5.

 みっちゃんの正体はゾンビ説。

 電気を消した部屋のベッドの上で、そんな馬鹿馬鹿しいことを、大真面目にわたしは考えていた。

 だから電車に轢かれても無事でいられたに違いない。明日何事もなかったような顔で、みっちゃんはわたしの前に現れるのだ。

『おはよう、朋絵』

 そんな風に、いつも通りの眠そうな目で挨拶してくるに違いない。

 そこでわたしはみっちゃんに言うのだ。昨日貨物列車に轢かれたところを見たって。

 そしたらみっちゃんはどんな反応をするだろう。正体を知られたら生かしておけないとか、そんな展開が待っているのだろうか。 

 そんなB級映画じゃあるまいし。でもまだ何も分かっていない以上、その可能性だって否定できないじゃないか。

 ――いや、そんな馬鹿みたいな話より、もっと現実的な話がある。

 寝返りを打つと、枕元においた不細工なクマのぬいぐるみと目が合った。暗闇の中で見ると不気味な顔立ちに見えるけど、バグみたいに悪い夢を食べてくれそうなので置いているものだ。効果があるのかは正直分からない。

 充電器に繋いだスマホを、コードを引っ張って手繰り寄せて、わたしはブラウザを立ち上げる。頭にあったのは、昼間に佐々原ちゃんから聞いた地下鉄での事件の話だった。

「電車」「事故」「無傷」そんなキーワードを打ち込んで検索すると、欲しかった情報はすぐに手に入った。

 誤って線路に落ちてしまった人が、枕木と電車の間に体を横たえていたおかげで無事だったという事件。そんなアクション映画で敵から逃げる主人公がやりそうなこと、実際に出来るのかと改めて驚く。

 でも、みっちゃんがいた線路は地下鉄のそれと違って見晴らしもいいし、そもそもうっかり線路に落ちるなんてこともないはずだ。

 それなら、どうしてわざわざみっちゃんは線路にいたのか。

 ――みっちゃんは無事だったわけじゃなくて、のかもしれない。

 ふとそんな考えが頭をもたげた。

 そう考えれば、みっちゃんが通学路でもない上に、取り立てて何かがあるわけでもないうちの近所にわざわざ来ていたことにも納得がいく。わたしの想像が正しければ、みっちゃんがやろうとしていたことは自分が見知った場所でするには抵抗があったかもしれないし、何よりあの辺りは人通りが少ないから、邪魔が入らないと考えたのかもしれない。

 悪い想像ばかりが膨れあがって、わたしはそれを打ち消すために馬鹿馬鹿しいことを――みっちゃんゾンビ説を再び考え始めた。

 リアルな悪い想像をするよりもこっちの方がずっとマシだ。

 いつの間にか、わたしの正面に座ったみっちゃんが、何か正体の分からない生肉を美味しくなさそうに食べていた。

 それに対して、わたしは「やっぱり焼いた方が美味しいよ」と進言して、みっちゃんが渋い顔で「でも生じゃなきゃお腹壊すし」と言い返し、「それなら仕方ないか」なんて、わたしがため息をつく。

 もちろん以上はわたしが見た夢の話で、つまりは気がついたときにはわたしは寝落ちしていて、ついでに言えば目覚ましをかけそびれたせいで危うく遅刻しそうになったのだった。



「……お知らせがあります」

 朝のホームルームの終わり、躊躇いがちに担任の青木先生が切り出して、それまで少しだけざわついていた教室が水を打ったように静かになった。

 青木先生は大柄な日本史の先生だ。単に身長が高いだけじゃなくて、がっしりとした体つきをしている。

 でも体格が立派なわりに気は小さくて、何か困ったことがあるとすぐ顔に表れるのだ。それが可愛いという女子も多い。

 先生の目がわたしの隣の席の辺りをさまよって、それから離れる。

 わたしの隣の席。みっちゃんの席だ。

 昨夜のわたしの予想に反して、みっちゃんは今朝、学校に現れなかった。

 お世辞にも健康的には見えないみっちゃんだけど、意外と学校を休んだことはないし、遅刻をしたことだってない。つまり、みっちゃんの席が空いているのは異様なことなのだ。

 だから、わたしは先生が重々しい口調で話を切り出したとき、みっちゃんの身に何が起こったかを聞きたいという気持ちもあったし、もしかしたらそれはとてつもなく悪い話かもしれないだろうから、聞きたくないという気持ちもあった。

