第2話 主を思うがゆえに 紫水の迷い

「はぁ」


 紫水しすいは人間界に来てからもう何百回目になろうかというため息をついた。

 響詩郎きょうしろうらが住むバスハウスから数ブロック先にある雑居ビルの一室。

 コンクリート打ちっぱなしの殺風景な部屋に簡易的なベッドが置かれているだけのその場所は、バスハウスを見張るのに最適な場所であった。


「姫さま直々のご命令とあらば名誉あることだというのに、このどうしようもなく空虚な心持ちはどうしたものか……」


 白雪の命令によって響詩郎きょうしろうの監視を続けていた紫水しすいは、いつもの定位置である窓際に立ち、眼下にバスハウスを見下ろしていた。

 ふいに紫水しすいは顔を上げ、遠くに目をやると、ナイトスポットの多く集まる湾岸地域のきらびやかな明かりが視界に飛び込んできた。

 だが彼女の目はそうした夜景を通り抜け、その遥か彼方である東京湾のさらに向こう、房総半島の丘陵地帯までをも見通していた。


「我が家系に伝わる千里眼は本来、遥かな的を射るための一族の目となる誉れ高き力のはず。それがこのような……くっ。私は祖先に顔向けできん」


 そう言う紫水しすいの視線は再び、隣の敷地に停車しているバスハウスに落とされた。

 弓矢を主な武器として使用する彼女の一族において、超遠視能力を持つ紫水しすいの家系は遠距離狙撃の標準軌ひょうじゅんきの役割を果たしてきた。

 白雪の直属になったときはその能力を活かして一族の役に立てると思い、喜び勇んだ紫水しすいだったが、今こうなってみるとその時の自分をあざ笑ってやりたい気分だった。

 やがて紫水しすいはバスハウスに視線を置いたまま、昨夜の出来事を思い返していた。


「【死の刻限】か……このまま神凪かんなぎ響詩郎きょうしろうが亡き者になれば姫さまもあきらめがつくだろう」


 響詩郎きょうしろうの身に起きたこととその原因となった事件について、バスハウスに仕掛けた盗聴器によって紫水しすい委細いさいを把握していた。

 だが自分に課せられた任務はあくまでも監視と報告であるため、監視中の響詩郎きょうしろうが敵に襲われて窮地に陥った際も、紫水しすいは何もせずに見ているだけだった。

 彼らを襲った妖魔の正体にもさして興味はなかった。


 主である白雪にはつい先刻、報告を済ませた。

 響詩郎きょうしろうの身に起きたことも包み隠さず全てである。

 報告すれば白雪は何もかも振り切って響詩郎きょうしろうを助けに人間界に駆けつけるだろうということを全て分かった上でのことだった。


 まだ姫の御側付おそばづきになって日は浅いが、紫水しすいは主のそんな性格を熟知していた。

 白雪の相手として響詩郎きょうしろうはふさわしくないと考える紫水しすいにとって、彼にはこのまま死んでもらうほうがありがたかった。

 そのためには白雪が彼を助けるために駆けつけることは好ましくなく、そうした観点から見れば響詩郎きょうしろうの窮状を彼女に伝えるべきではなかったのかもしれない。


 だが、そのようなやり方はフェアではないと紫水しすいは思った。

 そんなことをすれば彼女は今後、白雪の顔をまともに見ることが出来なくなるだろう。

 虚偽で主をだました口では白雪に話しかけることも出来ない。

 紫水しすいはそう考えて全てを白雪に報告した。

 案の定、血相を変えた白雪は今、慌てて身支度みじたくを済ませているところである。


「それほどまでにあの人間の小僧がいいのだろうか」


 生まれてから今の今まで一度として男性に好意を持ったことのない紫水しすいには、白雪がそこまで響詩郎きょうしろうに入れ込む気持ちは理解できなかった。

 だが、姫の側に仕える者として白雪の想いを理解してあげたい気持ちが紫水しすいの胸には芽生え始めていた。

 だからこそ紫水しすいは今、迷いの渦中にあった。


「私は一体どうすれば……」


 前に白雪が言ったように、監視をするならばその相手の人となりまでを見透かせるようになってこそ一人前である。

 響詩郎きょうしろうという人間が一族の姫の相手として足る人物であるかどうか。

 出来ることならばもっとじっくりと時間をかけて見定めたかったが、響詩郎きょうしろうの死が刻々と迫る今、紫水しすいにも決断の時が迫っていた。

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