9.

『星をかえしにいく』——朋絵はそう言った。

 一体どういう心境の変化だろう。

 この間、かえさないと言ったばかりなのに。

「海、ついたよ」

 朋絵がペダルから足を外した。緩やかに減速するのを待って、朋絵が地面に足を着き、完全に自転車が止まる。

 特徴的なライトの音が消えて、それと同時に光も消えたけれど、街灯がないわりに思いの外辺りは明るかった。

 不思議に思ったものの、すぐに理由は分かった。満月だ。

 手が届きそうなくらい近く、今にも落ちてきそうなくらい大きな満月が浮かんでいる。

 道理で明るいはずだ、しろい光を放つ満月は、巨大な球状の蛍光灯みたいだった。

 どうしてここに辿り着くまで満月のことに全く気づかなかったんだろう。不思議だった。

 朝は雨が降っていたけれど、夕方には綺麗に晴れていたから、雲に隠れていたとは考えられないのに。

「それじゃ、行こうか」

 朋絵がリュックから取り出したストールでくるんだ何かを持って、私の後ろに立っていた。

「朋絵、それ……」

 朋絵が抱えている何か。くるんでいるストールといい、包まれているもののサイズといい、覚えがあった。『星』だ。

「そうだよ。言ったでしょ、かえしにきたって」

 朋絵が愛おしむように腕の中のものに顔を寄せる。

 あるいは単に、暖を取りたかっただけかもしれない。

 私には分からないけれど、どうやら『星』は温かいらしいから。

「返すって、どうやって」

「いいからひとまず、波打ち際まで行くよ、みっちゃん」

 そう言われてしまったら従うしかない。

 返事をして、私は朋絵と並んで歩き出した。

 柔らかい砂地を踏みしめて歩くたび、朋絵のローファーの中に砂が入っていくのが分かって、それが私は気になって仕方なかった。

 しかし当人はといえば、一向に気にする様子もなく、ずんずん前に進んでいく。

 やがて波打ち際がすぐそこまで見えたところで、朋絵は足を止めた。

 左手で『星』を抱えたままリュックを下ろし、その中からレジャーシートを取り出す。

「遠足みたい」

 思わず呟くと、「夜の海辺に遠足って、なんかいいねえ」と朋絵が笑った。

 しかしすぐにその表情を歪める。

「まあやるとしたら、冬以外にした方が絶対いいけど」

「やっぱり寒いんだ?」

「さっむい。冬の海辺だよ? 寒くないわけないじゃん」

 なんでマフラー、家に置いてきちゃったんだろう。朋絵が嘆くように言って、それからレジャーシートの上に腰を下ろした。

「みっちゃんも座りなよ」

 朋絵が自分の隣を軽く叩いてみせる。私は言われた通り、朋絵の横に腰を下ろした。

 波の音が絶え間なく聞こえてくる。

 朋絵は海に来た目的を星をかえすためと言っていたけれど、そうじゃなかったとしても連れ

出された場所が海で良かったと思う。

 黙っていても波の音はする。沈黙が、それほど辛くはならない。

 私も朋絵も、座ってからは黙ったままだった。

 私は何を話せばいいか分からなかったし、朋絵は朋絵で言葉を選んでいるのか、難しい顔でじっと自分のつま先を睨みつけていた。

 ——言葉を選んでいるわけじゃなくて、単に朋絵は口を開くタイミングを計っているだけかもしれない。

 その可能性に私が気づくのと、朋絵が口を開くのは同時だった。

「わたし、みっちゃんに言わなきゃいけないことがある」

 固い声だった。視線は相変わらず砂で汚れたローファーに固定したまま、朋絵が続ける。

「夏休みの最終日、」

 その言葉で私は凍りつく。

 嫌な予感はしていた。朋絵の家まで連れて行かれて、『星』を見せられたあの日から。