 そんな正反対の気持ちを抱えて、わたしは先生が続きを口にするのをじっと待つ。

「梨木さんですが、しばらくの間学校をお休みすることになりました」

 やっぱり何かあったのか。そしてそれは、昨日わたしが見たものと関係があるのだろうか。

 早く続きを。そう焦っても、先生の口調は躊躇いがちなゆっくりとしたもので、焦りだけが募る。

 視界の右端に何かが映り込んだのは、そんなときだった。

 わたしの席は教室の一番後ろにある。だからはじめは、誰か遅れてきた子が後ろの扉から入ってきたのだと思った。

 しかし、それなら先生が何かしら反応を示すはずだ。けれど先生は、相変わらず困った顔をしたまま話を続けている。

 だったら一体何だ。今、わたしのところへ近づいてきているのは、一体何だ。

 首を少し捻ればその正体はすぐに確認出来るけれど、わたしは動くことが出来ずに固まっていた。その間にも、どうやら先生には見えていないらしい何かは、着実にわたしのところへと近づいてきている。

 そしてついに、それはわたしの後ろを通り過ぎて立ち止まった。丁度みっちゃんの席のところだ。

 まさか、と思った。

 わたしは視線だけを動かして、がいる場所を見る。

 黒いプリーツスカートに白いセーラー服。紛れもなく、見慣れたうちの学校の制服だ。

 、何の違和感も抱かないものだ。

 わたしは油の差されていない機械仕掛けの人形みたいに、ぎこちなく首を捻って視線を上へ上へと向けていった。

 白いセーラー服と、その袖から伸びるほっそりとした二の腕。黒い衿からのぞくエンジ色のスカーフ。そしてパーマをあてたみたいに強い癖をもつショートヘアに、そこから覗く形の良い耳。

 どれも、半透明でさえなければ見慣れたパーツだった。

 真っ直ぐに前を向いていた顔が、不意にこちらを向いた。

 眠たげに垂れた、色素の薄い瞳と目が合う。驚いたようにその目が見開かれた。

 黒目、こんなに大きかったっけ。そんな場違いなことを、ぼんやりわたしは考えていた。

 驚きすぎると、何の反応も出来ないというのはよく聞く話だけれど、どうやらその話は本当らしい。

「朋絵、私のこと、見えてる?」

 スカートと同じように透けた掌を私の目の前でひらひらと振りながら、目を見開いたままみっちゃんが言った。

 それは普段のみっちゃんからは想像が出来ないくらい大きな声だった(みっちゃんはいつだって、ぼそぼそと聞き取りにくい声で話すのだ)。

 けれども誰一人として、その声に反応する人はいなかった。

 みっちゃんの姿はわたしにしか見えなくて、声もわたしにしか聞こえない。

 信じられないけれど、どうやらそういうことらしかった。

 わたしは何の返事もしなかったけれど、みっちゃんはまん丸に見開いていた目を元に戻して

ふにゃふにゃと気の抜けた笑みを浮かべる。

「いや、どうもなっちゃってから誰も私の姿が見えないらしくてさ。今のところ朋絵だけだよ、私の姿が見えたの」

 ちっとも困っていなさそうな声で言いながら、みっちゃんはふわりと自分の机に腰を下ろした。椅子じゃなくて机だ。たぶん、椅子を引いて腰掛けることが出来ないからだろうけれど。

 視線をそっと前へ戻すと、相変わらず青木先生は眉をハの字にしていた。

 所在なさげな大きい掌を出席簿の上にのせて、それでですね、と言葉を継ぐ。

「詳しいことはまだ言えませんが、梨木さんは体調を崩して入院しています。面会はご家族の意向でお断りしているとのことなので、皆さんは早く梨木さんが良くなるようにと思っていてください」

 わたしは先生から視線を外して、そっと横に座るみっちゃんを見た。

 視線に気づいてか、みっちゃんもこちらを向く。

 みっちゃんも青木先生と同じように眉をハの字にしていたけれど、それでも先生のように心から困っている感じはなくて、どちらかといえばこの状況を楽しんでいるような感じすらしていた。

