第16話 剥がれたヴェール
惑わされる気持ちを断ち切るように、目を瞑った。
どうせ目を開けていても姿など見栄やしない。なまじ開けているから頼ってしまうのだ。
だからスピネカーマの攻撃にも対応し切れない。
役に立たない視覚を捨てて、他の感覚に意識を集中しよう。
耳を澄まし、体表を撫でる空気の流れを感じ取るんだ。今の俺にはそれが出来る筈だ。
信じろ、グリフィンの力を。グリフィンは決してスピネカーマに負けはしない。
息を殺し、腰を落とし、意識を研ぎ澄ます。
背中の翼に何かが触れた……誠司の手だ。
翼に手を掛け、体を引き起こし、俺の背中をよじ登っている。何をしようとしている?
──その時、ほんの僅か、正面から流れて来る空気が震えた。
咄嗟に振り上げた左腕にスピネカーマの舌が直撃した。
車が衝突したような音を立てて左腕の外殻が歪み、一部が割れて吹き飛ぶ。
振り上げた左腕の陰にいた誠司は驚き、俺の背中から落下した。
「今ノ攻撃を受ケ止めタ!?」
誠司を狙っていたスピネカーマが驚きの声を上げた。
今の声で居場所は分かったが、同時にスピネカーマの気配が消える。
攻撃を防ぐだけじゃ駄目だ。居場所を特定して捕まえないといけない。
「辻崎くん!」
柳瀬さんの悲鳴が俺たちのずっと後ろから聞こえた
彼の他にも複数の呼吸音が聞こえる。警官たちだろう。
「だ、大丈夫大丈夫!」
誠司は応えながら再び俺の背中をよじ登り、俺の肩に手を掛けた。
彼の右手には何かが握られている……ペットボトルと水鉄砲、か?
「グリフィン、動くなよ!」
ペットボトルを振り回して、中に入っている液体を俺たちの周囲に振り撒いている。
その手付きは妙に慎重で、俺たちに中身がかからないようにしている。
撒かれた液体が周囲の地面に染み込み、特徴的な異臭が漂う。これは、まさか。
「あいつの武器が糸だって分かってさ、使えそうな物を色々と準備してきたんだけど」
俺の視線を感じたのか、新たなペットボトルを取り出しながら誠司が言う。
液体を撒く事がスピネカーマに有効なのか?
確かに匂いの強い物は生物を遠ざける事もある。だがキメラ怪人にそんなものが有効なのか?
「闇に擬態しているスピネカーマは目を閉じてるの、気付いていたか?」
頷くと、何故か誠司はとても嬉しそうな顔をした。
液体が撒かれていない離れた地面に水鉄砲を向ける。発射されたのはやはり異臭のする液体だ。
そうやって誠司は俺たちの周囲の地面に満遍なく液体を撒いていく。
「蜘蛛って大まかに言うと、巣を作って獲物が引っ掛かるのを待つやつと、自分から動き回って獲物を探すやつがいるんだけど、二ノ宮に言わせるとスピネカーマは両方の特徴を持つハイブリッドなんだそうだ」
両方の特徴を持っているということは、スピネカーマは動き回りながら俺たちに襲い掛かって来るが、巣を作る事も出来るという事か。
……巣だって? 何処に?
「二ノ宮ほどじゃないけど、俺も少しだけ蜘蛛については知っててさ。巣を作る蜘蛛は、糸に加えられた振動を感じ取って獲物が捕まった事とその居場所を知るんだ」
ペットボトルと水鉄砲を放り捨てた誠司は、俺の頭部から生えている長毛を手綱のように掴んでバランスを取りながら、ポケットからジッポーライターを取り出す。
見た事のあるジッポーだ。以前、片手で開閉する事が格好いいと言って、煙草を吸うわけでもないのにわざわざ買った高級品だったな。
『カチン』と小さな音を立てながら、片手でジッポーの蓋を開く。と、同時に着火する。
近くで空気が大きく揺らめいた、スピネカーマの気配だ。
猛スピードで気配が近付いて来る。誠司の意図に気付いて焦っているのか?