 もっと言えば、朋絵の家の側を通る、あの線路の前に連れ出されたときから。

 でも、まさか――。

「わたし、見たんだ。みっちゃんが線路に入ってるところ」

 決定的な一言だった。顔から血の気が引くのを感じる。

 もう言い逃れすら出来ない。痛いところをつかれて取り繕えないくらいに狼狽えている自覚があった。

「でも、みっちゃんは無傷で立ち上がって帰っていって……わたしも追いかければ良かったんだけど、そう出来なかった」

 ぽつぽつと朋絵が言葉を零していく。

 迷いながら話しているわけじゃなくて、今まで胸の内に押しとどめていた言葉たちを少しずつ出そうとしているみたいだった。

「ねえ、みっちゃん。幽体離脱したまま元に戻れなくなったなんて、嘘でしょ? 本当は戻れるんだよね?」

 朋絵が相変わらずこちらを見ないまま静かに言う。

 それは尋ねるような口調だったけれど、確信をもっている向きがあった。

「そうじゃなかったらもっと慌てるはずだもん。自分がどうなっちゃうかだって心配するはずだもん。……はじめはわたしに心配をかけないように、落ち着いてるふりをしてるだけかとも思ったけど、それにしてもみっちゃんは落ち着きすぎてる。おかしいよ」

 舌打ちしたい気分だった。まさか朋絵が、そこまで私の態度を気にしていたとは。

 私が相槌のひとつ打たなくても、気にすることなく朋絵は話を続ける。

 あるいは、私の反応を気にする余裕もないのかもしれない。

「わたし、考えたんだ。みっちゃんが線路に入った理由と、幽体離脱したまま戻れなくなったなんて嘘を吐いて、幽体離脱を続ける理由」

 胸がざわついた。

 今から何を言われるのか容易に想像がつく。

 朋絵が唾を飲んだのが分かった。波の音の方が大きいはずなのに、それでも私にはしっかりと、朋絵の喉が鳴る音が聞こえた。

「みっちゃんは、したんだ。あの日、線路でやろうとしてたことを。失敗して、でもそのせいかそうやって幽体離脱が出来るようになって、中途半端に死んだみたいな状態になったけど、それは結果的に都合が良かった。だって体に戻らなければ死んだのと同じだもん。……目的、達成したことになるし」

 震えた声で朋絵が言葉を結ぶ。しかしすぐに、青い唇を開いた。

「ずっと確かめるのが怖かった。もし『そうだよ』って、『朋絵が言う通りだ』って言われたら、わたしはどうすればいいか分からない。わたしは、みっちゃんがそんなになるまで思い詰めていたのだって全然気づかなかった。それなのに今更、」

 朋絵の語気がどんどん荒くなっていく。

「ともえ、」

「どんな顔して引き留めて、お願いだから元通りになってって言えばいいんだろうってずっと考えて、でも考えつかなくて、それで」

「朋絵、ちょっと待って」

 さっきよりも声を張ると、俯いていた朋絵が弾かれたように顔を上げてこちらを見た。

 怯えた目が、小さく開いた唇が、赤くなった鼻の頭がこちらに向けられる。

 ああ、本当に今は寒いのか。そんなどうでもいいことを、この期に及んで私は考えてしまった。

 気持ちを落ち着かせるようにひと呼吸おいてから、咳払いを一つして、私は告げる。

「誤解。まったくの誤解ですよ、朋絵さん」

「…………は?」

 たっぷりの沈黙の後、朋絵がそんな間の抜けた声をあげた。

「あの日、あの線路にいたのは、あれが廃線だと勘違いしてたからで。もっと言うと、線路に寝っ転がってたのは確かだけど、貨物列車が近づいたのに気づいて線路脇に逃げたし。たぶん朋絵、遠くから見てたんじゃない? それで私が線路にいるように見えたんでしょ」