 みっちゃんの顔には、本当は楽しくて仕方ないのに、それを無理矢理押さえ込んで困った表情を作っているような、そんな不自然さがある。

 みっちゃんの顔を見ていても何も掴めそうにないので、わたしは諦めて視線を先生へ戻す。

 先生の話では、みっちゃんは入院中ということらしい。わたしはてっきり今横にいるみっちゃ

んが幽霊か何かだと思ったけど、そういうわけでもなさそうだ。流石に死んだということだっ

たら、今みたいに変にぼかしたりせず先生もきちんと話をしてくれるはずだろうし。

 考えても何がどうなっているのかさっぱりだった。わたしは机の中にしまっていたスマホを取り出して、机の下でメモアプリを起こす。

『屋上に出る扉の前で会える?』

 打ち込んだ文字をそっとみっちゃんに見せると、わたしの考えていることは伝わったようだった。

 何か思案するように視線を上に向けて、みっちゃんが小さく頷く。

「そうだね、あそこから人も来ないだろうし。先に行って待ってる」

 またあとで。手をひらひらと振って、みっちゃんは重さを感じさせない動きで机から降りると、教室の外に向かって歩き出した。

 当たり前だけど、足音はやっぱりしない。そりゃそうだ、今のみっちゃんには体がないのだから。

 間もなく何とも言えない重苦しい空気のままホームルームが終わり、わたしは教室を飛び出してみっちゃんが待つ北階段に向かった。



 A棟北階段の四階、屋上へ出る扉の前にみっちゃんは立っていた。

 背にした扉の上半分にガラスが嵌め込まれているせいで、そこから差し込んだ光がみっちゃんの上半身のシルエットを曖昧にしている。

 わたしの姿に気づいたのか、みっちゃんが姿勢を正すのが分かった。

「みっちゃん、あのさ、」

「おはよう、朋絵」

 わたしの言葉を遮って、ぼんやりした輪郭のみっちゃんが片手を軽くあげて挨拶した。

 なんだか話をはぐらかそうとしているみたいで少し腹が立つ。

「……おはよ、みっちゃん」

 渋々返すとみっちゃんがにやっと笑うのが分かった。

 みっちゃんはあんまり表情が豊かな方じゃないけど、笑うときだけは分かりやすい。

「まあ朋絵が何を訊きたいかくらい、さすがに私でも分かるよ。でもそうだな……」

 みっちゃんが左手で右肘を支えて、右手で鼻の頭を触る。考え事するときの癖だ。

「――うん。話をするよりもやっぱり、見てもらった方が早い。朋絵、放課後空いてる?」

 みっちゃんが小首を傾げてこちらを窺うように見る。

 階段の下から、どこかの教室のざわめきがふと、耳に入った。

 壁を隔てたというより、何か薄い膜を隔てたような響き。雑然とした音なのに、決してうるさいと感じさせないそれ。

 目の前にはこちらを見ている半透明のみっちゃん。

 どこを取っても現実味がなかった。

「とーもーえー。聞いてる?」

 みっちゃんが首を捻ったまま、咎めるように言ったので、慌ててわたしはこくこくと頷いた。

 相変わらずみっちゃんは半透明のままだけど、さっきまで感じていた現実感の薄さは少しだけ、マシになっていた。

「大丈夫だけど、どうしたの。何か用事でも」

「ちょっとついてきてほしいところがあるんだよね」

 なんでもないことのようにみっちゃんが言ったところで予鈴が鳴った。

 放課後、正門で会おう。みっちゃんが言って、ひらひらと手を振る。どうやら教室に戻るつもりはないらしい。

 そりゃそうだろう。今のみっちゃんは自由だ。教室にいなくたって、誰にも咎められはしない。

 階段を降りながら、わたしは屋上へ出る扉の前に立つみっちゃんの姿を思い浮かべる。

 あの体だから、みっちゃんは鍵のかかった扉なんて物ともせずに屋上へ出られるんじゃないだろうか。

 扉をすり抜けて、鼻歌交じりに誰もいない屋上から町を見渡しているみっちゃんの様子が簡単に想像出来た。

 そしてそれは、とても羨ましくて、同時にすごく寂しい光景だとも思った。



 帰りのホームルームが終わった直後の校門は、下校する生徒たちで溢れかえっている。

 この中から半透明のみっちゃんの姿を見つけるのは、なかなか骨の折れる作業になりそうだった。

 そう思ったものの、そんなわたしの考えはあっさり裏切られた。みっちゃんは、「豊ヶ岡市立豊ヶ岡第一高等学校」と彫られた銘板が取り付けられた岩の上に仁王立ちしていたからだ。