「じゃあ、その巣は何処にあるんだろうな」
火が着いたままのジッポーを正面に放る。その先にある地面には異臭のする液体がたっぷり染み込んでいた。
スピネカーマが擬態している事も忘れて大声を出した。奴は俺たちの正面にいる。
「おい、なにを──!」
思わず漏れた俺の声は、膨れ上がる炎の勢いに掻き消された。
炎から逃れる為に慌てて翼を噴射しようとする俺の長毛を誠司が強く引っ張る。
「逃げるな、ここが戦う場所だ!」
馬鹿な事を言うんじゃない。
外殻に守られている俺はまだいいが、誠司は生身だ。
足元に液体は撒かれていないが、周囲の炎が発する熱気は相当のものだぞ。
「前を見ろ!」
熱気に目を細めながら誠司が叫ぶ。
スピネカーマの舌が、揺らめく炎の壁を突き破って襲い掛かって来ていた。
避ける暇もない。だが狙いは見当違いで避ける必要は無かった。
見当違いの場所を貫き、引き戻される舌を俺と誠司はじっと見守る。
その後も何度か攻撃が繰り出された。だがその全てが空を切る。急に攻撃の精度が落ちた、どうなっているんだ?
「地面をよく見てみなよ」
炎に炙られる地面に目を凝らすと、何か細い物が熱気に煽られて踊るように揺れながら溶けるように燃えていた。
……これは糸だ。
しかしスピネカーマの吐き出した糸にしては細い……いや、細いのではない、あいつが吐き出している糸は束だった筈だが、燃えている糸は束になっていないのだ。
という事はこの糸は吐き出した糸とは別の糸という事になる……先ほどの誠司の思わせぶりな話の内容から考えると、この糸は……これが巣の糸か!
「やっぱり、こいつがセンサーになって目を閉じても俺たちの居場所が分かるようになっていたんだ」
蜘蛛の巣というと二つ以上の地点を繋ぐように空中へ張るものだと思っていた。
だがスピネカーマは地面に敷くように巣を張り、俺たちがその上を歩くことで発生する振動を感じ取っていたのだ。
地面に接している事で振動はほんの僅かになるだろうが、キメラ怪人ならそれでも感じ取れるとしても不思議ではない。
「ほらほら、もっと燃えろ!」
水鉄砲から発射された液体は空中で霧状になり、炎が一気に燃え移る。
「中身はライターオイルなんだ」
先ほど撒いていたペットボトルの中身も同じ物だろう。
ライターオイルならばコンビニでも簡単に購入できるが……真似する者が出て来ない事を願うばかりだ。
急激な燃焼から小さな爆炎が広がり、近くの闇が苦悶の声と共に赤い目を開く。
「マサか、気付かレるトハ……たダノ人間に!」
「グリフィン、あそこだ!」
誠司が指差したその方角から糸の束が襲い掛かる。
腕で糸を絡め取り、立て続けに打ち出される舌をかわした。誠司は長毛を掴み、俺の動きに振り落とされまいとしがみついている。
誠司が乗っている状態では無茶な動きが出来ない。これは困ったぞ。
誠司のお陰でスピネカーマの闇への擬態を打ち破る事が出来た。
だが逆に誠司が傍にいるせいでスピネカーマへ思い切った攻撃が出来ない。
「焦るなよ、次の作戦だ」
誠司の声は落ち着いている。
巾着袋から何か取り出した誠司は俺の肩に跨り、片手で長毛を掴んで姿勢を保持する。
簡単に言うと肩車をしている格好だ。
「これで少しくらい揺れても大丈夫だろ。次の攻撃は避けずに何とか凌いでくれ」
「……」
「俺は、お前だけを戦わせはしないぞ」
分かったよ、誠司。
ここまで来たら、一緒に戦おう。
闇の中に目を凝らす。そこに溶け込んでいるスピネカーマは見えない。だが、巣のセンサーを失ったスピネカーマは攻撃の瞬間に必ず目を開く。
問題は俺と誠司のどちらを狙って来るのかという事だ。
考えるんだ。スピネカーマが狙うのはどちらだ?