「え?」

 朋絵が忙しなく瞬きをする。「どういう、こと……?」

「だから言ったまんまの意味だってば」

 狐につままれたような顔をしている朋絵の目の前に、私は右手でVサインをつくって突き出す。

「豊ヶ岡は二本の線路が通ってるでしょ」

「う、うん」

「JRのと、昔、米軍が物資の輸送用に使ってたのと。米軍のやつはもう廃線になってるよね?」

 そこまで言うと、朋絵にも私が何を言いたかったか伝わったらしい。

「わたしの家の傍を通ってる線路、JRのじゃなくて米軍のだと思ってたの?」

「そういうこと。ほら、朋絵の家の近くを走ってる線路は上りで豊ヶ岡より南に行くやつでしょ。私が通学に使ってるの、稲生線で豊ヶ岡止まりだし、そこから先って行ったことがなかったし」

 私の家の最寄り駅である立崎は、学校のある豊ヶ岡からはJR稲生線のに乗って四駅のところだ。つまり私は、毎朝稲生線の上り列車に乗って通学してるわけだけど、豊ヶ岡以南には電車で行ったことがなくて、その線路がどこを通っているかなんて知らなかったのだ。

「でもなんでわざわざ線路になんか」

「それは……ちょっと線路に寝転ぶっていうのをやってみたくて」

 言うと、あからさまに朋絵が「うわあ」という顔をするのが分かった。

「でも今使ってる線路でやったら迷惑だし危ないじゃん? だから廃線になってる線路ならいいかなって」

「……迷惑っていうか、捕まるんじゃないの」

 げんなりした顔で朋絵が言う。

「前にも言った気がするけど、危ないって言われてることって試したくなるじゃん」

 言うと、打てば響くように朋絵が言葉を返してきた。

「『別に危険な目に遭いたいわけじゃなくて』?」

「そうそう。朋絵、あの話覚えてたんだ」

 確かに同じ話を朋絵にしたことがあったけれど、あれは夏休み前だったはずだ。

 驚いて思わず朋絵の顔を見返すと、なぜか視線を逸らされてしまった。

「いやー、でも予想外だったよね。まさかあれがJRの線路だなんて思わなかった」

 ――私は今、自分がどんな顔をしているんだろう。

 分からなかったけど、朋絵がほっとした顔をしている。それだけで良しとしようと思う。

 しかし朋絵は、すぐに表情を一変させてしまった。

「……じゃあ、幽体離脱したまま戻れなくなったなんて嘘ついたのはなんで? 本当は戻れるんだよね?」

 地を這うような低い声だった。さっきまで怯えていたのが信じられないくらい、今の朋絵は完全に怒っている。

「……うん。そもそも幽体離脱をしたのが線路で貨物列車に轢かれそうになったときで、多分あのときすごくびっくりしたのが原因で幽体離脱したんだと思うけど」

 朋絵の冷たい上に鋭い視線を感じながら、私は続ける。「その後は体に戻って家まで帰ったんだ。それで、家に帰ってからまた幽体離脱出来るか試したら出来たから、そのままでいてみようかなって。……だってほら、せっかく幽体離脱なんて面白いことになってるのに、すぐ元通りになるなんて勿体ないじゃん。それに、いつ幽体離脱が出来なくなるかも」

 分からないし。そう続けようと思ったものの、私は何も言えなくなってしまった。

 暗くて分かりにくいけど、朋絵の目は今にもあふれ出しそうなくらいに涙を溜めていたのだ。

「……まだ、嘘吐くんだ」

 掠れた声で吐き出されたのは、思いも寄らない言葉だった。

 てっきり、心配して損したとか、そんなことを言われると思ったのに。

 朋絵が瞬きをすると、ぎりぎりのところで留まっていた涙が目尻から零れ落ちる。

「みっちゃんは嘘吐きだ。そんな理由で丸々二ヶ月以上も死んだふりなんてするもんか。本当は何か、元通りになりたくない理由があったんでしょ。……実はもうずっとこのままで良いなんて、考えてたんじゃないの」

