第9話 ハンバーグとチーズフォンデュ
バックヤードへ戻った暦を見て、松山が立ち上がった。そして、今まで己の座っていた席を暦に勧めてくる。
「話は天津君から聞いたね? どうやら、この子の相手をするのは僕でも天津君でも二川さんでもなく、本木君が適任であるように思えるんだ。僕達もちゃんとサポートするから、悪いけど、頼むよ」
「そんな事言って……本当は、面倒で相手をしたくないだけなんじゃないですか?」
呆れた口調で暦が問えば、松山は「そんな事は無いよ」と笑う。
「寧ろ、積極的に相手をしたいくらいだよ? 一方的に話しに話して、叩き潰して性根を入れ替えてやりたいぐらいだよ? 何かもう、話を聞けば聞くほどムカついてきちゃってさぁ」
「本木さん、私も店長と同意見です。天津君も同様だと思います。何かもう、とにかく徹底的に追い詰めたくなると言いますか……」
「いつも以上にやり過ぎて問題を起こしそうだという事はよくわかりました」
悲鳴をあげるように言いながら、暦は松山に勧められた席に座った。彼らがやり過ぎてしまうのを防ぐためには、事なかれ主義の暦が中心となって話を聞くより他は無い。何故か松山達は、自分がその場の中心にいない時は他人に対してガンガン突っ込んでくるような真似をしないのだ。当人達も、それを自覚しているのだろう。
「本当に、何が起きるかわかりません。今日もまた、いつもの結界を張ってあります」
つまり、事がある程度落ち着くまでは警察が来る事は無い。栗栖の監視を離れたところで悪霊が発生、暴走したりしないための処置であるのだという。
暦は栗栖に頷き返すと、正面に座って黙り込んでいる万引き犯の少女に目を向けた。名前は、たしか……。
「えっと、西園愛恋さん……だったよね?」
「そうだけど?」
取りつく島も無い返答に、早速暦はたじろいだ。だが、ここで逃げるわけにはいかない。逃げたら、二川も加わったいつもよりも強烈なトラウマ植え付け劇場が展開されかねない。
「えっと……同じ事を訊いて悪いんだけど、何で万引きなんてしたのかな?」
「だって、この本高いし!」
……うん、まぁたしかに高いね。男同士の恋愛の話って、最近は敷居が低くなってきたのか読む人も増えてきたけど、それでもやっぱり一般的なコミックや小説と比べると需要は少ないから。刷り部数は多くないよね。刷り部数が多くなければ一冊の単価も高いよね。高いから買う決意ができないというのはわからないでもない。けど、だからって万引きするな。
口から出そうになった言葉を全て呑み込んで、暦は呼吸を整えた。机の上に積まれた、万引きにあった本をちらりと見てから、複雑な表情で西園を見る。
「そもそもね、西園さん。この本……年齢制限がある本だって、表紙見ればわかるよね? この本に限らず、十八歳の年齢制限マークがある本は、十八歳未満は閲覧も所持もしちゃいけない本なんだよ?」
「私、十八歳だから問題無いし」
制服着ていて十八歳という事は、高校三年生か。受験生じゃないか。口をもごもごとさせてから、暦は「あのね」と言葉を絞り出す。
「たしかに、年齢だけで言えば問題無いんだけど、学校によってはそういうのを禁止しているところもあるでしょ? 高校生がエロ本を所持しているだけで不良に絡まれる事だってあるんだし……」
「本木君、遂に言葉を選ばずにエロ本って言いだしたねぇ」
「いい子ぶって一々言葉探してたら面倒ですしね」
「店長、二川さん。ちょっと茶々入れないでいてもらえますか?」
自分がその場の中心にいない時は万引き犯を煽らない。ただし暦を茶化すのが松山クオリティであるらしい。暦はゴホンと咳払いをして、脱線した話を元に戻した。
「まぁ、とにかくそんなわけで……この音妙堂では、十八歳になっていようとなってなかろうと、高校生には年齢制限のある本は売らない事にしてるんだよ。制服着てたら、問答無用で買えないの。……と言うか、余計な事訊くんだけど、高校三年生って事は受験生でしょ? 万引きしてまで漫画読んでたりしてて良いの?」
「だって、しょうがないじゃん。彼氏が読みたいって言ったんだから!」
「……は?」
