第33話 菓子井基次郎式檸檬 ぷらんで~と・恋武

 一瞬一瞬をわたしはわたしで生きていく。媚びない明日に向かって走れ走れ!


 ウーはさすがに「薔薇喫茶」のウェイトレスだけあって、暖かいクリームシチューをわずか一時間程度で完成させた。

「あっ油(アッブ~ラ)、~カタブ~ラッ」

「ちちんぷいぷいッ、香りの王様カルダモンだもん!」

「ここでアボカド。よろしくて? アボガドじゃないのよ。アボカドよ?」

 「半町半街」は食材が豊富だ。茄子以外は野菜類が揃っている。焼いて「ママレー度100%」を着けたエクスカリカリバーブロートがちゃんとやわらかくて美味しかった事には驚いた。島原の卵(らん)、New豚(ニュートン)、千葉県産牡蠣右衛門、ニンジンスキー、それになぜか近所の森で釣ったブラックバスとブルーギルのフライが並んでいる。どこのタイミングでウーは魚を店に保管したんだろう。それらを食べた佐藤うるかは毛布に包まって寝ている。ウーは皿を拭きながら次第に皿がターンテーブルとなり、ラップを奏でていた。

「なんか心配だな。あんなありす、始めてみた。恋武のこと、よっぽどショックだったのかな」

 ウーがぽつりと呟いた。

「今日は大活躍だった。敵の基地も沢山壊したし、心配することない」

 おかげでこの町の「六角形に蜂の頭」のマークの場異様破邪道は随分減ったはずだ。恋武は気になるが、誘拐現場は次第に落ち着くだろう。

「うん……でも、気になる。何か」

「なぁ、ところで君たちってどういう関係なんだ?」

「何? 急に。高校の同級生だけど?」

「そうなのか。あのさ、ありすって普段高校でもあんな感じなの?」

「そうかなぁ……」

「T字路のこと丁字路とかいってて、変わってるよな」

「ちょっと古風なのよ。それがどうかしたの?」

「いや、別に。ただ、俺も何か力になれないかなと思ってさ」

「サンキュ、やさしいのね。トキオ」

 ボンボン時計が午前三時を知らせる。時夫とウーはなんとなく眠れずにいた。ウーはというと、さっきから時夫がうるかに勧められて買った菓子井基次郎の「檸檬」を熱心に読んでいる。

「……えたいの知れない不吉な塊が私の心を押さえつけている」

「ン?」

「いや、今読み終わったトコなんだけど、この本凄くいいよ。今のあたしの心境にぴったり。あの子が勧めたんでしょ、こんな事ってあるのね」

 いつも騒がしいのにやけに静かだと思ったら、まだ時夫がざっとしか読んでない本に、それも純文学にすっかり嵌ったようだった。

「あ、ああそれか」

 時夫はぼんやりと眠い頭をめぐらした。

「何もかも重苦しく感じるこんな状況のあたしに、光明を与えるわ」

 ウーでもそんな心境になるのだろうか、と時夫は少し興味を抱いた。

 ウーは台所へ消えた。と思ったら冷蔵庫の扉がガチャと鳴り、何かを取り出して戻ってきた。すでにピンクジャージからいつものホットパンツに戻っている。生足を組んで座る。ホットパンツから伸びた白い太ももがまぶしい。右手に握られていたものは檸檬だ。

「これよ……基次郎さんと同じ、あたしも好きなの。この肌触り。ン~……いい香り」

「レモンがどうかしたの」

「この小説のタイトル『檸檬』だよ。主人公は、鬱屈した心を檸檬を手に取った瞬間、軽くなって救われた。でも本屋に行ってさ、何を観ても重苦しい気分が払拭できなかった。そこでポッケから再び檸檬を取り出してみた。もしこの檸檬をこのまま本棚に置きっぱなしにして、店を後にしたらどうだろう? 檸檬が爆弾だと思って、店が木っ端微塵に砕け散ったとしたら。そう考えると楽しくなってきちゃったのよね。物語はそこで終わる」

 純文学って変わっている。そんなオチだったのか。いつも読む美少女だらけのライトノベルとは違う。隣で眠っている佐藤うるかもきっと読んだのだろう。

「……」

 ウーは悪巧みを考えるような顔つきでニヤニヤしている。

「おい、まさかとは思うが。君、檸檬を持って行くつもりじゃないだろうな。ぷらんで~と・恋武に」

 時夫は睨む。

「バレた?」

「やめろよ。意味論の支配する恋文町でそんな事をするのは」

「だからやる価値があるの。意味論が発動するからこそ意味があるんだよ。この檸檬をデパートの中にそっと置いて、外へ出る。それ以外、あたしたちは何もしない。檸檬を置くほかには何も……。あぁ菓子井基次郎さん、ありがとう! 意味論はきっと私に味方する」