スピネカーマにダメージを与えられるのは俺だけだ。俺がやられたらもう打つ手は無くなる。
だが、俺だけではスピネカーマには勝てない。誠司の作戦が成功しなければならない。
そう考えれば……先に狙うべきなのは……。
視界の隅で赤い光が二つ灯る。体を捻って向き直りながら、俺は両手を前に突き出した。
「うわっ!?」
金属同士が擦れ合うような音を立てて、誠司を庇った腕に糸が絡みつき、その直後に強烈な打撃が腕を弾く。
「わ、悪い、もう一度だ!」
誠司が言い終えるよりも速く、『ボヒュッ』と空気をこそぎ取るような音と共に、殺傷能力の塊が込められた糸が目の前で放たれた。
反射的に仰け反りそうになるが、誠司の言葉を思い出して踏み止まり、誠司に当たらないように両腕で彼を守る。
小さな衝撃と共に糸が胴体に張り付き、金属の擦れ合う音と小さな火花があがった。
糸を受け止めている間に誠司は糸に触れないよう注意しながら、俺の肩の上に立つ。
「今度こそ!」
スピネカーマの打撃が脛を打った。凄まじい衝撃に足を取られて態勢を崩す俺の目の前で、バラバラに動いていた二つの赤い瞳が誠司を見据える。
俺の肩から放り出される形になった誠司に、引き戻された舌の先端が向けられていた。
咄嗟に手を伸ばして舌を掴み、鉤爪を突き立てて押さえ込む。その先端から再び糸が放たれたのとほぼ同時。
──カシャン
何か乾いた物が砕けた音がした。
背後に鈍い落下音。全身に糸が絡みついた誠司が倒れていた。
倒れた誠司は身動ぎ一つしない。全身からは血が流れ出ている。
「動かなければ大丈夫だから!」
思わず駆け寄ろうとした俺を止めたのは誠司の声だ。
その声は生気に満ちており、致命傷を負ったようには聞こえない。
これは、後で誠司本人が怪人調査クラブのレポートで誇らしげに書いていた事だ。
スピネカーマの糸がもっとも殺傷能力を発揮するのは巻き付いた糸が引かれる、つまり絞め上げられた時だ。
触れただけでも指先が切れるほど鋭利な糸だが、絞め上げたりしない限りは糸の細さ以上の深さに食い込む事はない。
巻き付かれてももがいて糸と体の間に摩擦を生じさせなければ、じっとしている限り深手を負う事はまず無いだろう、と。
だが、それでも全身に傷を負った誠司は血塗れだ。放っておくわけには。
「行けよ! 逃がすな!」
風圧すら感じそうな剣幕で怒鳴られた。
叫んだ弾みで全身の傷を更に増やしながら、誠司は眼光鋭くスピネカーマを睨む。
「被害者をこれ以上、出しちゃいけない」
彼の視線を辿った先に、ぼんやりと薄桃色の光が浮かび上がっている。
闇を見通す事の出来ない、グリフィンの目でもその色ははっきりと見える。
そうか、誠司はこれを狙っていたのか。
今までの対策はスピネカーマを倒す為のものではなかったのだ。
動揺しているのだろう。薄桃色の光の中でドーム状の赤い瞳がギョロギョロとせわしなく動いている。
その足元には薄桃色の光に塗れた幾つかの破片が転がっている。乾いた音の正体であり、誠司が投げたそれはかつて球体だったものだ。
誠司の実家が営む店で見た事がある。レジカウンターの内側に常備している蛍光塗料を詰めたプラスチック製のボールだ。
強盗が入った時なんかに逃げる犯人に向けて投げ付け、割れたボールから飛び散る蛍光塗料を浴びせて目印にする為の物だ。
これをぶつけてスピネカーマの最大の武器である闇への擬態を封じ込める。
それが誠司の狙いだったのだ。それだけの為に、ここまで手段を弄してスピネカーマに立ち向かっていたのだ。
「グリフィン、頼む」
答える代わりに俺は、スピネカーマに対峙した。
スピネカーマの姿は闇に溶け込んでいるが、蛍光塗料を浴びた部位がぼんやりと浮かび上がっている。
ここでスピネカーマを倒さなければならない。
もし逃がしてしまったら、次に戦う時はスピネカーマも対策を練って来るだろう。
ただの人間の誠司が、恐ろしい敵を相手に必死に戦って掴み取ったチャンスだ。
大したものだと思う。
やっぱり誠司は凄い奴だ。俺と違って勇気があって、頭もいい。とても敵わない。
だけど、誠司と違って臆病で、大して頭もよくない俺にも出来る事がある。
それはグリフィンの力で戦うことだ。
俺ならキメラ怪人を倒す事が出来る。
これから先、俺たちがキメラ怪人に脅かされずに生きていく為に。
その為に、俺はこいつを──!
