8.

 結局朋絵とは、あの場所――いつも二人で話をする、屋上へ通じる扉の前だ――で別れたきり、一言も口を利いていなかった。

 結局、朝から降りだした雨は帰り際も降り続いていて、私は色とりどりの傘の群れの中をひとり、傘をささずに歩いた。

 道は混み合っているけれど、私にはさして影響がない。誰かにぶつかられようと、ぶつかろうと、その感触すらしないのだ。周りにどれだけ人がいたところで、歩くのに困ることはない。

 気まずかった。朋絵が星を盗んだ意図に気づいてしまったからというのもあるし、朋絵が私に対して怒っているのは確実だったからというのもある。。

 朋絵の怒りはもちろん私に由来するものだけれど、ただ私が頭を下げて許しを請うことが無意味なことくらい分かっていた。それではなんの解決にもならない。

 だって私は、朋絵が何をどこまで知っているのかを知らないのだ。これでは何に対して謝ればいいのかも分からない。

 だからこそ私は手をこまねいていた。朋絵はどこまで察していて、あるいはどこまで知っているのだろう。

 ――そんなことをごちゃごちゃ考えずに、もう洗いざらい吐き出してしまえばいい。そんな考えが浮かんだけれど、無理矢理頭から振り払う。

 今更そんなこと、出来るもんか。

 これからどうするべきかを考えながら、いつの間にか私は眠っていたようだった。


『学校の最寄り駅まで来て』

 デジャヴを感じる素っ気ないメールが届いたのは、二十三時を少し回ったところだった。

 暗い自室のなかで、メールの着信を知らせる灯りが眩しくて私は目を覚ました。だから強制的に目覚めさせられたと言った方が正しい。

 寝ぼけ眼をこすりメールの差出人を見たところで、私は背筋に氷を落とされたような心地がした。

 もちろん今の私にメールを送りつけてくる人間なんて一人しかいないけれど、今朝の一件のせいでやっぱりどきりとしてしまう。

 高坂朋絵。差出人の欄に表示されていた名前はそれだった。

 一瞬息が詰まって、それから深呼吸を何度か繰り返して、私は返信を打つ。

『いつ?』

 返事はすぐにきた。

『今すぐ』

 確かに今から家を出れば終電には間に合うけれど、そうすると今日中には家に帰れないことになる。

 しかし、朋絵だってさすがにそれくらいは分かるはずだ。分かっていて、こんな誘い方をしているのだ。

 断るという考えはなかったし、そもそも断れるとも思えなかった。

 ベッドに横たえていた体を起こして、私は部屋の窓ガラスへ、更に言えばその外へ向かって足を踏み出す。

 今までこうして窓ガラスをすり抜けようとしたことはなかったけれど、うまくいった。

 私の部屋の窓にはベランダがないので、窓をすり抜けてしまえば後は落ちるだけだ。

 胃が宙に浮いたような感覚がしたけれど、それも一瞬で、次の瞬間私ははじめに踏み出した右足を、ついで左足を地面につけていた。

 生身でやったら最悪死んでしまうことを躊躇なくやっている。その自覚はあった。

 そしてそれが何を意味するのかも、私は分かっていた。



 学校の最寄り駅について改札を抜けると、朋絵は自転車を路肩に止めて、そのサドルに腰を預けていた。制服のまま、通学に使うリュックを背負っている。

 私はこんな体になってから、歩くのにも物音一つ立たなくなったけれど、朋絵は不思議なことに近づいてくる私の気配を察知出来るらしかった。

 周囲に誰もいないこともあってか、朋絵はスマホに落としていた視線をあげてこちらを見ると、左手を軽く掲げてみせる。その手には温かそうな赤いミトンがはめられていた。しかも紐付きの、左手用の手袋と右手用の手袋がバラバラにならないようなものだ。

 耳の下で二つに結った髪といい、体格といい、元々小学生……は言い過ぎだとしてもせいぜい中学生にしか見えなかった朋絵が、ミトンのせいで余計に子どもっぽく見える。

 それにしても、一体なんて声をかければいいだろう。「待った?」とか? 「遅くなってごめん」とか? どちらも違う気がするし、そもそも朝に気まずい別れ方をしたせいで、朋絵と目を合わせるのすら難しかった。