 それは、ウーが始めてちゃんと読んだ小説だったらしい。

「ありすが行くなって言っただろ。ここであいつが戻ってくるのを待つべきだ」

 あそこでは科術が使えないのだ。

「その間に雪絵さんがもし地下に連れ去られちゃったら? あの時、あの子の手をしっかり握っていなかったのは時夫、君の責任だよ」

「う……それは」

「別に責めてる訳じゃないんだ。あたしも、なんとかしなくちゃって、ただそう思ってるだけ。何の意味もないかもしれないし」

 ウーは膝に顔をうずめた。

「わたし、ありすに信用されてないのよ。わたしもね。時夫みたくありすに、スパイだって思われてる」

「それは……君が、いちいち誤解を招くような行動を取るからだろ」

「そんなつもりじゃ……」

 ウーは落ち込んでる。ちょっと、言いすぎだったか。

「ずっと証明しなきゃって、思ってたんだ」

「で、でも、結局は信じてるんじゃないか。ありすは君を。俺だってそうだ。でなきゃこんな風に一緒に敵と戦う訳ないだろ」

「ありがとう時夫。けどこのままじゃ、やっぱダメだ」

「俺も一緒に行くよ。雪絵に会えるかも知れないし」

「やっぱあんたって、優しいよね。ありすに余計な事に首を突っ込むなって言われたんでしょ。フフフ。ならこれあげる。『そーかいごーかいZ』」

 ウーが普段飲んでる栄養ドリンクらしい。この店の冷蔵庫にもあったそうだ。


「行ってらっしゃ~い」

 時夫とウーから事情を一通り聞いた佐藤うるかは、一応信じてくれたようだ。さすが文学少女だ。さてうるかは「ぷらんで~と・恋武」の内部を知っている。うるかによると、中は八階建てで、多くの階は婦人服売り場・紳士服売り場と、オーソドックスなデパートの作りになってるらしい。うるかが立ち寄ったのはまず、七階の書店とCD・DVD売り場、それにゲームセンター。八階は「タイムドーム」という名称の展望レストランで、中央に大きな滝がそびえているという。地下の食品街も立ち寄ったそうだが、特別変わったものはなかったらしい。

 オープン当日の二十五日正午。時夫とウーは店にうるかを残して、恋文町駅前に不釣合いに巨大な「ぷらんで~と恋武」へと向かった。「半町半街」の玄関には拳が裏返った「招かねざる猫」が置かれている。これが店の科術の結界だ。

 二つの大きなアドバルーンが風に揺れている。昨晩あんなことがあったのに、シャッターだらけの恋文銀座あたりから人出が増えていく。シャッターガイは今日も恋武のポスターが貼られ、言論封殺されて唯の絵になっている。

 隣の建物は、シネコン「フシギシネマ」だ。時夫はここも入ったことがない。

 二人が見上げる駅前の白い御殿。人ごみが普通に吸い込まれるように入っていく。なぜだ。昨夜の恐るべき夜空の実験。人々は誰も覚えていないようだった。夜空に映し出された熱帯魚のプロジェクトマッピングが、地上の人を食う訳がない。そう見えただけ? 実際には誘拐されていないのか。あれは幻想だったというのか。だがこの中に、きっと雪絵はいる。時夫は彼女の気配を感じた。それに誘拐された人々、佐藤うるかの家族たちも……。

 真冬に寒くないのかと心配な、いつもの格好の石川ウーことうさぎは、その右手に真っ黄色な檸檬を握って先に自動ドアを入っていった。ふわっとした室内の暖房が二人を包み込む。

「ねぇ時夫ってさ、デパートってよく行く?」

「そーでもないな。東京にいたときは、家族とたまにかな」

「そっか。あたしも、池袋の百貨店とかたまに行くと、なんかわくわくした気分になった。なんでかな。最近(ちかごろ)のショッピングモールとは違うんだよね。もっとハイソっていうか、高級感がわくわくする。あー、自分もその一員になれたなーっていうか。こんなトコ住みたいよなー」

 うさぎの言うことも分かる気がした。だけど、檸檬という名の意味爆弾を持ったウーの硬い表情を見ると、今はわくわくよりもカッカしているという感じだ。

「ほらっ。この大理石見て。アンモナイトよ。化石が入ってる」

 ウーが指差す壁に渦巻き模様がはっきりと浮かび上がっていた。何億年もかけて「ぷらんで~と・恋武」の壁を飾る運命が待っていようとは、海を泳いでいた頃には連中もついぞ思わなかったことだろう。

 テケリ・リ……テケリ・リ!