左目の下辺りの筋肉が引き攣ったような感覚を、暦は覚えた。何を言っているんだ、この子は。この子が万引きしたのは男同士の恋愛を描いた、所謂衆道とかボーイズラブとか呼ばれるジャンルの本で、購買層はこの店に限って言えばほぼ百パーセントと言って良いほど女性ばかりだ。でもって、彼氏と呼ばれる物は一般的に男性であるように思われる。
暦の表情に、西園がムッと顔を顰めた。
「どんな物か読んでみたいんだって。彼氏、勉強家だから。気になる事があったら、見てみずにはいられなくなるって」
「……それで、本をプレゼントしようと思った?」
西園は、静かに頷いた。気のせいだろうか、表情がどこか、暗い。
「こういう本って、男子じゃ買い辛いだろうから。けど、私が買うにしても、やっぱ高いし。それに、さっき年齢制限があるから売れないっつったじゃん」
どの道、西園はこの本を買う事ができない。お金があっても、レジで断られただろう。
「けど、だからって万引きまでするって言うのは……」
暦が言葉を探しながらも言うと、西園は「フン」と鼻を鳴らした。
「だって、しょうがないじゃん。彼氏に喜んでもらいたかったんだからさ。あんた、恋人いなさそうだし、相手に喜んでもらいたいって気持ちはわからないんだろうけど!」
「ほっとけ」
思わず口にしてから、暦は深くため息を吐いた。これは、たしかに松山や二川が叩き潰したくなるタイプだ。ふてぶてしい上に、全てのルールは自分の都合で捻じ曲げても良いと自然に考えてしまっている……ように思える。
しかし、ここでふと、暦は違和感に気付いた。西園が〝彼氏〟という言葉を口にする度に、どこかぎこちなさが透けて見えるような気がする。
「あの、さ……西園さん? 間違ってたら申し訳ないんだけど……」
暦は、恐る恐る口を開いた。西園も、松山も栗栖も二川も、暦の言動に首を傾げている。これを言ったらバックヤードが大荒れに荒れるかもしれないと思いつつ、暦は思い切って言葉を口にした。
「ひょっとして、その彼氏と上手くいってない……?」
空気が、凍り付いた。ああ、俺でも店長みたいに空気を冷やす事ができるんだなぁ、などと考えながら、暦は西園の反応を待つ。西園が、カタカタと小刻みに震えだした。
「な、んで……?」
当たりだ。直感で、暦はそう思う。視線を、栗栖に向けた。栗栖は頷き、上着の内ポケットに手を突っ込んでいる。いつ、何が起こっても、これならすぐに対処できるだろう。暦は頷き返し、視線を西園に戻した。
「何かさ……西園さんが〝彼氏〟って言葉を出す時、いつもその単語を強調しているように聞こえるんだよね。まるで、自分がその〝彼氏〟の彼女だって事を自分で認識しようとしているみたいにさ。……それでひょっとして、彼と上手くいってなくて、機嫌を取りたくて万引きなんてしてまで本を手に入れようとしたのかな、って……」
「そ、そんなわけ……ないじゃん。私と彼氏、ラブラブだし。上手くいってないとか、そんな事あるわけ……」
動揺している。目は泳いでいるし、呼吸が速くなったように見える。それに、相変わらず〝彼氏〟という単語を強調している。
暦はちら、と周辺を見た。松山と二川が顔を見合わせている。栗栖の顔が険しくなっている。やはり、出るのか。出てしまうような不安定さを、この西園という少女は抱えているのか。何なんだ、この店にそぐわぬ、この重苦しい空気は。
栗栖が松山と二川に、視線で下がるように促した。それを受けて二人は暦と西園から離れ、書類など大切な物の避難を始める。栗栖が、数珠を取り出す。暦は、覚悟を決めた。
「〝彼氏〟と上手くいっていないわけがない。……本当にそうなら、何でそんなに動揺しているのかな?」
ヒクッ、と、西園の咽が鳴った。「だって……」と小さく震える声がこぼれ出る。
「しょうがないじゃん……〝彼氏〟、モテるんだから。〝彼氏〟を狙ってる子、たくさんいるんだから。だから、欲しい物があるなら、あげないと。やって欲しい事があるなら、やってあげないと。〝彼氏〟が、私がいて助かる、私がいて良かった、って思ってくれるようにしないと。じゃないと……もっと可愛い子が〝彼氏〟の前に現れたりしたら、私……!」
「……捨てられるかもしれない?」
「……っ!」