 朋絵は私から視線を逸らさずに続ける。

「わたしはみっちゃんが何を抱えて何に悩んでるかなんて知らないし、言わないってことは言いたくないってことなんだと思う。でもねみっちゃん、これだけは言えるよ。みっちゃんがみっちゃん自身のわがままでずっとそうしているつもりなら、わたしだって好きなこと言って好きなようにやらせてもらう。わたしだって、わたしのわがままを押し通す。――だってわたしは、みっちゃんと普通に遊びたいし、喋りたいから」

「……だから朋絵は、星を盗んだの」

 昨日の朝に交わした、いつもの場所でのやりとりを思い出す。

 朋絵はこう言っていた。太陽や月ならともかく、アルシャウカットならなくなったって構わないだろうって。

 あれは思った通り、私への当てつけだったのだ。

 独りよがりで勝手を通そうとした私に対する、強烈な皮肉だったのだ。

「――そうだよ」

 朋絵が力の抜けた笑みを浮かべた。

「交渉の材料になるでしょ。思った通りだった。みっちゃん、案の定狼狽えたし、早く盗んだ星をなんとかするようにって言ってくるんだもん。自分が非常識な状態になってるくせにさ。ほんと、どの口がって感じだよ。変なところで常識人ぶるんだから」

「…………」

 朋絵の言葉には、二三引っかかるところがあったけれど、今は流す。

 それよりも聞いておきたいことがあった。

「じゃあ、なんでいきなり星をかえすなんて言いだしたの」

 訊くと、朋絵は黙って腿の間に挟んでいた『星』を持ち上げて、そっとストールを外し始めた。

「わかる、みっちゃん」

 朋絵が視線を『星』に落として呟く。

 なにが、とは朋絵は言わなかった。でも、朋絵が何を言いたいのかは分かった。

『星』は明らかに、昨日見たときよりもその明るさが弱くなっていた。

 そして心なしか、サイズも小さくなっている。

『星』の弱々しい光がぼうっと朋絵の顔を照らしだしているけれど、光の加減でその顔は血の気が引いているように見えた。

「ほんとのこと言うとね、これを盗んだときと、昨日の夜みっちゃんに見せたときとでも明るさが全然違ったんだ。それで、今は更に光が弱くなってる。星も生き物みたいだよね」

 慣れない環境におかれたために輝きが弱くなるのは、たしかに生き物の生態と似ていた。

 私が同意するように頷くと、朋絵は困ったように笑ってみせた。

「やっぱり、星は空になきゃ駄目みたい。みっちゃんの言う通りだった。だから返すことにする。この星が好きな人だってたくさんいるだろうし、もし本当に消えちゃったら、その人たちが悲しむもん」

「朋絵は優しいね。知らない人の心配までするんだ」

 咄嗟にそんなことを言って、私はすぐに後悔した。

 なんで思いつきとはいえ、こんなことを言っちゃうんだろう。

「何言ってんの、みっちゃん。逆に考えてよ」

 朋絵が淡く輝く『星』を労るように撫でながら言う。

「見ず知らずの人にだって、それくらいの心配はするんだよ。それじゃあわたしが、友だちに対してはどれぐらい心配するか分かる?」

 その声には責めるような響きが一切無かった。

 だからこそ私は途方に暮れてしまう。

 いっそ、責め立ててくれたら良かったのに。

「さっきの話の続きだけどね」

 そう前置きして、朋絵が訥々と語り出す。

「もしもみっちゃんが嘘なんかついてなくて、さっき言ったみたいに今の状態を楽しんでいるとしてもだよ。二ヶ月以上経ってるんだから、もういいでしょ? 戻ってきてよ、みっちゃん。それに、このままみっちゃんが幽体離脱を続けたとしたら、この星みたいに存在感が薄くなって、そのうち消えちゃうかもしれない。……わたしはそれが本当に怖い」

