第28話 獏の小箱
部屋の中にねっとりとした嫌な空気が充満していると芒雁は感じた。空気が薄くなっているのだろうか、妙に息苦しい。芒雁の頬を一筋の汗が流れる。
「お、俺の夢だと? な、何を根拠に……」
対照的に師桐には余裕が見られた。
「たしかに私は、夢の中でお前や三桜弥生に対して姿を隠してきた。だがそれができない相手がこの夢の世界には一人だけいる。それはその夢を見ている本人ーーマスターだ。単なる闖入者に過ぎない私はマスターより強い権限を持たない。ゆえにマスターに対して姿を隠すことができない」
芒雁はようやく弥生が電話で言っていたことを理解することができた。廃墟の夢では弥生が、そしてお菓子の夢でさつきが、それぞれ師桐の姿を見ることができたのは、彼女らがそれぞれの世界のマスターだったからだ。
「それにお前は根拠と言ったが。この世界のマスターが誰なのかは、お前が一番分かってるんじゃないのか? この世界を自分の一部のように感じてるんだろう? それがこの夢のマスターである何よりの証拠だ」
「く……」
芒雁は否定できない。
「しかもただの夢ではない。ここには夢の主の無意識下の抑圧や願望、パーソナリティを表すもので構成された深層世界の夢だ。何ならこの世界からお前の性格を当ててやろうか? これが本当の夢判断、というわけだ」
そう言いながら、師桐はまたハハッと笑った。
「この家の外には草原があったな。これは庭だ。庭は外の世界と面している所、他者を迎える空間だ。とても広く、三桜弥生の言葉を借りれば『気持ちのいい』世界のようだな。これはお前の社交性の高さ、人当たりの良さの表れだ。反面、庭が広いということはその分だけ家、つまり本当の自分までの距離があるということ」
「師桐。これ以上話すのを止めろ。いったい何のつもりだ」
芒雁が制止のジェスチャーをするが、師桐は話を止めない。
「外向けの自分と内面の自分には断絶があるようだな。家が崖で隔てられていたのがその表れだ。他人に本当の自分をさらけ出すのを極度に恐れている。その理由は何だ? 崖の内側にあった、この家がその答えだ」
「違う! そんなんじゃない!」
芒雁が叫ぶが、師桐はそんなことお構いなしに右手で大仰に部屋の中を指し示す。
「からっぽ。何もない。鉄格子で守られた窓と、無機質な床と壁があるだけだ。お前は誰かに誇れるものの一つさえ、持ってやしないんだよ!」
「違う! 違う!」
芒雁は耳を塞ぎ首をぶんぶんと振る。師桐はそんな芒雁を少しの間楽しそうに見ていたが、すっとそばまで近寄ると、耳を塞いでいた芒雁の両手を掴み、耳から引き離した。
「目を背けるなよ。現実を見ろよ。僕が言った分析の根拠を述べる必要はない。ただお前がこの部屋を見ればいい。それで事は足りる」
そう言って掴んだ両腕をぶん投げた。師桐の力は強く、芒雁は為す術なく宙を舞う。受け身もろくに取れず、顔面やら膝やらあちこちを床に打ち付けた。
「うう……」
師桐に説明されるまでもなく、芒雁はこれが自分の夢だという自覚をしていた。自分の手を示されて、「これはあなたの手です」と言われるようなものだ。自明の理。言われなくても分かるし、証明など不要だ。だから師桐が芒雁を精神的に揺さぶろうと妄言を吐いているわけではなく、ただ正しい分析を伝えているだけだということが分かってしまう。そのことが余計に芒雁の心をえぐっていた。
「お前の勘違いの三つ目を教えてやろう」
師桐は床に寝そべったままの芒雁の髪を鷲掴みにし、そのまま頭だけ引き起こした。そして顔を芒雁の耳に近づけボソボソと話し出す。
「それはこの『他人の夢に入り込む』ライセンスが私の能力だと思ってることだ」
「……え?」
芒雁は師桐の言っている言葉の意味が分からない。
「他人の夢の中に入り込んで、その夢の持ち主の人格を分析・干渉することができるライセンス。まるでジグムント・フロイトが行った催眠療法の便利版だな。彼の業績に敬意を払ってこのライセンスを『フロイト』と呼ぼう。なぜ『フロイト』が存在する? この能力者にとってどうしてこのライセンスが必要だったのか? そして芒雁。いくつかの夢を渡り歩いた時、何を感じた? それを考えてみればこのライセンスの持ち主は誰か、おのずと分かるんじゃないのか」