△▼△▼△▼△▼△▼
──ォォォォォオオオオオオオンンンッ!
夜の空をグリフィンの咆哮が震わせる。
迷いを振り払い自らを鼓舞するような咆哮だ。
地面を蹴り、反復横跳びのように真横へ十メートルほど跳んだ。背後にいる誠司を巻き込まないようにする為だ。
重々しい音と共に着地する。抉れて巻き上がった土が地面に飛び散る前に、翼が破裂音と共に高圧縮空気を噴射してグリフィンが駆け出す。
スプリントのフォームで、しかし膝が地面に触れそうなほどの前傾姿勢で駆ける。爪先が地面を抉り、そのたびに小爆発のように土砂が巻き上がった。
翼から噴射されている高圧縮空気には、チリチリと小さな音と共に火の粉が混ざっている。
後ろに一歩下がったスピネカーマの眼前を鉤爪のついた鋭い指先が引き裂き、グリフィンが走り抜けた。
通り過ぎたグリフィンはスピネカーマに正対するように振り向きながら地面を滑るようにブレーキを掛ける。
大量の土砂を巻き上げながら減速したのも一瞬、再び猛スピードで駆け出した。
それも辛うじてかわす。薄皮一枚掠めるように駆け抜けたグリフィンを追って来た空気の震動がスピネカーマの表皮をビリビリと叩く。
グリフィンは敢えてかわされていた。
まだ攻撃する時ではない。
微かに残る炎に照らされている誠司の下に柳瀬が駆け寄っている。
上着を脱いで誠司に被せ、糸に触れないように注意しながら彼を抱え上げ、その場から離れつつある。
(攻撃は彼らが安全な距離まで離れてからだ)
スピネカーマが柳瀬たちに気付き、彼らに向けて大きく口を開いた。
舌を打ち出すと同時に真横から飛び込んで来たグリフィンが、その先端を正確に蹴り上げる。
鋼鉄の外殻に包まれた体を支え、その上で超高速移動を実現させる強靭な脚力の一撃を浴びた舌は『グチャリ』と音を立てながら血飛沫を上げた。
「お前の好きにはさせない」
駆け抜ける爆音の中、スピネカーマの耳に微かに聞こえた声。
それは柳瀬たちが逃げる事の邪魔をさせない、という意味だ。
だがスピネカーマにはもっと直接的な、言わば処刑宣告のように聞こえた。
──グリフィンというキメラは、おそろしく強力なキメラだ。
スピネカーマはようやくそれに気付いた。
グリフィンは夜目が利かない。おそらく温厚で人並みの善性を持つ人間なのか戦いにも腰が引けている。
それらはキメラ怪人同士が戦う際には大きな弱点だった。
実際、闇に擬態したスピネカーマを捕まえる事が出来ず、誠司を庇っているグリフィンは苦戦を強いられていた。
ここまではスピネカーマのワンサイドゲームに近い状態だったのだ。
だから錯覚してしまった。
グリフィンはスピネカーマより弱い、と。
闇への擬態は破られ、誠司が離れた事で枷が無くなったグリフィンを見て、錯覚から醒めた。
表面が割れて血を流す舌を口内に引き戻す。あっという間に口内が血で満たされた。
「バけもの……!