「ごめん」

 自然と私はそう言っていた。

 言ってから、謝るってことは肯定していることになるんじゃないかとも思ったけど、でもそうしなくてはと思った。

「ちゃんと体に戻る。ごめん」

 まさか、そんなに朋絵が心配してるなんて思わなかったんだよ。

 思わずそんな言葉を続けそうになって、すんでのところで私は踏みとどまる。

 更に地雷を踏み抜くような真似をするべきじゃない。

「……ごめん、ごめんって、みっちゃんは何に対して謝ってんの?」

 朋絵が低い声で言う。

 さっきはいっそ責めてくれた方が良かったと思ったけど、実際にそうなってみるとやっぱり嫌だなというのが正直な気持ちだった。

 朋絵は小さい。確か身長は一五〇ないはずだけれど(そのことを指摘すると手がつけられなくなるくらい怒り狂うのでもちろん言わない)、妙な迫力があるのだ。

 どうしてだろう。いつも不思議に思う。

「し、心配かけてごめん……?」

「なんで疑問系なの。そうだよ、心配したんだよ。もっと深く反省して!」

「う、うん」

「まあ、言質はとったし、今日のところはこれでいいや」

 ふにゃりと気の抜けた顔になった朋絵が、背後に置いたリュックからステンレスのマグを取り出す。

 蓋を外すと、甘さと苦みが解け合った香りが湯気と共に立ち上った。覚えのある匂いだ。

「……ココア?」

「そうだよ。外は絶対寒いから、温かい飲み物を持ってこようと思って。寒いところで飲むものって美味しいでしょ? わたし、未だに忘れられないのが真冬の秋田にスキーをしに行ったとき、外でお父さんが作ってくれたコーンスープなんだ。作ったっていっても、ちっちゃなバーナーでお湯を沸かして、粉末のコーンスープを溶いただけだけどね。クノールのどこにでも売ってるやつ。それでもすっごく美味しかった。やっぱり環境って大事なんだなって思ったなあ」

 朋絵が目を細めて、マグに口をつける。

 そんなこと言われると、ココア、飲みたくなるじゃないか。コーンスープでもいい。

 どうやらそういう気持ちが顔に表れていたらしい。

「まあ、みっちゃんはその体じゃ何にも食べられないし飲めないもんね? ごめんね、わたしだけ美味しいココア、飲んじゃって」

 朋絵が全く悪びれずに言う。そして心から美味しそうに、ちびちびとココアを啜り始めた。

 ――幽体離脱出来るようになってすぐの頃は、食べ物の匂いを嗅ぐと食べたいっていう気持ちが湧いてきたけれど、最近はそういうこともなくなっていた。

 もしかしたら、それは本当の死に近づいている徴候だったのかもしれない。木曜日の朝が来る度に嗅いでいた、カリカリに焼けたベーコンの匂いだって、だんだんどうでも良くなっていったのを思い出す。