 腕を組んで足を肩幅に広げて立っているみっちゃんは、まるで銅像かなにかみたいだった。

 わたし以外に誰にも姿が見えていないと言っても、自由すぎる。というより、もしわたし以外の誰かにも姿が見えていたらどうするつもりなんだろう。

 みっちゃんが立つ岩の傍まで歩み寄って声をかけようとしたものの、今ここで声を出してしまえばわたしが変な目で見られるだけだと気付いた。どうしたものか。深く考え始める前に、みっちゃんの方がわたしに気づいてくれた。

「朋絵、お疲れ。今降りるからちょっと待って」

 言いおくと、みっちゃんは大きく足を踏み出した。

 膝が隠れる丈の、生徒指導の先生が見たら満足そうに頷くに違いないプリーツスカートの裾がふわりと舞い上がる。下に履いているハーフパンツがちらりと見えた。派手な赤色のそれは学校指定のもので、生徒からの評判はすこぶる悪い。みんな、体育のときは渋々穿くけれど、まさか普段から穿いている人がいるとは思わなかった。

 それにしても、実体がなくてもあんな風にスカートが揺れるのか。そんなことをわたしが考えている間に、みっちゃんは音もなく着地していた。

「ここじゃ朋絵と話せないから、もうちょっと人がいないところに行こう」

 みっちゃんが頭を掻きながらのんびり言う。天パだというみっちゃんの髪は、梅雨時になると鳥の巣みたいになるけれど、今はそこまでではなくて落ち着いていた。

「私の後に着いてきて」

 言われて、わたしは大人しくみっちゃんの後について歩き出す。わたしの帰り道とは正反対の方向だったので、ただ着いていくことしか出来なかったし、目的地だって全く検討がつかなかった。

「それで、行く場所っていうのは?」

 校門を出て数百メートル歩いたところで、我慢できずわたしは訊ねた。

 もちろん、周りにはなるべく聞かれないように小声でだけれど、それでも近くを歩く何人かには聞かれてしまったかもしれない。

 みっちゃんは立ち止まって、肩越しにわたしを見た。おかしそうに口角をにんまりとつり上げている。こそこそと話しているわたしの様子がツボだったのだろうか。

 そりゃ、みっちゃんは人目を気にしなくて良いだろうけど、こっちは周りからすれば何もいないところに向かって話しかけている痛い人になってるってこと、分かって欲しい。

 ……分かっててこの状況を楽しんでいるんだろうな。

 わたしが大きくため息を吐くと、みっちゃんは悪びれた様子もなく口先だけで謝って、それから真面目な顔になる。

「病院だよ。私の家の近くだから、ちょっと電車に乗ることになるけど、大丈夫?」

 病院。その言葉に、思わずわたしは逸らしていた顔をみっちゃんの方へ向ける。

「そう、お見舞いってやつ? 私のだけど」

 おどけたようにみっちゃんが言う。

 わたしはといえば、こういうときにどんな顔をすればいいのか分からなくて、ただ途方に暮れていた。



 みっちゃんが眠っているというベッドは、四人部屋の病室の、向かって右手の奥にあった。

 病室の入り口からではクリーム色のカーテンが引かれ、中の様子は窺えない。

「……みっちゃん」

 喉がからからに渇いているせいで掠れた声が出たけれど、今は都合が良かった。

「ここで本当にあってるんだよね? っていうか、ホームルームで先生が面会は断っているって……」

「あってるってば。入院してる張本人が言ってるんだから信用してよ。面会だって、他でもない私が来てほしいって呼んだんだから、大丈夫だよ。今の時間ならうちの家族も来れないはずだし」

 安心してよ。そう付け加えて、みっちゃんが自分の胸元を拳で軽く叩いてみせる。たしかに信頼できる情報であるのは間違いないけど、それでも複雑な気持ちになってしまう。

 というのも、みっちゃんが先ほどからにやにやと笑っているからだった。もっというと、こみ上げる笑いを必死に押し殺そうとして中途半端な真顔になっているというのが正しい。

