3.

 朋絵から『星』を見せられた翌朝、私はいつもより早く家を出た。

 家にいても落ち着かなかったのだ。食卓では母と姉が消えた星のことをずっと話しているし、見向きもされないテレビに映る朝の情報番組だって、その話題で持ちきりだった。気にするなという方が難しい。だいたい姉が二日連続で早起きしていることにも私は驚きを隠せなかった。

 母との会話を聞く限り、姉は消えた星のことが気になって一晩中調べていたようだった。

 姉が母に、興奮気味に消えた星のことを話すのを聞きながら、私は黙ってつけっぱなしのテレビを眺めていた。

 突如消えた星。やまねこ座の三一番星。固有名はアルシャウカット。

 それを持っている人間に心当たりがあるだけに、私はもどかしい気持ちでいっぱいだった。

 母や姉に言ったところで無駄だろう。聞き入れてすらもらえないに決まっている。

 だからこそ、もう認めてしまおうと思った。朋絵が抱えていたアレが星であることを。

 今のところ、朋絵は自分が星を盗んだということを私以外には話していないらしい。これは本人から直接聞いたことだから、朋絵が嘘をついていなければ確かなことだ。

 だからなんとか私が朋絵を説得して、星を元通りにしてもらわなければ。

 しかし、そうするにも問題があった。

 朋絵が星を盗んだ理由を知って、それをなんとかしない限り、朋絵は星を返そうとは思わないのではないか。

 ここはなんとか拝み倒して聞くしかない。朋絵が簡単に言ってくれるとは思えなかったけれど、そうするしかないだろう。

 ため息を一つ吐いて、私はいつもより一本早い電車の、いつもと同じ先頭車両に乗り込んだ。

 一本早い電車はいつも乗っているそれよりも空いていて、席はところどころ空いていたけれど、私は座らずに運転室の前に立つ。

 三つの駅を通り過ぎた電車は、いつもどおり線路と線路が交錯するポイントに差し掛かった。

 そして今朝も運転士は進行方向を間違えることなく、電車は終点の、高校がある豊ヶ岡へ向かう。



 今朝は朋絵の方が私より遅く――けれど、いつもの朋絵の登校時間に比べれば早く、教室にやってきた。

 マルチボーダーの派手なマフラーをぐるぐると巻いた朋絵は、それでもどこか寒そうに肩を縮こまらせている。

 おまけに今日は、黒いタイツだけではなく、更にその上から黒いハイソックスを重ねている。そんなに寒いのだろうか。それとも朋絵が特別寒がりなのだろうか。

 朋絵は私と同じく既に登校しているクラスメイトと挨拶を交わしながら、私の方――正確にはその隣の自分の席に向かって歩いてくる。

 学校指定の運動靴のゴム底が板張りの床に擦れてたてる音が、いやに大きく聞こえた。

 朝早くで、まだあまり教室に人の姿がないからというのもあるだろうけれど。

「おはよう、朋絵」

 座っていた机から飛び降りて言うと、朋絵は私の方を一瞥したものの、挨拶を返そうとはしなかった。さして気にしない。いつものことだ。

 ただ気になったのは、朋絵の表情が固く強ばっていることだった。

 硬い表情のまま、背負っていた大きめのリュックを机に下ろして、朋絵はぎこちない動きでその中身を取り出し始める。

 私は朋絵がリュックを下ろして教科書を机の中に詰め込むのを黙って見ていた。

 いつも思うけれど、朋絵はなんだかんだで真面目だ。なにも辞書までいちいち持って帰らなくてもいいのにと思う。

 それか、せめて電子辞書を使えばいい。前にそう言ってみたことがあったけれど、朋絵は紙の辞書が好きらしく、その反応はにぶかった。

 朋絵は私のことなど眼中にないような、思い詰めた表情を崩す気配がない。何かあったのだろうか。

 あったとしたら、それは『星』のことだろうか。それとも何か別のことだろうか。

 机の中に教科書を詰め終えた朋絵は、続けてリュックの前面についた小さなポケットからスマホを取り出す。

 そして、昨日と同じようにメモアプリを呼び出して、たった一言、それも昨日と全く同じ言葉を打ち込んで見せた。

『いつもの場所で』

 ひとまず朋絵に私と話す気があることに安堵して、私は「先に行ってるね」と声をかけて教室の出口へ向かう。

 朋絵の硬い表情が気がかりだった。何を考えているのだろう、朋絵は。

 まだ朝早いからか、廊下には誰の姿も見当たらなかった。立ち止まって窓の外を見る。

 家を出た時点では綺麗に晴れていた空には、いつの間にか、どんよりとした重たい雲が立ち籠めていた。

 これは降るかもしれない。



 マフラーを巻いたまま、朋絵はいつもの場所――屋上へ通じる扉の前に現れた。

 教室で顔を合わせたときよりは多少表情がほぐれて一応笑ってはいたものの、それでも朋絵は無理矢理笑っているのがわかる顔をしていた。どこか張り詰めているのが分かる表情なのだ。