西園の目が大きく見開かれ、引き攣った声が口から漏れる。これ以上言えばとどめを刺してしまう事になるが、言わないわけにはいかないだろう。
松山や二川のように、ただ正論をぶつけて、完膚なきまでに叩き潰すようなとどめの刺し方ではいけない。下手に希望を抱かせるような言葉でもいけない。己の現状を理解させ、尚且つ立ち直る余地を与えるような言葉を選ばなくては。
……難しいな、と暦は渋面を作った。だが、あまり長く考えている暇は無い。
「認めたくないかもしれないけど……多分、その〝彼氏〟は、西園さんが万引きしてまで本を手に入れてきても、そんなに喜ばないと思うよ」
西園がぐりんと首を上に向けて暦を見る。ホラー映画のようで、怖い。逃げないように踏ん張りながら、暦は言葉を続けた。
「何となく、思うんだけどね。人間って、本当に追い詰められている時に誰かが身を削って助けてくれれば、ありがたく感じるんだけど……そうじゃない時に身を削られても、重いとか、当たり前だとしか思わないものだと思うよ」
考えてみて、と言いながら、暦は横のブックカートを指差した。そこには品出し前の絵本が積まれている。そこから一冊を手に取り、表紙を見せた。
暦の年代なら……いや、暦の親の年代ぐらいまでなら誰でも知っている、国民的ヒーローの絵本だ。たしか絵本になる前の原作は中々グロテスクで、お腹を空かせて死にそうになっている人に、ヒーローが自分の肉を切り取って食べさせるシーンがあったように思う。人気になった絵本とのあまりのギャップが話題となり、この原作もまた、中学生以上の年齢なら知らない者が無いほどになっている。
そんな風に初期が凄まじい内容だと知った後でも、見れば懐かしい気持ちになる。彼に夢中になっていたあの頃は、善と悪がはっきりと分かれていた。何かをしてもらったらありがとう、悪い事をしたらごめんなさい。それで済む世界に住んでいた。あの頃は、それがこんなに難しい事だなんて思わなかった。
「ちょっと小腹が空いたな、ぐらいの時にさ。目の前で自分の肉を切り取ってお食べ、って言われても……ありがたいとは思わないんじゃないかな……?」
大人の世界では、あのヒーローもあそこまでは輝けない。そう考えてしまうから、やっぱり突き詰めると絵本は子どもの物なんだな、と思え、寂しくなる。
言いたかった事が伝わったのだろうか。西園の震えが、激しくなった。
「そ、んな……そんな事、無いし。あるわけないし。〝彼氏〟、きっと喜んでくれるから。私がこんな……嫌な事言われてでも手に入れようとした事知ったら、喜んで、私が一番だって……言って……」
「……言わないと思うよ」
だって、その〝彼氏〟は、どうしてもその本が読みたかったわけじゃない。その本を手に入れないと人生が終わってしまう程追い詰められているわけでもない。万引きしてまで手に入れたと言われたところで……引きこそすれ、大いに喜ぶなんて事は有り得ない。
少なくとも、暦なら喜ばない。そして……喜ぶ〝彼氏〟がいたとすれば、それは間違いなく長く付き合ってはいけない人種だ。
口に出さず、その想いを込めた目で暦は西園を見た。目と目が合う。
ぶつり、と音がした。西園の体が、今までに無いほどガクガクと激しく震え始める。ガクン、と背中がのけ反った。
「いやぁぁぁぁぁぁぁっ!」
叫び声が迸る。窓がガタガタと震え始めた。
「天津君!」
「はい! 本木さん、下がってください!」
暦が勢い良く立ちあがり、パイプ椅子が派手な音を立てて倒れる。彼が飛び下がると同時に栗栖が数珠を巻きつけた左手を掲げ、叫んだ。
「臨める兵、闘う者、皆陣列ねて前に在り!」
朗々と唱えた途端に、あちらこちらからバチンバチンと何かが弾ける音がする。流石に一ヶ月も経っていると、呪文を聞く度に「それっぽい」だの「漫画とかで聞いた事がある」だのと言ってはしゃぐ事も無い。
弾ける音のした箇所で、黒い煤のような物が滲むように現れる。
「出ました! 邪悪なるモノです!」
いい加減、もうちょっとマシな呼び名を付けられないものだろうか。
ぼつぼつと滲み出てきた邪悪なるモノ達は寄り集まり、次第に一つの巨大な集合体となっていく。油粘土を組み合わせるように容易く、それらは混ざり合い、手を作り、足を生やした。