 何もそんなに笑わなくたっていいのに。みっちゃんが柄にもなく押し殺しきれないほど笑う

に至った理由を思いだして、わたしは眉間に皺が寄るのを感じた。

 みっちゃんからお見舞いに行くと聞いたとき、咄嗟にわたしはお花か果物でも買っていくべ

きではと言ってしまったのだ。そしてそれがみっちゃんのツボをいたく刺激したらしく、爆笑されてしまったのだった。

『いいってそんな気遣い! 朋絵は律儀だなあ、ほんとに!』

 腹を抱えて笑いながら、みっちゃんが途切れ途切れに言っていたのを思い出す。

 そんなに笑うほどのことだろうか。

 普段表情の変化が乏しいだけに、みっちゃんが涙を浮かべて笑っているのは新鮮だったけど、次第に腹が立ってきた。そしてわたしが黙り込むと、流石にみっちゃんも悪いと思ったのか笑いを引っ込めようとして、中途半端な真顔になっているというわけだ。

 笑ってはいけないときほど笑いがこみ上げるというのは分かるけど、それでも腹が立つものには腹が立つ。

「こんな状態で朋絵を別人と引き合わせるような真似なんてしないってば。信じてよ」

 みっちゃんが腰をかがめて耳元で囁く。みっちゃんの声はわたし以外には聞こえないらしいけれど、それでも声を小さくしているのが少しだけおかしかった。病院の中だから反射的にそうしてしまうのか、あるいは自分の仲間がいて、声を聞かれるかもと考えたからかもしれない。

 さすがに後者は考えすぎかもしれないけれど。

 わたしは意を決して病室の奥に向かって歩き始めた。静かなせいか、ローファーのたてる足音がやたらと響く。みっちゃんはわたしの後ろについてくる形になっていた。

 ちゃっかりしている。先導してくれてもいいのに。口の中で文句を言って、わたしはクリーム色のカーテンに手をかけて、細く隙間を作った。

 見るからに清潔な真っ白のリネンがまず目に入る。少しずつ視線を右にずらしていくと、そこにはリネンに負けないくらい白い顔があった。

 蝋のような顔だ。血色が悪いとか、そんなレベルじゃない。真っ白いのだ。

 でも、たしかにそれはみっちゃんだった。目を閉じているし、首から下は布団で完全に覆われてしまっているけれど、それでも分かった。パーマをあてたみたいなくせっ毛も、寝不足からくる隈も、間違いなくみっちゃんのそれだ。