 更に朋絵は、いつものように周囲を警戒しようとはしなかった。

 おかしい。そうするだけの余裕すらないのか、それとも、警戒しなくても大丈夫だという確証でもあるのか。

 ともかく朋絵は、脇目もふらず階段を上りきって私の前に立った。

「朋絵、あのさ」

「おはよう、みっちゃん。怖い顔してどうしたの」

 私の言葉を遮って、朋絵が不自然に明るい口ぶりで言う。

 怖い顔はどっちだ。鏡を見せてやりたい。

「……おはよ、朋絵。あの、朋絵が盗んだ星なんだけど」

「おっ、みっちゃんはあれが星だって認めるんだ! 昨日は全然信じようとしなかったのに」

 大仰にリアクションをとる朋絵は、顔だけじゃなく全身が強ばっているのが分かった。

 だって、両手ともセーラー服の袖口をぎゅっと握りこんでいる。寒さのせいかとも思ったけれど、きっとこれは緊張のせいだ。

 驚いている表情だって、ずいぶんとわざとらしい。

 間違いなく、朋絵は何かを隠している。

「そうだよ、認める。だから今日はお願いに来た」

 静かに言うと、朋絵の顔に張り付いていた不自然な表情がするりと剥がれ落ちた。

「お願いってなに?」

 私と同じように、抑えた低い声で朋絵が問い返す。

 表情は相変わらず硬いけれど、さっきまでのような嘘くささはない。

「あの星を元あった場所に返して欲しい。……朋絵は何か、目的があって盗んだのかもしれないけど、でもやっぱり星は空にあるべきだよ」

「星は空にあるべき、かあ。みっちゃんは詩人だね。いや、リアリストなのかな」

 朋絵がバックステップで一歩分だけ私と距離をとった。

 そして、満面の笑みを浮かべて言う。

「やだ」

 もちろん素直に首を縦に振るとは思っていなかったけど、そうと分かっていてもこの反応は困った。

 どう説得するべきか。

「昨日も言ったけど、どうして盗んだかなんて聞いたって無駄だよ。それは教えてあげない」

 私が口を開く前に朋絵が先手を打つ。

「でもほら、あの星がなくなって困る人だっていると思うし」

「例えば?」

「……天文学者とか、天体観測が好きな人とか、あの星が好きな人だっているだろうし」

 朋絵が途端に意地の悪い顔になる。

「みっちゃんはさ、なくなるまであの星のこと、知ってた?」

 朋絵が盗んだ星。やまねこ座の三一番星、固有名はアルシャウカット。

 私が返事をしなくても、表情から答えを察したらしい。朋絵は小馬鹿にしたような顔で続ける。

「知らなかったでしょ。マイナーな星だもんね。十七世紀になってからドイツの天文学者ヘベリウスによって作られたのがやまねこ座。だから、星占いで有名な黄道十二星座みたいに神話を持たない。やまねこ座、一番明るい星でも三.一等級のα星だし、それだってすごく見つけにくいし」

 そのあたりの知識はあるけど、星がなくなってから自分で調べたり、ニュースになっているのを聞いて身につけたものだ。

 朋絵の言うことは否定できない。

 私が何も言い返さないのを良いことに、朋絵はたたみかけるように言う。

「太陽とか月がなくならともかくさ、あの星なら――アルシャウカットなら消えたところで誰も困らない。ちがう? みっちゃん」

 ――ああ、そういうことか。

 その瞬間、私は朋絵がどうして星を盗んだのか、分かってしまった。

 視線を落とすと、朋絵がセーラー服の袖口を握りしめたままなのが目に入る。

 小さな手は蝋のように白い。目一杯力を入れているのが一目で分かる状態だった。

 全部、朋絵は分かっていたのだ。盗むのにどんな方法を使ったのかはやっぱり分からないけれど、、それでをしでかしたのだ。

 

