第353話 誰もが良い所と悪い所を持っている
「もうやめて、やめてくれよ」
床に這いつくばりながら、負の感情の塊とも言える自分がすすり泣いている。
その姿は最初に見た時よりも薄らいで儚げでさえあった。このまま攻撃していけば完全に消え去って、負の感情を持つ自分に打ち勝ったことでDPの暴走を制御できて、力を使いこなせるようになるのだろう。
だが亘は躊躇していた。
強い苛立ちと嫌悪ばかりを感じている。だが亘の心の中に、この自分を認めてやりたいという気持ちが動いていた。やはり自分は自分なのだ。嫌いになりきれない感情がある。そして弱って泣いている相手を倒してまで力を得るのは、何かが大きく違う。
大きく息を吸って吐き出して、亘は立ち尽くしていた。
それを何度も繰り返していくと、ふと母親の言葉が思い出される。
――あんたは、あたしなんかよりも。よっぽど立派な人間になったわ。
その言葉を契機に、亘は手にしていたペットボトルを放りだすと、倒れている青い自分の傍らに膝を突く。嫌いだからと排除することは、それこそ一番嫌な行為ではないか。
「本当に情けないよな。狡くて意固地で、しかも自分の事しか考えていない。プライドばっかり高くて、そのくせに勉強もしないで知識もない。その場しのぎばっかりで、物事を改善しようとはしないし。何かあると逃げて誤魔化して卑怯な人間だ」
手を掴んで引き起こして両肩に手を置き、真正面から向き合った。
「でも、それが自分なんだよな。否定して目を逸らしたくても、自分が自分であることからは逃げられない。それにさ……ずっと頑張ってきたよな。辛い時も、哀しい時も、苦しい時も。ずっと我慢して耐えて生きてきた。それって偉いよな、凄いよな。そうだよ、母さんが言ってくれた通りだ。立派な人間じゃないか」
誰もが良い所と悪い所を持っている。良い所ばかりの人間などいやしない。それなのに、自分の悪い所から目を背けてどうするのだろうか。
憎しみがあったから歯を食いしばれた。
怒りがあったから辛い事に耐えれた。
恨みがあったから立ち上がれた。
嫉みがあったから前に進めた。
負とされる感情は、いつだって悪とされるが、そうではないのだろう。使い方を間違えなければ、力を与えてくれて助けてくれる。たとえ暴走することがあっても、人生において必要なものなのだ。
それを否定することこそ間違っている。
「我は汝、汝は我。心の中に存在する押し込められた感情よ、その気持ち自分の中に認めよう。そして、また共にやっていこう」
そう言った亘の姿を、青い色をした亘は上目遣いで見つめている。伸ばされた手をとったところで、目の前が青に染められ意識が遠のいていった。
◆◆◆
「あ……」
亘は我に返った。
そこは壁のようなビルの間で、道路からの熱気があって、風を感じた。コンクリートも街路樹も、差し込む日射しを浴びているため鮮烈で、金属の看板、辺りに散らばるガラス片などは反射光に輝いている。
しかし、辺りは見るからに酷い状態となっていた。
直ぐ近くのビルは一階部分が抉れたように破壊されている。向こうでは自販機が横倒しになって、乗ってきた車も引っ繰り返っていた。
亘の目には、崩れたビルを見つめていた。つい先程までは、そんな事もなかったのだが、今はどうしたわけか、壊れたという言葉が相応しく、くの字になって鉄筋が剥き出しになって瓦礫を散乱させていた。
驚いて辺りを見回したとき、直ぐ隣にアマクニ様の姿を見つけた。
「これはいったい」
「君はなかなか暴れん坊だね」
「……もしかして、もしかしてですけど。これをやったのは自分です?」
「まあ、私が応酬した部分も多少はあるけどね。多少だよ」
「なるほど。大半はアマクニ様が原因ですか」
「多少と言ったじゃないか」
アマクニ様は、軽く頬を膨らませた。齢千年を超えると思っていたが、その様子は子供のように見える。しかし、身に付けた白シャツは黒く汚れ、紺のスカートは白く汚れ、胸元の赤いリボンは千切れかけていた。
どうやら青い空間に行って青い自分と戦っている間に、亘自身はここで暴れていたらしい。そして、その相手をしてくれていたのがアマクニ様ということだ。