キメラ怪人をして尚、化け物と言わしめるほどの力をグリフィンは持っている事を文字通り痛感していた。
グリフィンは立ち止まり、公園の隅を見る。外周に張られている大人の背丈ほどのフェンスにしがみつくように柳瀬たちが退避を終えていた。
誠司が柳瀬に耳打ちする。柳瀬は驚いた顔で何事か聞き返していたが、やがて意を決してグリフィンに向かい小さく手を振った。
グリフィンの瞳が完全に赤く染まったのはその時だ。
大音響と共に翼から赤いアフターファイアが噴射される。
今まで燻っていたものを一気に吐き出すような爆炎の尾を引きながらグリフィンが駆けた。
(速……!)
スピネカーマが持つカメレオンの目は視野が広く、また動く獲物を捉える事に特化している為、生物全体で見ても動体視力に優れている方だ。
それでも、グリフィンの動きを完全に補足する事が出来なかった。
半ば勘で糸を吐き出す。口内に溜まっていた血で彩られた糸がグリフィンの脚に絡み付いた。
グリフィンは勢いそのままに転倒した。グリフィンが地面を跳ね転がり、間欠泉のような土砂の爆発が幾つも発生した。
だが、グリフィンは止まらない。
翼の噴射でホバー移動のように体を浮かべて立て直すと土煙を破って飛び出し、再び地面を蹴った。
立て直しで若干速度が落ちたグリフィンの頭部目掛けて血塗れの舌を打ち出す。先端がカウンターのように頭部外殻に突き刺さり、破片が飛び散った。
その衝撃は舌を通じて脊椎まで駆け抜け、激痛にスピネカーマの意識が一瞬飛ぶ。舌の裂傷は悪化し、先端の出糸突起は潰れて糸を吐き出せなくなる。
感覚を失った舌はだらりと地面に垂れ、引き戻す事すら出来ずピクリとも動かす事が出来なくなった。
それでも、グリフィンは止まらない。
舌が使えなくなったスピネカーマには最早打つ手がない。抵抗する間も無く肉薄されてしまう。
鉤爪のような指がスピネカーマの舌の付け根を掴み、押し倒す。
仰向けに倒れたスピネカーマを地面に押し付け、引き摺りながら走り続ける。
爬虫類の丈夫な表皮は押し付けられた地面との摩擦であっという間に削れ、焼けるような痛みが襲った。
「オオオオオオオォォォォッ!」
加速をつける為にトラックの導線をなぞる様に大きく弧を描き、そのままジャングルジムに時速数百キロのスピードで叩き付けられた。
骨組みのような鉄棒が折れ曲がり、絡み合う。叩き付けられた衝撃でスピネカーマの全身は有り得ない方向に折れ、捻じれる。
グリフィンは自身の運動エネルギーをスピネカーマに移譲していた事で若干速度を落とし、余裕を持ってスピネカーマとジャングルジムを足場に跳躍していた。
跳躍の慣性で十メートルほどの高さを滞空しながらスピネカーマを見下ろす。
翼も噴射を停止していた。ほんの数秒、不気味なほどの静寂が訪れる。
「おレは……」
既に重傷のスピネカーマに、押し殺したようなグリフィンの声が届く。
何かに耐え、何かを決意した、強い意思が篭められた声だ。
「今かラ、オ前を、殺スぞ」
噛み合った歯車が回転するような音と共に、翼の端面が上方へと向けられた。
そこから一際巨大なアフターファイアが噴射される。
頭上から叩き付けられた必殺の一撃は、スピネカーマをジャングルジムの残骸諸共、紙細工のように叩き潰した。
△▼△▼△▼△▼△▼
戦いは終わった。
柳瀬は署に連絡し、封鎖した公園を監視する為の人員と、負傷した警官と誠司たちの為に救急車を手配すると、共に病院へと向かって行った。
封鎖された公園の四方にある出入り口は警官が見張り、更に数人の警官が周辺を警らしている。
公園内を巡回している警官はいない。自然と、公園の中心部に警官の目は届かない。
そこに音もなく、大柄な影が何処からともなく降り立った。
その影は降り立った場所からゆっくりと周囲を見渡す。
公園内に刻まれた戦いの後は凄まじいものだった。
スピネカーマが張り巡らせ、撒き散らした糸の残骸が微かに揺れている。
グリフィンが駆け回った後は土が抉れ、まるで重機が高速で暴走したような状態だ。この公園は当分使い物にならないだろう。
やがて、何かを見付けた影は忍び足で音も無く歩き、地面に落ちている物を拾い上げる。