 ふいに、朋絵の手に込められていた力が抜けて、指先が解けた。

 プリーツスカートの上にだらりと掌が投げ出される。

「なんならさ、みっちゃんが返してこればいいよ」

 掠れた声が朋絵が言う。

 反射的に私は伏せていた顔を戻して朋絵の顔を見た。

 その顔は、泣き出す寸前のようにも、笑うのを堪えているようにも見えた。

「もっともみっちゃんじゃ――」

 言いかけた朋絵が、はっとしたように口を引き結ぶ。その顔に、さっと緊張が走ったのを私は見逃さなかった。

 天敵の存在に気づいた野生動物のように、朋絵が体を固くするのが分かる。

 そして同時に私は気づいた。――足音が一つ、真っ直ぐこちらに向かっている。

 学校指定の運動靴の、そのゴム底がリノリウムの床を擦る特有の音が、すぐそこまで迫っていた。

 朋絵の様子が気がかりだったけれど、階段に背を向けていた私は、体ごとそちらに向き直る。

 階段を降りた先の踊り場には、女の子の姿があった。

 腰くらいまである長い髪をポニーテールにしている姿を見て、即座に私はその子が誰なのか分かった。同じクラスの佐々原ちゃんだ。

 佐々原ちゃんは制服の上からベージュのカーディガンを羽織って、その袖口で完全に自分の手を覆ってしまっていた。

 それでもまだ寒いらしく、ぶるりと身を震わせた佐々原ちゃんが「さむっ」と呟くのが聞こえる。

 確かに早朝の学校、それも廊下や階段には暖房など入っていない。寒いのは当然と言えば当然だった。

 佐々原ちゃんが、こちらを見上げて忙しなく瞬きをした。それから不思議そうな顔でゆっくり首を捻る。ポニーテールが首の動きにやや遅れて、同じように揺れた。

 おはよう、と眠そうな声で挨拶した後で、佐々原ちゃんは首を捻ったまま言う。


「朋絵、こんなところで何してんのさ」


 見なくても想像はついたけれど、それでも反射的に私は首を捻って肩越しに朋絵の顔を見た。

 朋絵は無理矢理笑っていた。といっても口元だけが辛うじて笑っていて、目元が不安そうに揺れている歪な表情だ。

 私と話していて、それがバレて困るのは朋絵なのだ。だからあれだけ周囲を警戒して、周りに人がいるところでは絶対に私と口を利かないようにしていたのだ。

 だって、今の私の姿は朋絵にしか見えないのだから。

 だって、今の私の声は朋絵にしか届かないのだから。

 スカートのポケットからスマホを取り出して見せながら、朋絵がたどたどしく言う。

「電話、してただけ。どうしたの佐々原ちゃん、こんなところに来てさ」

「んー? あたしは図書室に行こうと思って。そしたら上の方から朋絵の声がしたから、何してんのかなって」

 捻っていた首を戻して、佐々原ちゃんが小脇に抱えていた本を見せる。

 たしかに教室があるA棟から図書室があるB棟への渡り廊下があるのはA棟の北階段の三階だ。そこまで来たところで、階段の上の方から朋絵の声が聞こえても不思議じゃない。

 特に今日は、朋絵が珍しく周りを注意しようとも、小声で話そうともしなかったから。

 電話だったか、ごめんね邪魔しちゃって。佐々原ちゃんが掌を顔の前で合わせて頭を下げてみせる。ワンテンポ遅れてポニーテールが背中で跳ねた。

 だいじょうぶ、気にしないで。朋絵が弱々しい声で言い返すのが、どこか遠くから聞こえた。

「それじゃ、またあとで教室でねー」

 言って、佐々原ちゃんが手にした本を軽く掲げてみせてから、さっさと図書室の方へ向かって歩き出した。

 朋絵もそれをぎこちない笑顔で見送る。

 足音が完全に聞こえなくなっても、しばらくの間、私も朋絵も黙ったままだった。

「――みっちゃんじゃ、絶対無理だけど」

 ぽつりと、消え入りそうな声で朋絵が言う。

 長い沈黙を破ったその一言が何を示すのか、一瞬私は分からなかった。

 少し時間をおいて気づく。あれは、中断されてしまった話の続きだ。

 星を返したいなら、私がそうすればいい。朋絵はさっき、そう言った。

 そして今、それが不可能だと言ったのだ。

 確かに朋絵の言う通りだった。今の私は何も持つことが出来ない。だから朋絵の言うように、私が朋絵の盗んだ星を持ち出して返すということも出来ない。

 そして朋絵も、いや、朋絵に限らず誰一人、今の私には触れることすら出来ないのだ。

 何も言い返せずに私は押し黙って、朋絵もまた口を引き結んでいた。

 私と朋絵が立つこの踊り場には、重たい沈黙が澱のようにわだかまっている。

 私は自分が何をするべきなのか分かっていた。分かっていたけれど、口を開くことさえ出来なかった。

 そのうち予鈴が鳴り出して、朋絵は黙って私に背を向けて階段を駆け下りていってしまった。

 足音が遠ざかっていく。私にはもう、たてることすら出来ない音が遠くなる。

 いよいよ外では雨が降り出したようで、窓ガラスを叩く雨音が初めは小さく、次第に大きくなっていくのを、私はその場に立ち尽くしたまま聞いていた。


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