「みっちゃん、来てくれないかと思った」

 黙ったまま視線をさまよわせていると、思いもよらなかった一言が耳に飛び込んできた。

 そのほっとしたような声音に、思わず私は朋絵の顔を見てしまう。

 朋絵は、ばつの悪そうな顔で口を尖らせていた。

「そんなお化けを見たみたいな顔しなくてもいいのに」

「いやだって、でも」

「あーもー!」

 朋絵がミトンをはめた両手で自分の耳をふさいだ。

「言いたいことも色々あるだろうけど、いいから後ろに乗る!」

 いよいよ私は朋絵が何をしたいのか分からなくなった。

「うしろ?」

「チャリの!」

 スタンドを足で蹴りあげて、荷台をぽふぽふと叩いて示しつつ、朋絵が声を荒げる。

「ほら急ぐ!」

「分かった、分かったって」

 朋絵がリュックをかごに入れて自転車に跨がったところで、私も荷台へ横向きに腰を下ろす。

 私が荷台に座ったのを首を捻って確認したところで、朋絵が前を向いて楽しそうに言った。

「じゃあみっちゃん、しっかり掴まっててね」

 朋絵の吐息で、一瞬暗闇が白く煙った。

 なんだかそれが、私にはライターでつけた灯りのように見えた。

 明るさはともかく、一瞬でついて一瞬で消えるところがライターの炎に似ている。

「みっちゃん?」

 また、朋絵の吐息で一瞬だけ、それもうっすらと周囲が明るくなった。

 私では、少なくとも今の私では、こうはならない。

 これが、生きている人間と、生きているわけでもなく死んでいるわけでもない、どっちつかずの人間の違いなのかもしれない。

 そもそも私は、こんな風になってしまってから暑さ寒ささえ感じられなくなってしまって、季節の移り変わりも感じにくくなっていた。

 いつからこうなってしまったのだろう。季節だけじゃない。食べ物の匂いをかいでも、前は美味しそうだな、食べたいなと思っていたのに、今では何も思わなくなってしまった。

 ふと気付くと、朋絵が心配そうな顔でこちらをじっと見ていた。

 その顔のまま口を開きかけた朋絵を制するように、私は慌てて朋絵のお腹に腕を回す。

「いや、掴まれないんだって。ほら、こんな感じになっちゃうから」

 回した腕を、そのまま朋絵の体を抱きしめるように肘から先を自分の方に畳んでみせる。

 私の半透明の腕は、朋絵の黒いセーラー服を纏った体をあっさりとすり抜けてしまった。

 これでは掴まることなんて出来ない。

「そういえばそっか」

 朋絵が一瞬だけ難しい顔をして、それからすぐににやりと笑う。

「んじゃ、なるべく安全運転でいくけど、振り落とされないように気を付けて」

「……が、がんばる」

 小声で答えると、朋絵が笑ったのが背中越しに伝わってきた。

「そういえば、今からどこに行くの?」

 正確には、「どこに連れて行かれるの?」だけれど。

 訊くと、朋絵は「言ってなかったっけ?」とのんびり答えた。

 これはわざととぼけているな。表情を見なくても分かる。

 自転車に跨がったまま、朋絵は黙って前輪に取り付けられたライトのレバーを倒した。

 カタン、とちいさな音がする。

「海だよ」

 振り返らずに、短く朋絵が言った。

 そうか、海か。ふむふむ。納得しかけて、はたと私は我に返る。

「……え?」

 思わずそんな間抜けな声がもれたのと、朋絵がペダルを踏むのは同時だった。

 自転車のライトが暗闇を切り裂く。しかし、そう遠くの方までは見えないし、そもそも進行方向が学校へ向かうのとは全く逆の方向だ。

 最終的な目的地は聞いたけれど、それでもやっぱり知らない夜道を通るのは怖い。

 それに、何より。

「朋絵、海って! どれだけ遠くに行くつもりなの!」

 悲鳴みたいな声がでてしまったけど、気にしてはいられなかった。

 海なんて、少なくとも歩いて行ける距離ではなかったはずだ。

 朋絵は振り返らずに、ゆっくりとペダルを漕いでいる。私が振り落とされないようにという配慮だろうけれど、そのせいでライトが弱々しくしかつかないのが心許なかった。

「大した距離じゃないって。一時間くらいあれば着くと思う」

「一時間? そんなに……」