気付いた亘は、七海とエルムとイツキを心配したが、そちらは無事だ。少し離れた場所で、目をぱちくりさせて座り込んでいる。雨竜くんはイツキに張り付いていたが、その顔は完全に虚脱しきっていた。
「しかし君も凄いね。あの状態でも、自分の仲間だけは認識していたのだから」
「はぁ、そうですか……」
「何にせよ、どうやら上手く行ったようだ。あのまま意識が戻らない可能性もあったのだからね。君なら大丈夫とは思っていたよ。重畳重畳、ふふふふっ」
さらっと不穏なことを、アマクニ様は口にした。今の試練を用意してくれたのだろうが、上手く行く確証はなかったということだ。そこに文句を言いたい気分を堪え、亘は軽く息を吐いて肩を竦めた。
「お陰さまで、よく分かりましたよ。つまり強くなるには、自分に打ち勝つのではなく、その弱い自分を認めて受け入れる事が大切なんですね」
まさしく人生の教訓のようで――しかし、アマクニ様は小首を傾げた。
「ん? 別にそんな事はないよ。君は何を言っているのかな、倒そうが受け入れようが、それで何か変わるわけではないよ」
「えっ……どういうことです?」
「考えてもみなさい。それは全て君が元から持っている心なのだよ。切り離せないものなのだから、それを克己しようと、受容しようと、拒否しようと。気分以外は何も変わらないじゃないか」
「そんな……」
自分の決意と苦労を全否定され、亘は膝から崩れ落ちた。そんな様子も楽しそうに見ているアマクニ様は、丁度良い高さに来た亘の頭をちょいちょいと撫でた。しかも気に入ったらしく何度もだ。
「落ち込むことはない、大切なことは自分自身から目を背けないことだよ」
「はぁ」
「これで君は、自分の中に存在する感情をしっかり認識できたじゃないか。全ては君が外に目を向けられるようになったからこそだよ。本当に母親というものは偉大だ。最後の一押しを、いとも容易くやってのける。それも無意識にだ」
「はぁ、うちの母親が何かしました?」
「何でも無いよ、気にしなくていい」
微笑むアマクニ様は、ついには両手を亘の頭に置いている。
「さあ、もう一度力を使ってごらん」
頷いて亘は身体の中に意識を集中した。
強く激しく脈動するDPの存在を感じ、それを全身へと巡らせる。今までよりも容易で、突き上げるように力が込み上げる。破壊を望む衝動も強く猛々しくはあるが、そこに冷静さもあって呑まれる感じはない。
その猛々しい気持ちも、自分のものだと感じている。
「ちょっと試してみますか」
足元にあった手頃なコンクリート塊を掴み、ぶん投げる。恐ろしい早さで一直線に飛んで、遠くのビルの外壁に激突。粉塵の煙が勢いよく上がり、轟音がビルの谷間にこだまする。やや力を入れたが、今までの全力に匹敵するぐらいだ。
「おや? 試すなら、私が付き合うよ」
「これ以上の迷惑はかけられませんし、それにアマクニ様とは戦いたくないですよ。やっぱり辛いですから。それより、これだけの力だと逆にDPの消費が心配――ん?」
言って亘は気づいた。
日射しは傾いて時間はかなり経過している。つまり意識のないまま暴れていた時間は、かなり長かったということだ。そしてその間、DPは消費されていたことになる。
「まさか……」
恐る恐るスマホを取り出し操作し、DPの残量を確認すれば、かなり減っていた。全体の量から考えると、それほどでもないかもしれない。しかし、数字としては明らかに減っている。
青ざめた亘の身体が震え、DP暴走による力も抜けて膝を突いてしまった。
「おや、どうしたのかな」
「ちょっと目眩が」
「それは大変だ。大丈夫かね」
「大丈夫です、仕方ないです。まずは帰るとしましょうか」
だが乗ってきた車は引っ繰り返って、しかも何かオイルも漏れている状態だ。これが動くとは到底思えなかった。車両管理の担当者に何を言われるか、言われなくても非難の眼差しを向けられることを考えると、今から気が重い。
エンジン音が響いた。
振り向けば新しい車がやって来た。運転席にはヒヨの姿があって、元気に手を振っている。どうやら仕事を片付けてから、慌てて駆け付けてくれたらしい。丁度良いタイミングだった。
そちらに軽く手を挙げ応えると、亘は七海たちに声を掛けた。
「では、帰ろうか」
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