第360話 私がどうしてそう思うに至ったか

 小高く積み重なったコンクリート塊の上に、海部が立っている。

 以前に会った時よりも血色が良く、額のテカリ具合も増して、見た瞬間から活き活きとした生命力を感じる。そして表情は穏やかで楽しげであった。

 だが、それこそがおかしい。

 辺りのDP濃度が高すぎるため、亘は頭の芯が重く気怠く、神楽とサキは動くのも辛い状態になっている。チャラ夫とガルムは動けず、法成寺に至っては瀕死の蝉状態。それであるのに、海部だけが平然としている。

 嫌な予感が頭を過る。

「どうも五条さん、こんにちは。ご無沙汰でございます」

「あっ、これはどうも。ご無沙汰でした」

 つい習慣で挨拶を返してしまったが、亘は困惑するばかりだ。

 海部があまりにも平然としているため、そちらが正常で自分たちがおかしいのではないかと思えてくる。念のため確認するが、肩に担いだサキはくったりしたままで神楽も同じ、後方にいるチャラ夫は辛うじて顔を上げただけである。

 そして海部は和やかに笑う。

「先日は少しだけお顔を拝見しておりました。ですが私、こう見えて恥ずかしがり屋さんでして。声をおかけできず失礼しました」

「はあ、そうでしたか」

「さすがに今日まで恥ずかしいとも言ってられませんでしょう。ですから、こうしてお目にかかったわけでございます」

「どうもご丁寧に」

 言いながら、亘は反応に困っていた。

 海部に嫌な予感を覚えつつも、こうして挨拶をされてしまうと、どう対応して良いか判断がつかない。

「このメンバーで、ここに来られたということは……やはり当社の様子を確認に来られたと。つまり、この悪魔が氾濫した原因を当社に求めに来られたということなのでしょうね。いやはや、うちの新藤も悲しみますよ」

「そう考えている人もいますが、少なくとも自分はそうは思っていませんよ」

「おや? それはまたどうして」

「社長がこんなことをするとは思えませんし、もしやるのなら堂々と宣告してからやると思いますので」

「ほう」

 意外そうな顔をする海部だが、それから破顔するように笑った。曖昧な表現となるのは、その笑顔がどこか取り繕ったものに思えたからだ。海部が手をパチパチさせる仕草も、やはりどこか態とらしい。

 亘は相手の顔色を窺ってきたので何となく分かる。

「うちの社長をそのように思っておられるとは。五条さんは実に信頼と友情に篤い」

 もちろん亘は腹の中では新藤社長を疑っている。

 だが意見をころころ変えるよりは、信じた振りをした方が良いと思ったのだ。信じて正しければ万々歳、仮に間違っていても裏切られた人の方が風見鶏より遙かにマシなのだから。


「でも残念ながら。今回の一件に、当社が大きく関わっておるのは事実でございますです、はい。」

 海部はさらっと言った。

 なんとか平静を保った亘は口元に拳を当て、素早く思考を巡らせる。

 キセノン社が諸悪の根源であれば、今後はその方向で会話をせねばならない。ただし態度を急変させ、キセノン社憎しの急先鋒になるのは良くない。いやしかし、まだ海部が言っているだけなので証拠も何もない。日本刀で大名家伝来と売られていても、あっさり信じると痛い眼に遭う。それと同じだ。完全な証拠や論拠が揃うまでは信じてはいけない――。

「どうやら驚いておいでですね。ですが事実でございますよ」

 海部は亘の反応を、別の意味にとらえているらしい。

「キセノン社がこんな事をして何の得が? 何かの実験の失敗でこうなったということですか?」

「聞けば何でも教えてくれると思うのは間違いですよ、五条さん。漫画に出てくる悪役ではないのですからね。んー、でもそうですね。やはり語りたい気持ちというのはございますし。少しばかり、お耳を拝借」

 海部は楽しげに言った。

「細かいことはさておき。少なくとも私は世の中がこうなる事を望んで、そうなるように尽力してきたのでございます」

 その言葉からすると、悪魔の氾濫は実験の失敗や不測の事態が原因ではなさそうだった。故意に引き起こされたのは間違いない。

 しかし、あまりにも情報が足りなさすぎる。

 亘はコミュニケーション下手だが、海部に喋らせようと一生懸命に水を向ける。

「こんな状態を望んでいた? それはどうして?」

「それはそうですよ、はい。世の中が滅茶苦茶になってくれて、皆が不幸になって苦しんでいる。本当にざまぁって気分で、うきうきになれるからですよ」

「海部さん、貴方は……」

「そんな眼で見ないで頂きたいですな」

 自分ではどんな眼をしているか分からないが、しかし亘は海部の精神状態を疑っていた。皆が不幸になって嬉しいとか、明らかに負の感情に蝕まれている。それ以上に良い歳をした海部が、ざまぁと口にしたことに驚いていた。