 体があったときは、毎週嗅いでも飽きずにいたのに。

 ニヤニヤとこちらを見ながらマグを傾けていた朋絵が、急に目をぎゅっとつぶった。同時にマグから口を離す。

「……もしかして火傷した?」

 思い切り顔を顰める朋絵に恐る恐る尋ねる。

 しかし私の表情は朋絵の感情を逆撫でするようなものだったらしい。

 それか単に、逆ギレされただけかもしれないけれど。

「みっちゃん、どうせざまみろって思ってるでしょ」

「滅相もございません」

「うそつけ! 目が泳いでるんじゃん!」

 朋絵がマグの蓋を閉めて、握りこぶしを私の腹の辺りに容赦なく叩き込んできた。

 もちろんその手は私をすり抜けて、レジャーシートにたたきつけられただけだったけれど。

「くっそー、これじゃあみっちゃんに何のダメージも与えられないじゃん!」

「そんなの、私も一緒だってば」

 悔しがる朋絵めがけて、私も同じように緩く握った拳をぶつける。

 当然ながら、私の手は朋絵の体をすり抜けただけだった。

「……でも、さっきの朋絵のパンチは痛かったなあ」

 お腹の辺りをさすりながら言うと、朋絵はじとりとした目でこちらを睨みつけてきた。

「あっそ。わたしはぜんっぜん痛くなかったけどね。ぜんっぜん! これっぽっちも!」

 言うなり朋絵が星を両腕で抱えて、すっくと立ち上がった。それから黙って歩き出す。

 私も急いでその後を追いかけた。

「急にどうしたの、朋絵」

「だから星をかえしにいくんだってば!」

「ど、どうやって……?」

「海で拾ったんだから、海にかえすに決まってるでしょ!」

「え?」

『拾った』

 朋絵はいま、そう言わなかったか。

 私が黙ったことで、朋絵も自分が何を言ってしまったのか気づいたらしい。

「あの、朋絵、ずっと訊きたかったんだけど、結局どうやって星を盗んだわけ?」

 私の数歩前を歩いていた朋絵が、ああああと呻きながらその場にしゃがみ込んだ。

 しかしすぐに立ち上がり、砂を蹴ってこちらを振り返る。

「分かった! 言う! でも星をかえした後にして!」

 自棄になったように叫んで、朋絵が再び前を向くとずんずん歩き、波打ち際のすぐ傍で立ち止まった。

 慌てて私も朋絵の横まで駆け寄る。

 朋絵は、『星』を包んでいたストールを完全に取り払って腕に掛けた。

 弱い風が海からこちらに向かって吹き付けていた。朋絵のおさげと腕に掛けたストールが、後ろに向かってなびいている。

「ごめんね」

 風にかき消されてしまいそうな声で、朋絵が囁く。

 その後にありがとう、と言ったようにも聞こえたけれど、本当のところは私には分からなかった。

 静かに朋絵がその場にしゃがみ込んで、『星』をそっと、海に落とした。

 着水した『星』が、ほんの一瞬、まばゆい光を放つ。そしてそれは、表面から細かな気泡を発生させながら、徐々にその姿を小さくしていった。

 変化は『星』だけではなかった。

 黒に限りなく近い紺色をしていた海面が、『星』の周りから明るい水色へと塗り替えられていく。

「海がソーダになったみたい」

 朋絵がはしゃいだ声をあげる。「ねえ、みっちゃんもそう思うでしょ」

 ソーダ。なるほど、確かにそういう風にも見える。

「私はあれを思い出したけどな」

「あれ?」

「入れ歯洗浄剤」

 朋絵が信じられないものを見るような顔でこちらを見た。

 心なしか……いや、間違いなく、数歩距離も取られている。

「わりと的確に表現してると思うんだけど」

 そう控えめに反論すると、朋絵が手の施しようがないとでも言いたそうな顔でゆっくりと首を横に振った。

「あんまりだよ……入れ歯洗浄剤ってそんな……」

「……じゃあポリデ」

「固有名詞を出せって言いたいんじゃなくて!」

「朋絵、そんなことより星を拾ったってどういうこと」

 踏み潰されたカエルみたいな声が隣からした。朋絵だ。むしろ今、朋絵以外の声が聞こえたら、それはそれで恐ろしいのだけれど。

「話すよ、話すけどさ……でもみっちゃん、絶対信じないと思う」

