17.Pay for death. Ⅱ

「何を言ってるんだ」

「僕は師匠が死んで、名前を忘れてしまったんだ。どうやったって思い出せない。元々僕に名前などなかった。そう考えるのが普通じゃないのか」

 十三番は、僕がそう言うのをただじっと聞いて、口を開いた。

「――『ペトロは外にいて中庭に座っていた。そこへ一人の女中が近寄って来て、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言った。ペトロは皆の前でそれを打ち消して、「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と言った。ペトロが門の方に行くと、ほかの女中が彼に目を留め、居合わせた人々に、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言った。そこで、ペトロは再び、「そんな人は知らない」と誓って打ち消した。しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロに言った。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる」そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた』――」

 十三番はすらすらと暗唱して見せる。――聖書、マタイによる福音書、二十六章、六十九~七十五節。

 そして、嘲笑うような視線を僕に向けた。

「お前は俺の事、裏切ったユダだと思っているのかもしれない。そりゃ、あの弟子たちの中で一番魔法が上手かった俺は、あの中には馴染めなかったよ。お前が一番贔屓されて、師匠のそばにずっといたのを妬んでいたさ。一番弟子のお前がペトロだとすると、俺は十三番目だからユダってことになる。銀貨三十枚で売った、なんて言われても仕方ない。でも、お前はどうなんだ? 師匠が処刑される時、お前は本当に必死で助けようとしたのか。名前を失ったのは、それを言い訳にする為だったんじゃないのか。いざとなれば魔法を使えばプラハからカンタベリーなんてひとっ跳びなのにそれをお前はしなかった。お前は自分が可愛くて、自分が死にたくないために師匠を知らないと言った、ペトロなんじゃないのか」

 十三番の言葉が耳元で木霊した。

「お前は結局そういうやつなんだよ。『例え、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことは知らないなどとは決して申しません』と言いながら、『貴方もガリラヤのイエスと一緒にいた』と言われて『何のことを言っているのか、私には分からない』ととぼけて逃げたペトロと同じ。三回聞かれて三回とも逃げた。プラハからロンドンまで、馬車を使って半日動かせば三日で来れるっていうのに、お前はそれをしなかった。死んでも貴方についていくと言ったのに、お前はそうしないでぬけぬけとこうしてまだ生きている。もしかしたら、師匠よりもお前の罪の方が大きいんじゃないのか」

 十三番は僕の目をじっと見てこう言う。

「お前に、俺を裏切り者だの言う資格はないんだ」

 責め立てるみたいに。

 僕は何も言えなかった。ロンドンに向かう時、確かに馬車を使えばよかった。名前を忘れていなければ一瞬で行けた。師匠が処刑されるともっと前に知っていたら。名前を失くした原因にもっと早くに気付いていれば。僕が師匠に巻き込まれて死ぬなど、考えずにがむしゃらで必死だったなら――、師匠は死なずに済んだ。

 僕はペトロだ。

 死ぬのが怖くて、師匠の元に駆け寄れなかった。師匠の最愛の弟子にして、師匠が自分を責めないのを悔やむ最低な弟子だ。

「お前には、そうして項垂れている方がお似合いだよ」

 十三番は、それだけ言って僕の前から立ち去った。灯りもない真っ暗闇で、僕は考える。頼りの妖精である彼女の声も聴こえない、この暗闇で僕は何をするべきだろう。

 十三番の言葉は、容赦なく僕に突き刺さった。

 一番、人に言われたくなかったことは、自分が認めたくなかったことなのだ。僕は師匠のためと思いながら、肝心の師匠の元に駆け寄れなかった。それを遠かったから、知るのが遅かったからと言い訳をして、自分の責任を逃れようとした。

 本当に師匠を思っていたのなら、あの実験の後も離れなければよかった。酷い実験だとなじらずに、許しておけばよかった。

 でも、そんなに聖人君子な人間がいるものか。僕は案外人間らしくて、自分の命が大切で――。でも、されたことをなんでも許せるような人間じゃない。

 自分の、当たり前に過ごせた人生を狂わせられて、人並みに愛する者と同じ時を生きて普通に老いて死ぬことなんかないこの身体は、僕にとって師匠の愛ではなく呪いなのに、それをすんなり受け止められるもんか。

 聖書の中でペトロは、死んだ後のイエスに会っているが、そのイエスに三回『私を愛しているか』と言われて『私が貴方を愛していることは、貴方がご存知です』と答えている。三回もイエスが死ぬ時に『そんなものは知らない』と言いながら、彼はこう返したのだ。

 多分、そうとしか返せなかった。

 だって裏切って師匠の下に駆け寄れなかったのに、愛しているなんて嘘みたいな言葉を続けることの、なんと苦しいことか。ひと時も裏切った気なんてなかった。嘘なんて言ったつもりはなかった。

 ただ、貴方と一緒に死にたくはなかった。

 言葉では散々「貴方のためなら命を投げ出せる」と言いながら、結局のところ、そうは出来なかった。僕はそんな奴だ。

 ただ、それだけなのだから――。

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