蘇る本能 #18

「貴方は、ルールというものが邪魔だと思った事はありませんか?」

「何?」

「私も実は昔、プロボクサーの端くれだったんですがね、続ける内に窮屈きゅうくつに感じて来たんですよ、両手で殴る事しかできない、ボクシングのルールがね」

 それなら他の格闘技に転向すれば、と言いかけて叶は止めた。叶がボクシングを選んだ当時とは違い、薩摩の若い頃にはプロの格闘技といえばボクシングくらいしか無かった筈だ。

 茶で口を湿して、再び薩摩が喋り始めた。

「その内に、ボクシングの方は問題を起こして辞めてしまいましたが、ルールに対する思いは持ち続けていました。人間の本当の強さは、ルールに縛られていては計れないんじゃないかってね」

「何が言いたいんだ?」

 出口の見えないひとり語りに苛立った叶が、語気を強めて訊くと、薩摩は穏やかな表情で叶に訊き返した。

「貴方はやってみたくありませんか? ルールのほとんど無い状態で、己の根本的な強さを試せる、そんな素晴らしい試合を」

 叶の頭に、最近目にしたばかりの文字が閃いた。

「蘇るパンクラチオン?」

 叶が口走ったその言葉に、薩摩が反応した。

「ほぅ……何処でそれを?」

 叶は答えるべきか迷ったが、既に坂巻の自宅を訪れた事は知られているので隠しても無駄だと思い、正直に答えた。

「坂巻功太郎さんのパソコンにサンプル動画が残っててね、見せてもらったよ」

「そうですか、坂巻さんが……」

 薩摩は不愉快そうな顔で言うと、残りの茶を飲み干した。

「あの動画で、佐伯仁がペドロ・アンドラーデに絞め落とされてた。いや、佐伯のあの顔は明らかに――」

「それはともかく」

 叶の言葉を遮り、薩摩は鋭い眼差しを叶に向けて尋ねた。

「叶さん、貴方も出ませんか? 『蘇るパンクラチオン』に」

「何ぃ?」

 困惑する叶をよそに、薩摩は杖を右腕に嵌め、それを頼りに立ち上がって窓へ近づきながら話し始めた。

「貴方が何故ボクシングを辞めて探偵に身をやつしているのか、私は訊くつもりはありません。ただ私は、貴方が闘う姿をもう一度観たい。それに、恐らく貴方の心の中に、闘う事への未練が少なからず残っている筈です。そのくすぶっている思いを遂げて頂きたい」

 闘いへの未練という言葉に、叶は明確な反駁はんばくができずにいた。視線を彷徨さまよわせ、手をつけるつもりのなかった湯呑みに手を伸ばす。薩摩は肩越しに叶を観察していたが、再びソファに戻って上体を屈め、叶の顔を覗き込んで言った。

「これは、貴方のいちファンである私の単なるわがままです。貴方が嫌だと言うなら、無理強いはしません」

 叶の中で、探偵の矜持きょうじと格闘技者の本能がせめぎ合った。渋い表情で暫く考え込むが、やがてひとつの答を見出したのか、目に強い光を取り戻して顔を上げた。

「いいだろう。だが条件がある」

「何です?」

 叶は数秒の溜めを作ってから言った。

「対戦相手を坂巻功太郎さんにしてくれ」

「坂巻さんと?」

 叶の提示した条件に、薩摩は少し表情を変えた。

「あぁ、坂巻さんの失踪にはアンタが一枚噛んでるんだろ? だったらオレと対戦させる事くらい容易たやすい筈だ」

 咄嗟の思いつきだったが、坂巻を引っ張り出す方法が、他に考えられなかった。

 今度は薩摩が考え込む番になった。

 社長室を、暫く静寂が支配した。叶は微動だにせず、沈思黙考する薩摩を凝視した。

 数分後、薩摩が叶を真っ直ぐ見返して言った。


《続く》

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