空中遊泳について

夏みかん

さてもさりとて

以下のことは、Kから私宛に届いた失踪前の手紙の文面である。平成18年8月。


私が空中遊泳できることについては、先にも君に述べたと思うが、私は何もこの力を酷使して悪事に手を染めようなどと考えたことはない。

然るにUと出会ったのが運の尽き、私は彼女にそそのかされ、次々と色々なことをした。


最初は可愛いものだった。

彼女を負ぶって空を飛ぶ。猫を助ける。飛行機に添って窓から手を振る、などなど。

しかし徐々に暴徒と化していったUの願望は、いつしか引ったくりをして空へ逃げる、覗き見して写真を撮るなど、悪意に染まっていった。

彼女はあの頃、今思い出せば荒れていた。

心の拠り所である私に甘え、自分の悪意を満たさせることである種快感を得ていたのだろう、私が断りを入れると「なんでよ!」と泣き叫んで聞かなかった。


だから私は最後の手段、彼女を連れて遠い国まで逃げることにした。


彼女は他に男が三人いた。

一人は警察官、一人はヤクザ、一人は自衛官だった。


彼らはありとあらゆる方法で私の妨害をしてくれた。

殺すと電話やメールが来るのは当たり前、空を飛べばヘリが付いてきたし、町を歩けば必ずパトカーがいた。

彼らは持てる全ての情報網を駆使して私を蹴り落とさんとしてきた。なんたって空飛ぶ男だ。女が手放すわけがない。こんなにも幼いころの夢を叶えてくれる全ての夢要素を持った私は、彼女に優遇されていた。


一方で、男たちは冷遇され、徐々に冷ややかになる彼女の対応に業を燃やしていた。

金を積んでも折れない、その意志の強固たるや、「私よその町でやりなおすの」と語る少女の前では何もかもが無意味だ。ことUにかけては特にそうだ。悪事の多かったUは現実に疲れ果てていた。


一方私は散歩先の木からグレープフルーツをもぎ取り下にあるゴミ箱に皮をぽとぽと落とし、果汁の雨を降らせて彼女を立ち止まらせるという奇跡的な出会いをしており、そこからして彼女にとって私は夢の宝石箱のようなものだった。


はて、私はいつの間にこんなにメロンチックな男になったのか。


いつの間にやらヤクザから掠め取った金で沖縄への逃亡を企てては夢中で話す彼女を前に、私は「君と私はキスをしたことがあるか」と尋ねてみたくなり、その可愛い儚げな様子を見て、口を噤んだ。

彼女の夢を、叶えてやらなければいけない、男ならば、どうしても。


私が彼女を抱いて空を飛ぶ度、彼女が「生まれ変わったみたい!」と叫んで涙を零すのを、私ははて、と思いいつも見ていた。その位私という男は一人でいると気楽にふわふわすること以外興味がない男で、夢も野望も無かった。

彼女は私に夢見ていた。それは先にも書いた。私はこれが今回私という人間が何故こういった力を得て生まれて来たのか、謎解きをした気分になって。


君はなんども馬鹿だ馬鹿だと私を叱ってくれたな。そして頭を冷やせとサンドイッチを置いて行ってくれた。君の淹れる甘さの丁度いいアイスコーヒーが好きだった。

私は君が好きだった。


しかし私は行くんだ、彼女を連れて。


いつか君にもわかるかもしれない。

自分を本当に必要とする幼子に、手を差し伸べてやる者の気持ちが。そしてそれがどんなに救いが無く、どんなに愚かしい事か。

私は明日生きているのか死んでいるのか、それすらわからない。


鉄砲玉が飛ぶかもしれない。

私たちは偽の画像と動画、コメントを同時刻に別の場所、方角から流し、上海に向かう予定だ。あそこなら一応は生きていけれる。

しかしヤクザと警察、自衛官。果たして逃げられるだろうか。


とりあえず、私は海を越えてまで彼女を担いで飛ぶ自信は、今のところない。

船でも見つけて、前に君と行ったみたいに時々休みながら飛ぶ予定だ。


君とは色んな所へ行ったのに、君は私に何も要求しなかった。


もう一度言う、君のことが好きだよ。


もう時間だ、この便を降りたら、知り合いのヘリに紛れて飛ぶ予定だ。


それでは私は、もう行くよ。

親愛なる永遠の友、Rへ。


K・Oより。



これは小沢兼次が、最後に私に宛てた手紙だ。

この日の朝、マンション5階に住む私の部屋のベランダに落ちていた。

きっとまた空を飛んだのだろう。


その時Uはいたのか、そしてどんな顔をしていたのか。

きっと笑っていたのだ、そうに違いない。


私は手紙をくしゃり、と握りつぶし、「誰のせいだと思ってんのよ」とUからケータイに送られてきた彼の寝顔を見て、怒りを込めて呟いた。

宇佐美里香は、最後まで名前で呼ばれることは無かった。

それだけが私が彼女に勝っていたところ。


私は名前を公表しない。ヤクザに殺されるのは嫌なので。


あれから8年が過ぎた。

私は空を飛べる男以上の男に出会えない。

目下付き合っているのは、足の不自由な人で、義足を付けてスプリンターをしている。


彼が走っているのは、Kに比べれば本当の意味で空を飛んでいると言える気がする。

その点では、彼の方がKに勝っている。


私はKを忘れたい。

しかし空中遊泳する幸せは、女にとって、というか人間全般にとって何事にも代えがたい多幸感を含んでいるのは、紛れもない真実である。

私は今日も、モノレールから町を見下ろし、Kが何処かに飛んでいないか、探してしまう毎日を送っている。


その日撮った夕焼けは、大きなグレープフルーツに似ていた。

私もUと同じ出会いを、あの木の下で確かにしたのに、と歯噛みする思いを、噛みしめて。


平成26年、8月。

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