第18話 海上宮殿
馬車で長時間ゆられつづけたメリーナは、めあての港を見たときは安堵の吐息をつきそうになり、そっと茜色の衣のうえから腰をなでた。腰が痛くなりかけていたのだ。
都を出たときは緊張のあまり気にならなかったが、やはり樹海地方は王都バリアからかなり遠いことをあらためて意識した。
さらに遠い地方の領主たちは、妻子を田舎の実家において、都のなかに住居となる城館を買ったり借りたりしている。そういう地方貴族の子どもは十二、三歳ほどになると都の父親の住居にともに住み都会風の先進の教育や洗練された社交を学ぶようになる。
貴族の娘ばかりの管弦の
(あら、あの方は? ○○地方のご令嬢よ。ああ、もしかして羊が多い? まぁ、どうりで、ちょっと乳臭いわねぇ。見て、あの歩き方。まるで羊飼いみたいで可愛いわぁ。ほほほ……)
娘同士の他愛もないおしゃべりだったが、今思い出すと頬が赤らむ。
生まれながらに地位も身分もあり、人なみ以上の才や容姿にめぐまれた者特有の、幼さゆえの傲慢だった。新参者を見下すことで、大人ぶって、いっぱしの淑女ぶってみたかったのだ。
(わたしって、少し高慢だったかも……)
馬車の窓から吹きこむ夜風が赤くなった頬を冷やしていく。
「どうだ、久しぶりの都は?」
問われてメリーナはあらためて外を見た。
夕焼けの女神イベリアはとうに退散し、今世界は月と夜の女神ニルベルの支配下にある。今宵の月は満月で、文字通り夜の女王として
港街の夜は美しい。停泊する船や、船客を迎える店が作る
「きれい……」
どこかで催しごとでもあるのか、大通りは人でにぎわっていた。時間がかかりそうだと見て、リオルネルは御者にべつの道を行くよう指示をだした。
(あら……)
月星やにぎやかな屋台の灯のもと、路地は王都バリアの別の顔を見せはじめた。
いかにも貧しげな浮浪者、身体の不自由な物乞い、そして、ちらほらとこの時刻になると出はじめる都の夜の蝶のような女たち。
世間知らずなメリーナも、両親や家庭教師の目をぬすんで読んだ物語から、世の中には、そういう
どぎつい花粉をばらまくように、被衣のはざまから、色鮮やかな衣をちらつかせて暗い路地の花々がひそかに妍を競いながら歩くのを見て、メリーナはやや鼻白み、あわてて目をそらした。
久々の懐かしいはずの都だが、そこにあるのは素晴らしい物ばかりというわけではなかった。
(いいえ……元々あったものなのに、わたしがまったく気づかなかったのだわ)
馬車内に満ちた奇妙な沈黙をやわらげるようにリオルネルが声をかけた。
「もうすぐ着く。ほら、見えてきた。あれが目当ての船だ」
ほどなく、馬車は埠頭に着き、潮風がメリーナの鼻をくすぐる。人魚の彫刻がほどこされた粋なつくりの送迎用の小船に乗り、ふたりは大船に向かった。
このころバリヤーンでは、こういった巨船の上で宴を楽しむことが貴族や金持ちの商人の間ではやっており、人々はこういった遊芸用の船のことを〝海上宮殿〟と呼び慣わしておもしろがっていた。
特にはやったのが蝶や鷹、ときには恐ろしげな獣をかたどった布や木の仮面を着けての夜会だ。燭台をひかえめにした薄闇のなか、誰が誰かとわからないところがおもしろく、遊び好きな金満家たちに受けたのだ。
メリーナも馬車を出るまえに、リオルネルからわたされた薄紫色の蝶をあしらった絹の覆面で顔の上半分をかくしていた。それは目のところには銀糸のふちどりがほどこされた穴がふたつあり、都の貴婦人たちが好んでつける額飾りのように頭のうしろで紐でくくってつけれるようになっており、なかなか洒落たものだった。
リオルネルは黒い鷹の仮面で、これはリオルネルにぴったりだとメリーナは愉快な心持ちになったが、彼に手を引かれて梯子階段をのぼり、宴の場である広間にたどりついたときは、背がこわばった。
その場の雰囲気にすぐ悟った。
これは、〝大人向け〟の宴なのだ。
象牙の卓には
客たちのなかには肌の白い金髪や銀髪、赤毛の人もいれば、給仕の女には肌の黒い者もいる。港では異国の人を見るのは珍しくないが、メリーナはその場にただよう奇妙な雰囲気をはっきりと感じた。
ここは、なにやら妖しい目的のための場所なのだ。
特にメリーナが直感的にそう思ったのは、女性のほとんどが、手足や背中などがよく見える露出度の大きい衣をまとっているせいだ。胸を半分まで出している女もいれば、丸出しの上に
いったいどうしてこんな場所にリオルネルが自分を連れてきたのか、メリーナはとなりの彼の真意が理解できず、涙ぐみそうになった。
(わたしも娼婦みたいなものだということ?)