「……まさか」
今まで見てきたものが誰かの夢の世界であると知った時、芒雁が感じたのは途方もない安心感、そしてそれに伴う快感だった。他人の夢を、心を覗くことができて芒雁は心底嬉しかったのだ。
そして芒雁はある一つの仮説に辿り着く。今師桐に与えられたヒントだけではない。自分の夢の中に入った時の気持ちを加味しての結論だった。
そもそもなぜ自分は少なくない回数、この夢の世界に迷い込んでいたのか。師桐には理由があった。けれども芒雁には見当たらない。しかし『自発的に』入り込んでいたとすれば。
「俺の、なのか? この他人の夢の中に入るライセンスは……」
「ここまで言われてようやく気づくのか。自分のことについてはとことんニブイ。……いや、違う。それも薄々は気づいていたんだろ? だが自分にウソをつき、気がつかないフリをしていた。それほど目を背けたい事実だったのか?」
師桐が大きくため息をつきながら言った。そしてゆっくりと今まで大事そうに抱えていた小箱を、芒雁の前に置く。
「この箱。椅子の他にこの部屋に唯一あったものだ。中身はなんだと思う?」
そう問いかけられた瞬間、芒雁は目をカッと見開いた。
「開けて、確かめてみるか? 芒雁ぃ?」
師桐は小箱の蓋を閉めている留め具にそっと手をかける。
「やめろ!」
芒雁が慌てて抵抗しようとしたので、師桐は芒雁の頭を掴んでいた手を、地面へ投げつけるように離した。芒雁は再度地面へ顔をぶつけることになった。
「ぐうっ……!」
芒雁が怯んだ隙に師桐はぱっと飛び上がり、芒雁の前に置いた小箱の後ろに降り立った。
「崖で隔て、窓に鉄格子を嵌めてまで隠したかった、本当の自分。芒雁、これがお前の本性なんだよ!」
師桐が勢いよく小箱の留め具を弾いた。留め具が外れた箱の蓋は勢いよく開かれる。途端に小箱から黒い霧が溢れ出し 、芒雁の体を包み込んだ。
「うわああああ!」
霧が口から鼻から皮膚から、芒雁に入り込む。霧は芒雁を侵食しようとしていた。霧が芒雁の中の何かを侵すたびに、芒雁の体に激痛が走った。
霧が芒雁の体内で侵していた物。それは自我と呼ばれるものだった。あるいは、理性。
芒雁は転げ回る。あるいは立ち上がって手で霧を払おうとしたり、壁に体を打ち付けたりする。しかしどれも無駄なことだった。芒雁にまとわりつく黒い霧はまるで減る様子がない。
「芒雁。お前が唯一持っているものとは『フロイト』のライセンスだ。そしてその姿こそが芒雁に『フロイト』が発現した意味、理由を表している」
やがて芒雁は床に突っ伏したまま、ピクリとも動かなくなる。激痛と抵抗が芒雁の体力を、そして霧が気力をすっかり奪ってしまっていた。
しばらくすると芒雁を包んでいた霧は徐々に霧散した。そうして中から姿を見せたものは、もはや芒雁ではなかった。
全身を覆う薄汚れた毛並み。頭部から生えた、二本のグニャグニャの角。ひどく落ち込んだ眼窩はだらしなく垂れ下がったまぶたの肉に覆われ、その目を確認することができない。その芒雁であったモノは見たこともない、気色の悪い動物の姿をしていた。
その醜い姿と体臭に師桐は顔をしかめる。
「獏だ。人の夢を喰らう伝説上の生き物。自分が持たざるものだからこそ人の中身が気になる。それもその人の了解もなく勝手に覗き見る強欲さと浅ましさ。人様のプライバシーをまったく考えない、卑しいライセンス。なんともおぞましいが、芒雁、お前にはぴったりの姿じゃないか」
獏はゆっくりと自分の手を広げ、見つめる。人間であった頃の名残なのか、指はかろうじて五本あった。だが、どの指も毛むくじゃらで、ずんぐりとむくれていた。
「これが、俺の姿……」
獏がしゃがれた声で呟く。
「他人を知るために発現した『フロイト』を自分に向けて発動させた世界で、ようやく自分が何者かを知ったというわけだ」
師桐が汚いものを見下すかのように、獏の姿をした芒雁にそう吐き捨てた。
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