哀鳴蝉噪(あいめいせんそう)
九月に入り、だいぶ風は涼しくなった。日差しも弱まった。
「────蝉、まだ鳴いてるんだなあ」
寺の片隅に置かれた縁台に座って煙草を吸っていたわたしは思わず呟いた。締め切った職場ではたまに本気を出すクーラーの唸りくらいしか聞こえないし、家に帰っても淀んだぬるま湯のような空気を部屋に入れる気にもならないのでエアコンをかけた後は締め切っている。そうだ、秋とか関係なく、今年はほとんど蝉の声など聞いていなかった。
「山は冷えるね」
隣に座った叔母さんが温かい缶コーヒーを持ってきてくれた。
「涼しくて、身体に良さそうな空気がたくさんありそう」
蝉がいるはずのそこをジッと見て、わたしは言った。
太陽の輝きが木々の間から漏れている。きらきらと、周囲の緑に澄んだ輝きを与えている。
「そう言えば、ばっちゃ、言ってたよ。人間はずっと土の中での勉強下積みの日々、蝉のように空を飛べるのは余生のほんの一瞬だけだって」
そう言うと、大好きなばっちゃののんびりとした声が聞こえた気がした。
「仕事、大変なの?」
叔母さんが自分の缶コーヒーを空けながら尋ねてくれた。
「うーん、正直、おっつかない。がんばってもがんばっても…………でも、うん……たぶん、休もうと思えば休めないはずはなかった」
「────あとで考えるとそう思うんだよ。だけど、休めなかったんだったら、やっぱり休めなかったんだ。あたしはそう思うよ」
「……うん」
重いため息を吐くには、そこは静謐過ぎた。
「────うん。叔母さんが来てくれてよかった。ありがとう」
叔母さんが小さくため息をついた。
「義理の義理でも、あんた通して繋がってるからねえ。気にすんな」
涼しく清らかな空気に混じって線香の香りがする。その場に馴染むこの香りが私は結構好きだった。
「ばっちゃンちの仏壇、どうすっかな」
「一人暮らしのあんたん家、持っていくのも無理でしょ」
「でも、ばっちゃ、大事にしてたし……」
「まあ、あの家もすぐに無くすわけじゃないから、もうちょっと考えな。他に居ないんだし、誰もあんたの決断文句言ったりしないから。どうせ忙しくて手入れもできんだろうし」
「うん────でも────」
慌てて口を閉じた。愚図った子供のような自分に気付いて苦笑する。
「……蝉」
いつの間にか蝉の声が消えていた。
結局、わたしは蝉を見つけられなかった。
「蝉は土から出てようやく大人になっても七日しか生きられないっていうけど、もしかしたら、土ん中で生きてる時が蝉の人生なんじゃないかな。そんで、死ぬ七日前に、頑張ったご褒美として空を飛んで歌えるの」
こういう話が好きな叔母さんはわたしの話に小さく笑った。
「ずいぶん、ロマンチックだねえ」
わたしは少し照れ笑いをして、ついでに指先で軽く目尻を拭った。
「でもね、実は蝉が七日しか生きれないってのは俗説なんだ」
「え」
「一ヵ月くらい生きられる蝉も居るんだよ。カブトムシなんかよりずっとタフなんだ」
「はあ、そうなの」
喪服の裾を払ってわたしは縁台から立ち上がった。
「ばっちゃはタフだったからね。もしかしたら、今頃、久しぶりに元気に走り回ってるかもしんないね」
「────そうだねえ。あんまり会ったこと無いけど、あんた見てるとあんたそっくりな人だった気がするわ。
……まあ、タフでもいいけど、葬儀は大変だからね、それはそれとしてあたしを頼りなよ」
「ありがとう、叔母さん。────頼りにしてる」
遠くから呼ぶ声がした。
「時間みたい」
「そうだね」
ふと気づくと、また新しい蝉がジリジリと鳴いていた。
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