「五条さんに変人扱いされるのは面白くない。よろしい、こうなったらとことん語らせて頂きましょう。つまり私がどうしてそう思うに至ったかを」

 あまり興味はなかったが、しかし情報は少しでも欲しかった。

「聞かせてください」

「はい、そちらの法成寺君と。えーとチャラ夫くんでしたかね、彼らは少しキセノンヒルズから離して差し上げた方がよろしいでしょうね。何せこの辺りは――」

「DP濃度が高いからですか」

「おや、ご存じでしたか。そうですよ、ある程度の素養がなければ動けなくなります。五条さんはレベルも高い上に、DPに対する親和性が高いですからね。ほら、DPを暴走させても平然としていられますでしょう」

 それであれば海部は何なのか知りたいが、こうした場合は下手に質問をぶつけるよりは相手に喋らせた方が良いのは間違いない。亘は海部の気が変わらぬうちにと、急いでチャラ夫と法成寺を目の届く範囲で向こうに押しやった。

 よっこらせと小さく言って、海部はコンクリート片を軽々と動かし、それを椅子代わりに座り込んだ。やはり見た目通りではないらしい。

 得体の知れぬ海部を警戒しつつ、亘も別のコンクリート片に座った。くてっとしたサキを膝にのせ、神楽はポケットに放り込んでおく。どちらも少しは体調が戻っている様子だ。


「私もね五条さんと同じく公務員だったんですよ」

「あっ、それはどうも。先輩でしたか」

「いえいえどうも。それで私はね、若い頃から祖母に続いて父親にと介護がありまして。母親と二人で必死になったものです。ようやくそれが終わった時には、私は四十代。身も心もぼろぼろでしたが、これから仕事に励み人生を楽しもうと思いました。でも今度は母親が難病になりましてね」

 海部は空を見上げるが、その横顔は酷く寂しげだった。

「母親は介護で自暴自棄になって、健康診断も受けなかったのが良くなかった。五条さんも、お母様が健康診断を受けているか確認された方がよい。年寄りは、ああいうのを軽視しますからね。でも必ず受けた方がいい」

 心からの顔で海部は言った。

 今の状況で健康診断も何もないが、平和になったら必ずそうしようと亘は頷いた。面白がって付いてきそうな御方もいそうだが、それはその時にどうするか考えるべきだろう。

「私の母親は介護で疲れきって、ようやくという時にそれでしょう。迫る死と苦しみとで酷い精神状態になりましてね、あらゆる存在を恨んで憎んで罵って、自身の死を願うことばかり口にするようなりました。ああいうのは辛い、本当に辛いもんです。ほんの少し前まで笑顔があって、前向きだった人の豹変というものはね」

「…………」

「ああ、別にそれで母親が嫌いになったわけじゃありませんよ。私はね、何の救いもない母を少しでも労ってやりたいと思っていただけですから。五条さんなら分かって頂けますよね」

「ええ、まあ分かります」

「そんな母親の事も終わりまして、私は天涯孤独になったわけですが。世の中の人々は誰もが楽しそうに笑って日々を過ごしている。私と私の家族がどん底で辛い思いをしている間も、皆は何も知らず普通の日常を過ごして幸せだった」

「……それは仕方ないですよ。誰も他人の人生なんて気にしてませんから」

 亘がしんみりと言うのは、やはり海部の気持ちが分かる境遇だからだ。

「ええ、そうでしょうとも。母親に寄り添って介護するのはマザコンだとか。親の死に目に会えないのが普通だとか。私が介護にかこつけて遊んでいたのだろうとか揶揄する人もいましたし」

「それは……心ない言葉ですね」

「ええ、そうですよ。でも、そんな事は構いませんでしたよ。ただ許せなかったのはね、こう言われたことです。母親のことが早く終わって良かったねと」

 海部が口の両端をあげた。

 それは確かに笑顔で、笑顔をした怒りの顔だ。

「良かった? 早く終わって良かった? 私の母親が泣き叫んで、のたうって、全てを憎んで絶望して! それでも心の底から生きたいと必死に願って! 必死に苦しい治療に耐えたというのに!」

 荒い鼻息の海部は、何度も息を繰り返してようやく落ち着いた。

「だから私はね、その方に思い知らせるため行動しました。結果その方は家族の絶望を間近で見て、介護と世話に奔走。みるみる憔悴していきましたよ。その時ですね、私は幸せを感じたのですよ。心がわくわくして達成感もありましたよ」

 海部は再び口の両端をあげた。

 今度は嘲笑のそれである。

「そうして、いろんな方に不幸を味わって頂いておりましたが……新藤に見つかりまして、これで一巻の終わりかと思いきや。あの方は実に甘くて優しくて、私を制止して改心するよう諭されて。それでキセノン社で働くことになりましてね」

 あの新藤社長なら、確かにそうするだろう。

「それで私もキセノンでは大人しく働いておりましたが……ところが世の中が滅茶苦茶になりそうな計画を知りまして、これは運命だと思ったのでございます」

「まさかそれが……」

「ええ、五条様がお使いになっているデーモンルーラーですよ。さらに新藤の計画していたDPの転送もですね。そして今はご覧の通りです。おかげで最っ高に幸せな達成感を得られたので御座います」

 海部は空を仰ぎ高らかに笑い声をあげた。

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