4.

 それは本当に偶然の結果だった。

 どの条件が欠けていても、わたしはあの場面を目撃することが出来なかったと思う。

 例えばあの日。あの八月三十一日、夏休みの最終日に。

 わたしが夏期講習終わりに寄り道せず真っ直ぐ家に帰れば。

 そして寄り道するにしても、帰る時間をあの時間にしなければ。

 きっとわたしはみっちゃんが電車に轢かれて、それから無傷で立ち上がって自力で帰るところを見ることはなかったはずだ。



「ねえ、朋絵ってば聞いてる?」

「えっごめん、何の話だっけ?」

 夏期講習帰りに寄ったサーティワンで、わたしはポッピングシャワーを、佐々原ちゃんはジャモカアーモンドファッジを食べているところだった。佐々原ちゃんが呆れたような顔をしているのは、ひとえにわたしがアイスに夢中になっていたせいだ。がっついていた、とも言う。

「やっぱり聞いてない。だーかーら、地下鉄の事件だよ。すごくない?」

 プラスチックのスプーンをびしっとわたしの鼻先に突きつけて、佐々原ちゃんが言う。

 地下鉄の事件。何かあったっけ?

 わたしの表情で、佐々原ちゃんもどうやらわたしが何も知らないということに気づいたようだった。

「知らないの? 東京の話なんだけどさ」

 佐々原ちゃんが語った『地下鉄の事件』の概要はこうだ。

 女の人が地下鉄のホームから線路に落ちてしまって、そこに電車が滑り込んできた。最悪の事態が予想されたけれど、実際にはその人は無傷だったらしい。

「電車と枕木の間にいたから助かったんだってさ」

 一口ちょうだい。そう言って、わたしが返事をするのを待たず、佐々原ちゃんはわたしが手にしたカップから一掬い、アイスを持っていった。

 わたしも佐々原ちゃんのカップからアイスを頂くとする。舌の上にひんやりとした甘さとコーヒーの苦みが広がった。

「枕木と電車の間って……すごいねえ」

 両腕の肘から先を平行に重ねて、わたしは車両と枕木の間にどれほどの隙間があるだろうと想像してみる。それほど広くはないだろうし、その人は本当に運が良かったのだろう。

 佐々原ちゃんがそうだろう、とまるで自分が体験してきたかのように大きく頷く。

「でも無事でよかったよね。自殺したいならともかくさ、そういうわけじゃなかったらしいし、その人」

 たしかにその通りだ。何はともあれ無事で良かった。

 そうだね、と返事をして、わたしはカップの底に残っていた、ほとんど溶けたアイスを口に入れる。

 口の中にどろりとした甘さが広がって、キャンディがぱちぱちと弾ける感触がした。

 佐々原ちゃんと別れた後は、たしか本屋さんを冷やかしに行ったはずだ。

 みっちゃんはどうしていただろう。元々それなりに仲は良かったけれど、常に一緒に行動するというわけでもなかったし、そもそも帰り道はばらばらだ。

 だからあの日、みっちゃんがどんな経緯であの場所にいたかをわたしは知らない。

 本屋さんを出て、ようやく家に帰ろうとする頃にはもう日が落ちかかっていた。

 寂れた商店街を抜けて、遊具の数が少ないわりに広い公園を横目で見ながら家路を急ぐ。

 ひたすら田んぼが広がるところまで来れば、家はもうすぐそこだ。遠目に貨物列車が走ってくるのが見えたけれど、わたしが踏切に着く頃には通過し終わっているはずだから、待たされることもないだろう。

 列車の接近を知らせる警報音が鳴っていた。これだけ離れたところで聞いてもやっぱり嫌な音だ。もっと柔らかい音にすればいいのにとも思うけれど、それでは意味がないのだろう。それでもやっぱり、聞いていて気持ちの良いものじゃないから、せめてホームで聞く電車の発車メロディくらい聴いてて不安な気持ちにならないものにしてほしい。

 思っていた通り、親指の先くらいの大きさをした小豆色のコンテナは、わたしが踏切に辿り着くずっと前に通り過ぎていった。あのコンテナはどこへ向かうのだろう。今コンテナが通っていたのは県を跨いで伸びている上りの線路だ。そしてわたしは、その路線に数えるほどしか乗ったことがなかったし、その線路がどこを通って最終的にどこへ行き着くのかを知らなかった。

 コンテナが通過し終えて、針みたいに細い黄色と黒のポールが跳ね上げられる。そこまでは良かった。

 問題は、踏切の少し右手の線路から、よろけつつも誰かが立ち上がったことだった。

 それも、わたしと全く同じ制服を着た女の子だ。豊一トヨイチの生徒。まだ線路までは距離があったけれど、視界を遮るものが全くないこともあって、それが誰なのか分かってしまった。

 あれは、紛れもなくみっちゃんだ。

 スカートをきっちり膝が隠れる丈で着ていること自体珍しい上に、あの長身。そして雨の日になるとみっちゃんが重い表情になる原因でもある、パーマをあてたみたいなくるくるとしたくせっ毛のショートヘア。

 遠目に見ても、シルエットだけで十分それがみっちゃんだと分かった。

 でも、今し方線路には貨物列車が通過していったわけで、そこから立ち上がったということはみっちゃんは轢かれたということになる。

 見たところ多少足下はふらついているけれど、怪我をしている様子はない。

 まだ線路とわたしの間には結構な距離があった。そして辺りは猫一匹、カラス一匹いなくて、不気味なくらい静かだった。

 みっちゃんらしき人物は――九割九分みっちゃんに違いない誰かは、ふらつきながらも落ちていた鞄を拾って歩き出す。

 土か、それともそれ以外の何かで汚れた白いセーラー服の背中がひどく頼りなさげだった。

 そのときわたしは、駆け寄っていってみっちゃんを呼び止めて、無事を確かめて、話を聞くべきだったのだ。

 でもわたしはそうはしなかった。みっちゃんがふらふらと線路の向こう側へ歩いて行くのをその場に固まったまま見ていることしか出来なかった。

 ただ、歩いて行った先はわたしの家の方向でもあるから、ふと我に返って後を追いかけようとしたけれど、そういうときに限ってまた電車がやってきて、その通過待ちをしている間にみっちゃんの姿を完全に見失ってしまったのだった。


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