 大げさに咳払いをして、朋絵が言う。そしてその場にしゃがみこんで、いじけたように落ちている貝殻をつっつきだした。

『星』は、いよいよとんがった部分が水面から少し頭を覗かせているだけで、あとはもう完全に溶けてしまっている。

「今更何を言われても驚かないよ。いいから早く話して」

「……みっちゃんってたまにすごく冷たいよね」

 ぼそぼそと言ってから、観念したように朋絵が立ち上がる。そのままくるりと向きを変えて、濡れた砂浜に足跡を残しながら、私の元まで歩み寄ってきた。

「オリオン座流星群ってあったの、覚えてる?」

 訊かれて、即座に私は頷く。

 ちょうど一週間前、十月二十七日のことだ。

 至るところで話題になっていたから、よく覚えていた。

『十月二十七日、オリオン座流星群が極大に。深夜零時から明け方にかけて、空の条件が良いところでは、今年は一時間あたり十個から二十個の流れ星が見られるだろう』

 そんな話を何度耳にしただろう。

「……でも、そのオリオン座流星群と、アルシャウカットに何の関係が?」

 話の繋がりがまるで見えなかった。共通項といえばどちらも星だということだけれど、それ以外には特に関係があるようには思えなかった。

 問い詰めるつもりでもなく、ただ素朴な疑問として訊いたのに、朋絵はますます追い詰められたような、悲愴な面持ちになる。

 そんなに話しにくいことなのだろうか。あまり急かすのも可哀想になってきたので、私は黙って朋絵が話し始めるのを待つことにする。

 沈黙はそれほど長く続かなかった。

「……流れ星に」

「うん」

「な、流れ星にむかって、三回願いごとを唱えたら、願いが叶うって言うじゃん……」

「うん。――え?」

 そんな迷信があることくらい、私だって知っている。

 でも朋絵は、それを真面目に実行したというのか。

 朋絵は私と視線を合わせようとせず、叱られた子どもみたいに俯いている。

「朋絵さん、朋絵さん」

「…………」

「その、流れ星に『星が欲しい』ってお願いしたから降ってきたと? あ、星が欲しいってシャレじゃないからね」

「その補足は絶対いらなかったし、別に星が欲しいってお願いしたわけじゃないから……」

「じゃあ、それ以外は大体合ってると」

 痛いところを突かれたように、朋絵が変な声を出して黙り込んだ。

 そして、私の視線から体を守るように、腕にかけていたストールを首にぐるぐると巻きつけていく。

 口元まで覆い尽くしたところで、やっと朋絵が話し始めた。

「……ほんとは、きっかけが欲しいってお願いした」

 その声は、ストールのせいでくぐもったものになっていたけれど、聞き取れないほどでもなかった。

「きっかけ?」

 少し意外だった。私が幽体離脱から戻れるように、とか、そんなことをお願いするものだとばかり思っていたのだ。

「言ったでしょ、私はみっちゃんが幽体離脱から戻れなくなったなんて、そもそも信じてなかったって。で、戻ろうとしないのは何か理由があるはずで、でもそれを聞き出す勇気がなかったって」

 今度は私が黙る番だった。

 朋絵は穏やかな口調で続ける。

「でも面白いよね。流星群を見た日というか、願いごとをした日には結局何も起こらなかったのに、一昨日になって急に、それも星が落ちてくるなんてことが起こるなんて」

「あの星、わたしが学校帰りに何となく空を見上げたら海に向かってゆっくり落ちていくのが見えて、慌てて家に帰って自転車で海に行って拾ったんだよ。落ちていくのを見たときはUFOだと思ったけど、海に行ってみたらその正体は星だったっていうね」

 朋絵がそのときのことを思い出しているのか、小さく笑った。

「みっちゃん、はじめに星を見たとき、ルームライトか何かじゃないかって言ってたでしょ。わたしもはじめはそう思ったんだ。でもニュースをチェックしたら、アルシャウカットがなくなったっていうのが分かって。それで、そのアルシャウカットとやらは、わたしが拾ったこれのことじゃないかと思って。それならわたしが盗んだって言い張って、みっちゃんをちょっと騙してやろうかと」