「な……ちょっと……これ、どういう……? 今まで、こんな……」
「これはどういう事なのか。今まで、邪悪なるモノ達がこんな姿になったところなんて見た事が無い。……そうですね?」
目を前から逸らす事無く、栗栖はまったく言葉になっていなかった暦の疑問を正確に口にした。じゃらりと数珠を勢いよく扱きながら、深く呼吸する。
「先ほど言った通り、彼女は心の中にとてつもない闇の元を飼っているようです。……いえ、いた、ようです」
過去形だ。それは、つまり。
「彼女が心の中に飼っていた闇の元……本木さんが推測した、恋人に大切に想われたい、なのにいつ捨てられるかわからない不安……それらが核になったんです。ただでさえ鬼と化しやすいそんな感情を持っていた彼女が、霊的スポットと化したこの音妙堂のバックヤードに足を踏み入れた。しかも、今まで漠然としていたであろう不安が、本木さんが言葉にする事ではっきりとした形を持った。これで邪悪なるモノ達が強大化しないわけがありません!」
「あ、つまりこれの原因は、彼女の心境を推理して当てちゃって、不安をはっきりとさせた本木君って事?」
「何やってるんですか、本木さん」
「しれっと俺をディスらないでくださいよ! そもそも、店長達が俺に丸投げしたんじゃないですか!」
「本木君。ディスるとか、無理に最近のネット用語使わなくても良いよ? 若者ぶる必要なんて、どこにも無いんだからさ……」
「現役入学、留年無しの大学生は世間一般的に見て若いですよ!」
「本木さん、そこは「目的を持って大学で学んでいる人間は、いくつになっても若いものですよ、心が」って返すところじゃないんですか?」
「え、何この流れ。二川さんにまでツッコミ入れられるとか、これって俺が悪いの? ……って言うか、今そんな事言ってる場合じゃないでしょう!」
我に返った暦が叫ぶのとほぼ同時に、暦の脇で何かが弾ける音がした。本当に呑気な事を言っている場合ではなかったようだ。
「本木さん、一応言っておきます! 今このバックヤードから出たら結界が解けて、警察の方々がこの状況を目撃する可能性があります! それだけじゃない……この邪悪なるモノがバックヤードから出て、一般のお客様方にも影響を与えるかも……」
「……つまり……?」
「この邪悪なるモノを調伏し終わるまでは、このバックヤードから出る事ができませんし、出せません! もよおしたらその場でお願いします!」
「そうなる前に調伏して、頼むから!」
先ほどまで暦をからかって余裕の表情を見せていた二川も顔を引き攣らせている。相変わらず松山だけはのほほんとして、余裕綽々と言った顔をしている。
「そんなに悲愴な顔しなくても、大丈夫でしょ。この一ヶ月、天津君がどれだけの邪悪なるモノを調伏してきたと思ってるのさ。たしかに今日のはちょっと大きいけど、ちゃちゃっと軽く片付けてくれるって」
松山の言葉からわかるのは、現在の安全ではない。普通の書店であるはずのこの店のバックヤードに、たった一ヶ月で少なくない悪霊が発生したという異常さだ。
「松山店長! お言葉ですが、今回の邪悪なるモノは一筋縄ではいかなさそうです!」
短く何事かを唱えて邪悪なるモノを少しだけ破壊してから、栗栖が厳しい声音で言う。「どういう事?」と問われれば、顔を険しくしたまま呪符を投げる。バシッという音がして、邪悪なるモノの右腕となっていた部分が弾けた。だが、その場ですぐに再生してしまう。
「今までの奴らは全て、万引き犯達の不満だとか……そういう小さく詰まらない負の感情によって寄り集まっていました。パン粉を繋ぎにして、ひき肉を固めたような物です。しかも、よく練っていないからすぐにボロボロに崩れ落ちてしまい、ハンバーグにならないような奴です!」
ハンバーグという言葉に、妙に力が入っている。食べたいのだろうか。
「ですが、今目の前にいるこれは……西園さんのはっきりとした不安、それも、人との信頼関係への不安という大きな負の感情を核にして、雑霊達がべったりとくっついている……いわば、濃厚なチーズフォンデュです!」
