように……おっと、笑うなよ。真面目に言ってんだからよ)


 拳は指のほうを上にして、指先を巻くようにして握り、腰の辺りに構える。


 そして腹に力を入れて――


「はっ!」


 右の拳を押し出すように突く!


「はっ!」


 右の拳を戻した後で今度は左の拳を突き出す。


「あれえ? 何してんの?」

「結崎クン空手部にでも入るの?」

「なになに? もっと見せて」

 同じ散歩部の部員の女子三人が話しかけてきた。

「……別に」


 こちらの真剣な表情から察したのか、その三人の女子達がそそくさと去っていく。

 女の子にガンを飛ばしてしまった。

 だがかまわずに空手の正拳突を続ける。

 回数なんて考えない。なぜなら、


(剣道とかでもそうだけどさ、空手も同じなんだよな。一回一回しっかりと拳を振った分だけ、少しづつ強く慣れるんだ)


 何度も、何度も、何度も何度も拳を交互に突き出す。


「…………」


 不意に拳を止めて、両の手のひらを開いて見てみた。

 手のひらには何にもない。


 めまぐるしくも信じられない事が起こって、その後から何もなくて落ち着いたからか、拳を握って攻撃的な事をしている自分がとても久しぶりに感じる。


 だが手のひらには何もない。

 いや、最初は初めから何もなかった。だが今はある。


 確かな『力』という、明確なものが。


「…………くっ」

 歯を食いしばり、空っぽの手のひらを強く握る。


 空手の構えに戻って、また正拳突きを繰り返した。


 勝ったのに、戦って生き残ったのに、何でこんなに狂おしいのだろうか。

 自分でも分からない。


 なんでこんなに胸が苦しくも疼くのだろうか?


 なんでなんだ?


 焦り? それとも欲求? 戦いたいのか? 強くなりたいのか?


 ――今でもヤツが……敵が俺を見ている。


 三日ほど前からだ、敵の視線を感じるようになり、視力が強くなり、やつの姿をはっきりと目撃した。

 だがその敵は、こちらを見ているだけで何もしてこない。こうしている今でも、無防備な姿を晒しても、何もしてこない。


 煩わしい。言い方を変えればうっとおしい。


 追いかけてみようかとも思ったが、舘山寺さんにどうするか相談したほうがいいかもしれないし、また優子が巻き込まれてしまうかもしれない、さとられないようにしなければ、そんなことが頭の中で葛藤し、こんな気持ちになってしまった。


 自分はどうしてしまったのだろうか?

 ただ見ているだけのヤツがうっとおしい。うっとおしくてぶん殴りたい。


 俺はこんな暴力的だったか?


 戦うことに喜び焦り、欲求になっている。


 俺はこんな人間だったか?


 ……まるで、あのアスラーダのようだ。


 ――緑島。


 緑島の遺体は街中の河川で浮かび上がっている所を発見された。頭は無かったが、学生服とポケットに入っていた学生証ですぐに分かったそうだ。


 ――あいつに教えてもらった正拳突きのやり方。


 体が疼く。考えすぎて胸がいっそう苦しくなった。

 拳を突き出し、拳をふるい、胸の中の者を吐き出すように力強く拳に乗せる。

 はあああ、と静かに長く息を吐く。


 闘争心。と呼べばいいのか、この気持ちは多分そう呼ぶのかもしれない。


 戦いたい。戦うべき敵がいる。


 この力をもっと振るいたい。巨大な力を試したい。


 俺の心のうち。俺はこんな人間だったのか?


 エルガイアになることが出来て、エルガイアと融合して、俺の胸のうちが変わってしまったのだろうか?


 唐突にエルガイアという巨大な力を得て、俺はどうかしてしまったのだろうか?


 強くなりたい。そして強くなったこの力を振るいたい。

 戦いたい。そう体が疼く。

 だが何度も、何度も何度も拳を振っても、相手のいない拳は空を切るだけだった。

 そして心のうちでは、なぜだか分からない焦りが渦巻いて、それは空回っていた。



 

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