「このペースで走ってるから仕方ないでしょ。もっとペースを上げてもいいけど、みっちゃん落ちるかもしれないじゃん」

「そ、そうだけどさ……」

 朋絵は相変わらず前を向いているから表情は見えないけれど、それでも声を聞いているだけで笑っているのが分かった。

 楽しんでいる。朋絵はこの状況を間違いなく楽しんでいる。なんだか悔しい。

「まあ、のんびり夜のサイクリングと洒落込もうぜ、みっちゃん」

「…………」

 返事をしかねて私が黙ると、ダイナモ式のライト特有の音が急にうるさく感じられた。

 いつの間にか、自転車はどこか太い道を走っていた。県道だろうか。街灯がたくさん並んでいるおかげで道はずいぶんと明るい。少しだけほっとする。

「朋絵さん、朋絵さん、一応訊くけど道はちゃんと分かってるよね?」

「なに、さん付けしてんの」

 朋絵がひとしきり笑って、それから改まった声で言う。

「誰に向かって言ってんのさ、わたし、生まれも育ちも豊ヶ岡だよ?」

「お見それしました」

「分かればよろしい」

 会話はそこで途切れて、再びライトの音がうるさく感じられるようになった。 

 潮の匂いが微かにする。駅前を出発してまだそれほど時間は経ってないはずだけど、それでも学校と反対方向に行けば、わりあいすぐに海の気配が感じられるのだ。知らなかった。

 鼻で大きく息を吸い込むと、肺の中が灰がかった青色で満たされるような感覚がする。

「……なんかあれだね、すっごい少女漫画っぽいシチュエーションだよね」

 制服のまま自転車に二人乗りして海に行くなんてさ。そう付け加えると、朋絵が納得いかなさそうに間延びした声をあげた。

「わたしの後ろに乗ってるのが生きた女の子だったらねー」

「失礼な。生きていますとも」

「何言ってんの、今のみっちゃんは生き霊じゃん」

 生き霊。確かにそうかもしれないけど、いまいちしっくりこない表現だ。

 けれど反論するのはやめる。

「生き霊とサイクリングってなかなかレアだよ、朋絵」

「自分で言うなって感じだし、そんなのホラー映画だけで十分だよ」

「確かにそれもそうか」

「なーに納得してんの」

 朋絵が肩を震わせる。その姿を見ていたら、なんだか私の方まで笑えてきて、気づけば朋絵と一緒に声をあげて笑っていた。

 ひとしきり二人で笑ったあとも、朋絵は少しのあいだ、肩で息をしていた。よっぽどツボにはまったらしい。

 それでも朋絵は決してペダルを漕ぐ足を止めはしなかったし、速度を緩めることもなかった。

「あのさ、」

 上がっていた呼吸が落ちつくころ、何かを躊躇うような、ピンと張り詰めた声で、それでも何でもないふうを装って、朋絵が言った。

 無理矢理明るい声を出しているのが分かる。

「なに?」

 短く答えると、朋絵は押し黙った。

 黙ったまま、首を後ろに反らして、朋絵が空を見上げる。

 沈黙は、言葉を選んでいるためのようにも、言いたい言葉は既にあって、言うべきか言わないべきかを悩んでいるためのようでもあった。

 重い沈黙から意識を逃れさせるように、私は目の前を通り過ぎる街灯がついた電柱を一本ずつ数え始める。

 けれど一向に数が頭に入ってこなくて、何度も初めから数え直す羽目になってしまった。

 そうして何度目か、私が電柱の数を数えようと試みていたとき、ふいに沈黙は破られた。

「夏はもう終わったんだよ、みっちゃん」

 小さな声だった。それでも芯の強さを感じさせる声だった。

 かと思えば、うってかわって柔らかな声音で朋絵が言葉を続ける。

「ほら、見て見て。わたしの息白い」

「……見えてるよ」 

 上を向いた朋絵が息を吐き出すたび、ほんの一瞬だけど、白い呼気が煙のように朋絵の口からたなびいていた。

 蒸気機関車みたいだ。そう思ったものの、流石にそんなことを言える状況ではないことくらい、私にだって分かる。

 朋絵が顎を引いて真っ直ぐに前を見据えた。

 いつの間にか、潮の匂いが濃くなっている。

 目的地が、海が近い。

「ねえ、みっちゃん」

 静かに朋絵が告げる。

「今から星をかえしにいくよ」


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