どうやら、お腹が空いているようだ。微かに、ぐるぐるごー、という音が聞こえてくる。雰囲気の全てを台無しにする腹の虫の音を聞きながら、暦は唸った。
「……という事は、もしかしなくても……。核、って言うか、西園さんの不安を何とかしないと、いつまで経っても調伏できない……?」
栗栖が、頷いた。
「霊的スポットと化している、音妙堂のバックヤード。そして雑霊、悪霊はそこかしこに掃いて捨てるほどいます。普段なんとも無いのは、雑霊達を繋ぐ負の感情があまり無いから……」
何だかんだで、この店のスタッフはパートもバイトも仲が良い。店長の松山があのような性格だからか、困った客がいれば怒りを溜めこまずに即座に意趣返しをするという店風だ。……先ほど、普通の書店であるはずだと考えたが、その点は訂正した方が良いだろう。
とにもかくにも、そんなわけで。この店のスタッフ達は、バックヤードに負の感情を持ち込まないで済んでいる。万引き犯に怒り狂う事も以前はあったが、この一ヶ月は栗栖の活躍と松山の煽りで犯人達が可哀想な目に遭っている事を知っているため、犯人への怒りはバックヤードまで持ち越すほどでもなくなっている。
だから、邪悪なるモノは万引き犯がバックヤードに引っ立てられてきた時にしか現れない。この場所に負の感情を持ち込んでくるような人間は、万引き犯だけだからだ。
そして今までは、雑霊達を合体させて邪悪なるモノにしてしまう繋ぎとなる負の感情も小さな物ばかりだった。だからこそ、栗栖がちょっと術を使っただけで繋ぎが薄れて、あっさりと調伏できていたのだ。
だが、今回の邪悪なるモノは、西園の大きな負の感情が核となっている。これが、雑霊達をしっかりと繋ぎとめて、離さない。核が壊れない限りは、ちょっと術を使ったぐらいでは調伏できない。精々、一部が崩れるだけだ。その崩れた部分も、辺りに雑霊達の控えが掃いて捨てるほどいるため、すぐに再生されてしまう。
「……とは言え、人間の負の感情などという物は、術だけで簡単に取り除けるような物ではありません。それができるなら、この国の自殺者が年間三万人を超えたりなんてするはずがない」
万引き犯への対応をしていただけのはずなのに、何故こんなにも重い話になっているのだろうか。頭上で響く破裂音にビクリと体を震わせながら、暦は前方を睨んだ。
栗栖が呪符を投げ、色々と唱え、数珠を巻きつけた手を振って印を切っている。チッという舌打ちが聞こえた。彼のこんな様子を見るのは、出会ってから一ヶ月で初めてではないだろうか。
「キリが無い……!」
漫画やライトノベルでよく見る台詞だ。……が、現状とマッチし過ぎていて、自然に出てきた焦りの言葉なのか、まだまだ余裕があるが故のふざけたなりきりなのかが判断しきれない。そして、そんな事をこの状況で考えている自分が一番ふざけているな、と暦は苦笑した。
苦笑した事でフッと肩の力が抜け、頭がすぅっと冷静になる。冷静になった目で、周りを見た。
栗栖は、先ほどからずっと邪悪なるモノ巨大化バージョンを何とか調伏しようと奮闘している。呪符を投げ、真言やら祝詞やらを唱え、数珠を振り回し、印を切っている。
二川は、破損したらまずい物を持って、狭いバックヤード内を逃げ回っていた。表情こそいつもとほとんど変わらず落ち着いているが、慌ただしい動きを見れば内心焦りや恐怖を覚えているのがわかる。
松山は、いつも通りにへらへらと笑いながら静観している。時々危ない目に遭いそうになっても、のらりくらりと適当に躱せてしまっている。何故だ。
そして、今のこの状況の原因であり、栗栖が調伏しようとしている存在。邪悪なるモノ強大化バージョン。そしてその背後に、邪悪なるモノに庇われるようにして蹲っている西園。
いつの間に取り出していたのだろうか。西園は、手にスマートフォンをしっかりと握っている。小さくて何が写っているのかまではわからないが、背面にはプリクラと思わしきシールが貼られている。
口元に手を当てて、考えた。何か、思考に引っ掛かる物がある。それが何かはわからないが、あのプリクラが妙に気になる。
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