目的の物で間違いない事を確認した影は、来た時と同様に音も無く地面を蹴り、そのまま姿を消した。
△▼△▼△▼△▼△▼
頭痛が酷い。心臓の鼓動に合わせてズキズキと痛む。
俺はまだグリフィンの姿のまま、大学の部室棟裏に身を潜めていた。
スピネカーマとの戦いのせいで公園の周囲──そこには俺の部屋があるマンションも含まれる──はちょっとした騒ぎになっている。
眠りに就いていた住人も目を覚まし、何事かと不安そうに外の様子を窺う者、そんな彼らを安心させるために奔走する警官たちが騒ぎの中心だ。
町の治安維持が正常に機能している一つの姿だが、今の俺にとっては少々困った事でもある。
公園から去った後、遠くから誠司たちの様子を暫く見守っていたが、この時さっさと帰宅していれば今頃はゆっくりと体を休める事が出来ていたかもしれない。
今、マンションの周囲には人の目が多すぎる。グリフィンの姿は目立ち過ぎてしまう。
グリフィンから人間に戻る事は可能だ。簡単に言えば、俺が戻りたいと思えば戻れるらしい。
人間に戻れば、多少人の目があっても堂々とマンションに帰れるだろう。
だがここにもう一つの問題がある。それは人間の姿に戻ると俺は全裸になってしまうという事だ。
人目がある場所を全裸で。そんな趣味はないし、それ以前にそんな事は出来ない。
グリフィンの姿のまま、人目を避けてマンションに到着する事が出来たとしても、グリフィンの体格ではマンションのエントランスを通過出来ないしエレベータにも乗れない。
もしかしたら屋上から入れるかもしれないが、屋上へ跳んだら翼の噴射音であっという間に注目を集めてしまうし、どちらにしても中に入る前に扉を潜れる人間に戻る必要がある。
いずれにせよ、ほとぼりが冷めるまではマンションに近付けない。
取り敢えず人目を避けて移動しているうちに、この時間帯はほぼ無人になるこの部室棟裏に辿り着いた、というのが今の状況だ。
(気分が悪い……)
これだけ長時間、グリフィンのままでいたのは初めてだ。
時間と共に酷くなる頭痛と吐気に、意識がぼんやりしてきた。
擦り減って行く気力を振り絞って意識を保つ。ここで意識を失ったら俺は人間に戻ってしまうだろう。翌朝、大学の敷地内で全裸の男が倒れていたという失態だけは避けたい。
もしそのような事になったらなんと言い訳していいか分からないし、誠司に一生からかわれてしまう。
やはり意を決してマンションの屋上を目指すべきだろうか。マンションは十階建てで俺の部屋は七階にある。屋上からであれば人間に戻っても、全裸での移動はたった三階層だ。高層階の人間は殆ど階段を使わないから何とかなるかもしれない。
屋上の鍵が開いているかどうか分からない事だけが不安だし、たった三階でも全裸で移動する事に抵抗はあるが、他に方法が思い付かない。
飛び移るにしても何処から飛び移るか。そして着地の衝撃で下の住人に迷惑をかけないように……くそ……頭痛と吐気で思考が働かない。
「……あ、ここにいました」
「うわっ!?」
驚いて声を上げながら尻餅をついた。『ズシリ』と臀部が地面に食い込み、跡が残る。
目の前に睦月が立っていた。スポーツバッグを担ぎ、少し息を切らしている。
息を整えながら何か考えている様子で視線を宙に彷徨わせていたが、やがて意を決したように近付いて来る。
目の前まで来た彼女が俺の全身を隅から隅まで眺める。そして眉を顰めた。
彼女の視線をなぞる様に自分の体を見下ろしてその理由を理解した。
グリフィンの全身の外殻は板金加工途中の板材のようにベコベコに叩かれた跡がある。一部は割れ砕けて剥落し、剥き出しになった部分は血塗れだ。
要するに満身創痍ということだ。生命力が強いぶん痛みに対しても鈍感なのだろう。今まで全く気にならなかった。
「これを」
地面にスポーツバッグを置き、睦月は何度もこちらを振り返りながら部室棟の正面へ去って行く。
彼女の気配は部室棟の正面で止まったままだ。待っているのだろうか。
バッグのファスナーには紐が結び付けられて大きな輪になっている。グリフィンの指ではファスナーを摘まむ事は難しいが、輪に指を掛けるのは簡単だ。
予めバッグを開けられるように準備をしていたのか。そう言えば彼女は俺を見た時に「ここにいた」と言った。その言い方はまるで最初から俺を探していたような……。