 わたしは黙ってカーテンの内側に体を滑り込ませた。枕元まで近づいて膝をつく。

 近くで見ると、もう見間違えようがなかった。顔色が尋常じゃなく悪い以外は、たしかにみっちゃんだった。

 後ろから、血色がいい、けれども半透明なみっちゃんが、のんびりした声で「そんな近くで顔を見られると照れるんだけど」と言ってきたけれど無視する。

 近くまで寄ってみて、気づいたことがあったのだ。

「……息、してる」

 念のため耳を口の近くまで寄せてみると、はっきり呼吸音が聞こえた。それに胸もゆっくりと上下している。

 みっちゃんは、死んでいない。生きている。

 そもそも死んでいたらこんなところに寝かせてないだろうけれど、それでもわたしは、やっと少しだけ安心できた。

 カーテンの隙間から見えた白い顔は、生きている人のものには見えなかったからだ。

 ぽつりと零れた言葉に、みっちゃんがそうなんだよ、と答える。

「私は死んでなんかない。安心した?」

 幽霊みたいなみっちゃんに言われるのもどうなんだろうと思ったけれど、たしかに呼吸はしているし、生きていると思っても良いのかもしれない。

 少し悩んで、それからわたしは布団をがばっと捲りあげた。青と白のストライプの入院着を纏った体の、鎖骨の下、胸の辺りに手を伸ばす。

 半透明の腕が、通せんぼするようにわたしとみっちゃんの体の間に割り込んできた。

「ななな何してんの朋絵は」

 動揺してみっともなく震えている声はなかなか新鮮だった。みっちゃんはいつも、良く言えばクールで、悪く言えば覇気がない感じなのだ。

「何って……心臓が動いているか確認しようかと思って」

「いいじゃん、呼吸が確認出来たならもういいじゃん」

 焦ったように両手をぶんぶん振りながら言うみっちゃんを見て、少しだけ溜飲が下がった。

 さっきあれだけ人のことを笑った罰だ。

「どうしよっかな、今のみっちゃんは動けないからやりたい放題出来ちゃうもんなー」

 にやにやしながら言うと、みっちゃんがさっと青くなるのが分かった。

 後ずさりながら左手で口元を押さえつつ右手でわたしを指さす。

「おまわりさん、この人! この人です!」

 みっちゃんが叫ぶ。誰かが駆けつけてくる気配はなかった。わたしの耳にはうるさいくらいにみっちゃんの声が聞こえているのに、隣のベッドの人が起きてくる様子もない。

「冗談だよ、そんなことはしないってば」

 無実を主張するように両手を顔の横まであげてみせたものの、みっちゃんはまだ渋い顔をしていた。

「どうだか……今の朋絵の目、完全にエロいおっさんのやつだったもん」

 まあ本当は、布団を捲りあげたときにちょっと胸に触ってしまったけど、それくらいは事故だと思うし故意じゃないから許して欲しい。

 と言ったところで余計に距離を取られそうだから、黙っておくことにする。

「……それより、あんまりここに長居するとまずいよ、誰が来るか分からないし」

 不意にみっちゃんが真剣な顔になって言う。確かにその通りだった。むしろ、今までよく誰も来なかったなと思う。

 立ち上がると床についていた両膝が赤くなっていた。両手でさすってやりながら、わたしはみっちゃんの後ろについてそそくさと病室をあとにした。


「電話?」

「そ。これだと一人で喋ってても変じゃないでしょ?」

 病院から駅へ戻る途中にある歩道橋の真ん中で、わたしとみっちゃんは小声で話をしていた。

 なるほどなあ。みっちゃんが感心したように呟く。

「確かにそれなら一人で喋ってる痛い人にならなくて済むね」

 誰のせいでそうなったと思って。舌先まで出かかった言葉を飲み込む。

 代わりにわたしはスマホを耳元に持って行って、歩道橋の下を行き交う車に視線を落とした。

「つまり、今はどういう状態なの?」

 少し声を大きくして訊きつつ、横目で隣に立つみっちゃんの様子を窺う。

 半透明のひょろりとしたシルエットは、歩道橋の柵に背中を預けるかたちでぼうっと宙を見ていた。

「朋絵はどういう状態だと思う?」

「質問に質問で返すの、ずるいだと思う」

 言い返すと隣でみっちゃんが笑うのが分かった。

 体ごとみっちゃんの方を向くと、みっちゃんも柵に預けていた体を起こしてわたしの正面に立った。

「そうだね、ごめん。私が思うにだけど、今の状態は」 

「幽体離脱、とか?」

 みっちゃんの言葉を引き継ぐ。生きている体と、自由に動き回る幽霊みたいなみっちゃん。

 嘘みたいな話だけれど、確かにそれなら一応辻褄は合う。

 ……もちろん現実的とは言えないけれど。でもそれを言いだしてしまったら、そもそもみっちゃんが今こんな状態だってことからして、充分現実的じゃない。

 みっちゃんがこくりと頷く。体は大きいのに、仕草は小さな子どもみたいだ。

「たぶん、そうなんだよね。昨日の夜家に帰ってすぐ、眠かったから横になったんだけど、目が覚めたらこうなってた。それと、元に戻れないみたいでさ」

「待って、戻れないって……自分の体に戻れなくなっちゃったってこと?」

 再び、みっちゃんが頷く。

 そして何を思ったか、ぬっと半透明な手を私に向かって伸ばしてきた。

 けれどもみっちゃんの腕は私の体に刺さって、どうやら背中の向こう側に突き抜けたようだった。

 もちろん痛みどころか違和感のひとつもなかったけれど、見ていてあまり気持ちのいい光景じゃない。

 実体がないとはいえ、腕が自分の体を貫いているのだ。

 何かのマンガみたいだった。具体的にタイトルは思い浮かばないけれど。

「そう。こんな風に、戻ろうとして体に触ってもすり抜けちゃうだけなんだよね」

「……みっちゃん。なんか気持ち悪いから、今すぐその腕、抜いてくれる?」

「ん? ああ、ごめん」

 伸ばしていた腕を胸元に引き寄せて、それはそうと、とみっちゃんが続ける。

「さっきの話だけど、やっぱり私は自分の体に戻れなくなったみたい。体の方はちゃんと生きてるし、そのうち元に戻れるんじゃないかなとは思ってるけど。まあどうなるかなんて分かんないよね。こんな状態になったの、初めてだし」