あの悲劇以来、メリーナは当然のことながら神経過敏になっていた。自分がどう思われるか、どう扱われるか、必要以上に気にしてしまっているのだ。
今にも涙をこぼしそうになったメリーナの気を変えさせたのは、室にひびいた甘やかな音色だった。
いや、最初は甘やかに聞こえた音は、やがて凛として、真珠の玉が弾けるような清冽なひびきに変じ、酒や香に酔っている客たちの鼓膜を打った。
(まさか……あれは)
メリーナは音が聞こえてくるあたりに目をやった。
人々にかこまれて、そこにいたのは……、まちがいない。
宴の場に華を添えるために呼ばれたらしいその女楽士は、メリーナが着けているような蝶の仮面をしている。色は銀色だが。
だが、それでも蝋燭のほのかな明かりにきらめく
もう、まちがいようがない。エレだ。
(エレ、エレ。まさか、こんな所で会うなんて!)
メリーナは叫び出しそうになった。
あの、メリーナの平和で幸福な日々のさいごに出会った歌い手の娘。神秘的な声、竪琴のみごとな音色、聞く者の魂をうばうようなあの歌。
どこへ行っていたの?
わたしの愛しい人 可愛い人
ずっと、ずっと、あなたを探していたのよ
待ちくたびれたわ
純情な乙女は悲しみのあまり
醜い魔女になって 爪をとぐ
恨みつつも、待ちつづけ
ああ、やっと来てくれたのね 愛しい人
魔女になっても、愛することはやめない
奇妙な歌詞で、すこし陰鬱な音律だが、それがかえってこの妖しげな場所には似合っている。メリーナはまるで自分が呼ばれているように、おずおずと歩をすすめた。
(ああ……なんだか、変……)
もしかしたら、自分はエレの術にかかってしまったのかもしれない。
そのままぼんやりとした頭でエレに向かって人をかきわけ進もうとするメリーナの肩を、背後から力強い手が押しとどめた。
「メリーナ、あれを見ろ。あの男」
リオルネルのしめす方向を見てみると、いかにも上等そうな黒絹の衣に瑠璃玉の帯留めをした中年の男が、褐色の肌の美女とたわむれている。男も目元は隠しているが、どこかで見たような記憶がある。
「ロルカ武相だ。今夜はお忍びで遊びに来ているのだ」
メリーナは息が止まりそうになった。
(ロルカ武相! お父様とお母様の仇!)
ロルカ武相。ドルティアス=ロルカ。メリーナの宿敵、
憎悪に全身が熱くなった。
「どうする、メリーナ?」
リオルネルがメリーナの細い手をうえから握ると、それを彼の腰に帯びている短刀に触れさせた。これを使えということだろうか。この刃で両親の仇を討て、と。
ロルカ武相はまったくメリーナに気づいていないようだ。
「それを、貸して……」
「好きにするといい」
リオルネルの声は冷たかった。
「だが、私は手を貸すことはできない。見つかれば、それこそ武相の殺害未遂ということで死刑になるかもしれないぞ」
「かまわないわ!」
メリーナは鞘から短刀を抜くと、それを自分の茜色の袖にたくみに隠した。
そうしているうちに、ロルカ武相は呼びに来た男とともに広間から去ろうとしている。メリーナは足をすすめた。
背後でエレの竪琴が不吉な音を
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