輪に指を掛けてゆっくりとバッグを開き、その中身を覗き込んだ。
「サイズは大丈夫そうですね」
空になったバッグを受け取った睦月は、俺の全身を見渡して少し安心したように言った。
バッグの中にはジャージの上下にフリーサイズのトランクス、そして一時期大流行した合成樹脂で出来た靴が入っていた。
入院中に病院の売店で見掛けた物だ。多分そこで手に入れてきた物だろう。
「どうして」
カラカラに乾いた口で、何とかその一言だけを絞り出す。
「先ほど、辻崎先輩からメッセージが来たんです。糸キメラをやっつけた、って」
ファスナーを閉じたバッグを丸めるように畳むと、睦月は駐車場の方角を指差し、先導して歩き出す。
少しずつ収まって来た頭痛を誤魔化すようにこめかみを摩りながら、後に続いた。
「急いで病院へ行ったら、ちはやちゃんが手当を終えて休んでいました。元気そうでしたよ」
「そうか……毒にやられたみたいだったけど……いや、そうじゃなくて」
俺の疑問に答えてくれはしないのか?
まるでそう言い掛けるのを計っていたように彼女は立ち止まり、振り返る。
「実は最初から『あれ?』って思っていました。確信したのは、病院でグリフィンが助けに来てくれた時です」
少し意地の悪そうな、好意的な言い方に帰るなら小悪魔的な笑みを浮かべながら、やや上向き加減に顎を突き出す。
静かに親指で、顎のラインをゆっくりとなぞった。
「先日、恭護先輩には癖がある事を話しましたね」
食堂のテラスで話をした時の事だな。二ノ宮と初めて会った時でもある。
俺の癖、それは顎を撫でる事……も、もしかして。
「目にしたのはわたしだけみたいですけど、わたしが気付くという事は辻崎先輩も必ず気付きますから注意した方がいいですよ」
なんという事だ。
我ながら上手く隠し通しているつもりだったのに。とっくに気付かれていたのか。
彼女はそんな素振りを見せずに上手く隠していたのか。
「どうしてここに」
「辻崎先輩の連絡を受けて、まずは恭護先輩の部屋へ行ったんです。だけど留守みたいだったので、まだ帰って来ていないのかな、って」
まだ帰宅していないという事は、元の姿に戻る事について問題が発生していると予想した睦月は一旦、八幡総合病院へ向かった。
そこで着替えを調達してから、俺が身を潜めているかもしれない場所を探してくれたのだ。
「恭護先輩は自分がグリフィンである事を隠していたいみたいでしたから、わたしも何も言わないつもりでした」
「そうか」
足先に目を落とす。
俺がグリフィンだという事を知られたくなかった。
俺がキメラ怪人という怪物になってしまった事を知られたくなかった。
俺がキメラ怪人とはいえ人を殺めてしまった事を知られたくなかった。
淡々と語る睦月の顔を見る事が出来ない。
不安と恐怖で指が震える。押さえようと拳を握ると、その拳も震えた。
「恭護先輩がグリフィンになったのは、森が初めてですか?」
地面を見下ろす俺の視界に睦月の爪先が入った。
次に彼女の手が視界に入り込み、震える俺の拳を包むように握る。
「あ……ああ、そうだ」
不安と恐怖を感じながら、同時に何処かで気持ちが緩んでいた。
グリフィンの事は、一人で抱え込むには重すぎる。彼女の気持ちはともかく、事実を共有する存在の出現に俺は安心している部分もあった。
「あの時、シザーアングに殺され掛けて……」
促されたわけでもないのに、俺は話していた。
自分が助からないと確信し、最後の強がりでみんなを逃がした事。
炎に飲み込まれ、気付いたらグリフィンとして覚醒していた事。
混乱している最中に睦月たちの悲鳴が聞こえ、無我夢中で戦った事。
病院で再びシザーアングに襲われて一人だけ逃がされた時、ひどい無力感と同時に助かって安堵する気持ちを覚えてしまった事。
それでも睦月たちを助けたいと強く思った時、キメラ怪人へと変身する方法が分かった事。
ずっと必死で、死にたくない、死なせたくないという気持ちだけで懸命に戦ってきた事。
感情が昂るにつれて声が震えそうになり、たどたどしくなる俺の話を睦月は口を挟まずに最後まで聞いてくれた。
「恭護先輩、わたしはやっと言う事が出来ます」
何を?