「みっちゃんは怖くないの?」

 思わず聞いてしまって、それからわたしは後悔した。怖いに決まっている。みっちゃんはわたしに気を遣わせないようにひょうひょうとしているだけだ。

「いつかは戻れるだろうし、別に大丈夫でしょ、わたし一人がこうやってふらふらしてるぶんにはさ。誰も困らないじゃん。あ、お母さんには心配かけてるかもしれないし、入院の費用もかかってるから、その辺は申し訳ないなって思うけど」

 言って、みっちゃんは宙を見つめる。

 みっちゃんの表情からは、今口にしたことが本心からのものなのか、それとも強がりで言ったものなのかは分からなかった。

 わたしが今言われた言葉とその真意について考えている間に、みっちゃんが何かを思い出したように両手を叩いた。

 音はしない。生身の人間が同じことをすれば、小気味良い音が響くはずなのに。

「あっそうだ、スマホ!」

「スマホ?」

 急に何を言い出すのだろう、みっちゃんは。

 聞き返すと、みっちゃんはぶんぶんと頷く。

「うん。私、物を持ち上げたりは出来ないんだけど、スマホの操作は出来るんだ。だからメールのやり取りなら出来るよ」

 わたしは暗闇の中でひとりでにスマホの液晶が発光し、文字が打ち込まれる様子を想像する。

 なかなかにホラーだ。

「スマホを操る幽霊かあ」

「だから死んでないって。勝手に人を殺さないでよ」

 みっちゃんが不服そうに言う。

「ごめんごめん。で、みっちゃんのスマホは今どこに?」

「家だよ。自分の部屋。寝る前に充電器に繋いだまんまになってる」

「なるほどね。でもひとまず、すぐ連絡は取れるから便利……なのかな」

「うーん、私が家にいるときは、かな。今の体じゃスマホを持って歩けないし」

「そっか、そうだよね……」

 答えて、それから二人とも無言になった。

 沈黙から逃れるように視線をみっちゃんから外すと、辺りはいつの間にか薄暗くなっていた。

 歩道橋の下を行き交う車もライトを付けるようになっていて、いくつもの光が筋を描きながら過ぎ去っていくのが見える。

「駅まで送るよ」

 ぽつりとみっちゃんが言う。薄闇のなかで、みっちゃんは昼間以上に存在感が希薄になっていた。目を離した隙に消えてなくなってしまいそうで、わたしは瞬きをしないようにみっちゃんの姿をじっと見つめる。

「大丈夫。道は覚えたし、自力で帰れるよ」

 それに、道に迷ったとしても地図アプリを使えば駅までは辿り着けるだろう。

「そっか、じゃあここでお別れかな」

 どうやらみっちゃんの家は駅と反対方向にあるらしい。

 いや、待て。やっぱりみっちゃんは自分の家に帰るのだろうか。

 聞いてみると、そりゃね。とみっちゃんは頷いた。

「別にうちにきてもいいよ。だってみっちゃん、今はわたし以外に話相手いないんでしょ?」

「ありがと、でも遠慮しとく」

 提案してみると、みっちゃんは小さく笑って首を振った。

「それじゃ、気を付けてね」

 右手をあげてみせたみっちゃんに、わたしもスマホを耳に当てたままで、また明日、と答える。

 本当は手を振り返したいところだったけれど、みっちゃんの後ろから塾帰りらしい小学生の集団が見えたので、そうするわけにはいかなかったのだ。

 思いの外あっさりと、みっちゃんはわたしに背を向けて歩き始めた。それを引き止める理由もなかったので、わたしもみっちゃんに背を向けて歩きだす。

 歩道橋の階段を降りて、駅までの道を歩きながら、わたしはみっちゃんとのやりとりを反芻していた。

 改めて情報を頭の中で広げてみると、どれも嘘みたいな話ばかりだった。けれど、その大半は嘘じゃないことをわたしは知っている。というより、嘘ではないと思い知らされてしまった。

 そしてそれよりわたしは、みっちゃんがが気がかりだった。


 ねえ、みっちゃん。

 立ち止まって顔をあげる。いつの間にか街灯がついていた。等間隔に並ぶ、黄色がかった白色の灯りはどこかへの道しるべみたいだ。


 どうして線路であったこと、話してくれなかったの?

 それは話せない事情があるからなの?


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