「騙すって……」

「うまくいったでしょ?」

 得意げな顔で言われると、言い返す気もおきなくなってしまった。

 私は朝のニュースでアルシャウカットがなくなったことを知ったけれど、朋絵は私にメールを寄越した時点で知っていたのだ。

 もし私が、朋絵のメールを見た時にネットで星について調べたら、簡単に朋絵の話を信じることはなかったかもしれない、ということじゃないか。

 他にも言いたいことは色々ある。あるけれど、逆にありすぎて、何から言えば良いか分からなくなってしまう。

「……じゃあ、あの星が本当のアルシャウカットかどうかは」

「わかんないよ、だから明日のニュースが楽しみなんだ」

 これで本当に元に戻っていたら面白いよね。そう言って朋絵が笑う。

 しかしすぐに難しい顔になって、「あれ、溶けちゃったけど大丈夫なのかな?」と星の心配をし始めた。

「ず、杜撰な……」

「え?」

 今の話を聞く限り、朋絵は完全に行き当たりばったりで話をでっちあげて私を嵌めようとしたということになる。いい加減にも程がある計画だ。いや、計画なんて呼べるものじゃない。

 ……そんな話に騙されていた自分にも悲しくなるけれど。

「だって、たまたま今回は一応名前のある星だったからニュースにもなったし、私も焦ったけど、例えばどっかの名も無い星だったらどうするつもりだったわけ? それだったら、仮に朋絵が拾ったのが本物の星だったとしても、私、信じなかったと思うよ?」

「そのときはそのときだって。終わったことの、うまくいかなかったパターンを考えて悩むなんて馬鹿馬鹿しいよ」

「それはそうかもしれないけど……」

「そんなことよりさ、そろそろどっかに行こうよ。流石に海辺にずっといるの、みっちゃんは良いかもしれないけどわたしは寒いんだよ」

 言うなり朋絵が派手にくしゃみをした。

「朋絵、おっさんくさい」

「るっさいなー、みっちゃんは」

 半眼で私を睨みつつ、朋絵は広げたままだったレジャーシートを畳んでリュックにしまう。

「そういえば、こんな時間まで外に出てて大丈夫なの、朋絵は」

「友達の家に泊まるって言って出てきたから一応大丈夫なはずだけど……うーん、朝までどうやって時間を潰そうかな」

 荷物を詰め終わって、リュックを背負った朋絵が自転車を止めた場所に向かって歩き出す。私もその後を追いかけた。

 来るときはパンパンに膨れあがっていたリュックも、今はくたりとしている。リュックの中身は大半が『星』だったらしい。

「マックは?」

 提案すると、あまり気乗りしなさそうな声で朋絵がそこくらいしかないか、と呟くのが聞こえた。

「まあ、ここら辺だと二十四時間営業のお店ってマックくらいしかないもんね。わたし、モスのポテトが食べたかったんだけど」

「ええ、マックの方が美味しいじゃん」

「やだ。カリッて揚がってるのがいいんだよ。マックのポテトはふにゃふにゃしてるじゃん」

「あのふにゃふにゃがいいのに……」

 言いながら私もポテトが食べたくなってきて、さっきのココアのことといい、これはひょっとして朋絵の思うつぼではと勘ぐってしまった。

 ずっとポテトどころか何も口にしてなかったのに、その反動が今になってくるとは。

「そういえば、補導されたりしないかな? こんな時間に外をふらふらしてたら」

 時計を持ってないから分からないけど、確実に日付は変わっているはずだし、二時三時を回っていておかしくない。

「そのときはついでだから、『わたしがニュースで話題になっている星を盗みました』って自首しようかな」

 朋絵が肩越しにこちらを振り返ってにやりと笑う。

 それがあまりにもあくどい顔だったので、思わず私は笑ってしまった。

「信じてもらえるわけないって。今は証拠もなくなったわけだし」

「信じてもらえない場合は、みっちゃんに証言してもらう」

「ばっかじゃないの」

 朋絵がまじめくさった顔で無理を言うので、私は笑いが止まらなくなってしまった。

 つられたのか、朋絵も笑い出す。

 星明かりが溶け込んだ明るい水色の海を見ながら、私と朋絵はしばらくの間、そうして笑いあっていた。




 

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