問い掛けは声が掠れて正確に発する事が出来なかった。
「わたしはずっと、恭護先輩にちゃんとお礼が言いたかった」
「お礼……を?」
「恭護先輩はあまり口数が多くないので知らない人には怖い人だと思われてるところもありますが、わたしは知っています」
俺の手を包み込む力が少し強くなる。
柔らかくて温かい。少しだけ震えが治まったような気がした。
「恭護先輩は争い事が嫌いで、傷付く事も傷付ける事も嫌いな人です。それでも傷だらけになって、戦って、何度もわたしたちを守ってくれました」
「そ、それは……!」
言葉尻が裏返る。みっともないが、抑える事が出来ない。
瞼の裏側が熱くなってきた。これは非常に不味い。
「どうしてもみんなを、守りたかったから!」
感謝されたいと思っていたつもりはない。
大切だから守りたい。守った。それだけでいいと思っていた。
だけど俺自身も気付いていなかったけど、それだけではなかった。
グリフィンになってしまった俺。それが何を意味しているのか分からず、ただ不安だけが募っていた。
だけどキメラ怪人に立ち向かうには必要な力だ。傷ついて、命を奪う事すら厭わずに戦って、みんなを守って。
子供のような考えなのは重々承知している。それでも俺は俺が頑張っている事を知って貰いたかったのだ。
何か取り返しのつかないものを代償に得たグリフィンという力で戦っている。それを、褒めて欲しかったのだ。
「恭護先輩」
シパシパと瞬きを繰り返しながら顔を上げる。睦月が心配そうに見ていた。
きっと今の俺の目は真っ赤だろう。
「……凄く、怖かったよ」
「はい」
「キメラ怪人が何なのか、俺の体はどうなってしまったのか、何も分からない」
「はい」
「見た事もない怪物は、俺たちの事情も関係無く襲い掛かって来て、生きる為に俺はその怪物を……こ、殺して」
「はい」
「だけど……!」
もう堪え切れなかった。
目頭が一際熱くなったかと思うと、同じくらい熱いものが目から流れ落ちる。
「だけど……俺は、そんな事よりも……みんなを失う、ことの方が……ず、ずっと……怖かったから……!」
静かに、ハンカチが目を覆うように当てられた。
清潔感のある心地よい香りが鼻腔を満たす。
「わたしはキメラ怪人ではないので、安易に大丈夫だなんて言えませんし、勿論恭護先輩の苦しみを理解する事は出来ません」
視界はハンカチで覆われており、睦月の表情を確認する事は出来ない。
だけどその声音は、非難するわけでも否定するわけでもない、静かに俺の心に寄り添ってくれるようだった。
「だけど理解しようと考える事だけは決してやめません」
「睦月……俺は」
「グリフィンが倒してきたキメラ怪人が元々人間で、その命を奪ってきたのだとしてもそれを否定しません。だって、わたしはそのお陰で助かったのだから。だからつまり、わたしが何が言いたいかというとですね……」
「どんな事があっても、わたしは絶対に永遠に恭護先輩の味方だって事です」
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