「ウー、携帯なってるぞ」

「え? ホント。いや、あたしじゃないよ」

 ウーは携帯を確認する。

 アンモナイトの化石の横に、巨大な何かの化石があった。頭はタコだが、体が人間のような五体がある。それがいくつも触手を伸ばした別の「何か」と格闘したまま化石化している。な、何があった……。クトゥルーとその使役のショゴスの反乱といった旧支配者的な化石だが、じっと見てると動き出しそうだ。コズミック・ホラーの恐怖が今ここに! いや止めてくれ。コミックホラ話で十分だ。見なかったことにしよう。時夫は足を速めた。

「時夫、つかぬことを訊くけどさ」

「何」

「鰹節って……、あれ化石?」

 何を言い出すんだか。

「どうする? どこへ置く」

 時夫は小声でウーに訊いた。

「すぐ出るのもアレね。ねぇちょっと上の階に行かない?」

「……いいけど」

 二人はエレベータに乗った。白手袋を嵌めたエレベータガールに四階を指示する。ボタンすら係りの人間に推してもらうなんて、デパートの中はちょっとした貴族気分だ。彼女が冬人夏茸、茸人なのか砂糖人なのか、それとも人間なのかは分からない。あまり長居は不要だろう。

 四階は、婦人服売り場だった。入った途端に、フロアー内いっぱいに泳ぎ回る、発光くらげの立体映像が二人を出迎えた。二人はネオンテトラを想起して身構えた。そこはシャッター街に張られたポスターの、「ウィンターコレクション」の会場で、ところせましとマネキン達が流行の婦人用冬服を身にまとっていた。そのポスターデザインは、どことなく不気味さが漂っていたが、室内のレイアウトもまたしかりだ。

 右側のエリアは壁がすべて金色にギラギラと輝いており、そこに女性マネキンが一定の方向で歩くポーズをしていた。左側のエリアは燃える火山から流れ出した赤いじゅうたんの上に、何段階も不連続なひな壇が出来、男や女のマネキンがポーズを取っている。そしてそのエリアに入ったときだけ、指向性のスピーカーから音楽が流れ出し、ど派手な立体映像が出現する。夜空に熱帯魚を泳がせた恋武にとっては、これくらいの芸当はお手の物だろう。他もどこもかしこも現代美術というかアヴァンギャルドというか、ダリっていうか……とにかく一元さんお断りの匂いがプンプンする。

「ファッションの世界って、俺のような常人には全く理解できないセンスだな」

 パリ・コレクションとかミラノ・コレクションとか、時夫には何がいいのかさっぱり分からない。もっとも時夫に、もともとファッションのセンスがあるわけではないが。

「いいや、ちょっとここ普通のデパートと次元が違うよ。ここまで客ウケしない奇抜なデザインはありえない。……しかもこれ、元は人間だわ」

 ウーが恐る恐る近づいたマネキンの一人。外見は作り物のマネキンそのもので、相当に抽象化、美化されているが、モデルの人間達が存在するっぽかった。この中のどこかに、佐藤さんの一家もいるのかもしれない。あるいは白井雪絵も同様だ。ウーと時夫はマネキンを丁寧に一体一体観て回った。

「ストップ!」

 時夫がウーに声を掛けた。

「マネキン達が皆こっちを観てるぜ……」

 ウーが振り向くと、確かにこっちを見ているようだったが、

「気のせいでしょ」

 ウーは一蹴し、しばらく歩いてから

「だ・る・ま・さんが……転んだッ」

 振り向くと、マネキンは動いてはいないものの、確実に廊下へ向かって前進していた。

 今こそ囚われの身だが、ここは敵地。全てが敵と考えるべきだったのだ。壁一面に張られた赤い巨大ポスター。そこにトレンチコートを着た金髪の度派手な化粧の……それこそ、古城ありすばりの化粧をした女モデルの写真が二人を睨んでいる。まるで般若か閻魔大王みたいに。

「バレちゃったみたいね。あのポスター。恋文銀座に張ってあった奴だわ。全てはあいつが首謀者。間違いない」

「二次元の存在なのに?」

「シャッターガイの例もあるじゃん」

 確かに、「彼」は恋武のポスターを上から張られて殺されていた。二次元には二次元をって奴か!

「一瞬一瞬をわたしはわたしで生きていく。媚びない明日に向かって走れ走れ!」

 あいつだ、あのポスターの外人女が真っ赤な口紅をした笑顔で叫んでいる。

 で、やっぱりこうなる。二人はマネキンに追いかけられた。科術を使えないウーも逃げるしかない。

「あう……足が動かんぞ」

 時夫は自身がマネキンになっていくのではないかという恐怖にとらわれた。だが、石川ウーは走っている。

「時夫くん、郷に入りては郷に従えよ。ここじゃファッションセンスのない奴はただのマネキン奴隷になっていく。あのポスターが関心するような見事なポーズを取って走ってみせて!」

「お、おう。いや無茶だ! おれにファッションセンスなど……」

 ウーを観察しているとナルホド、一々モデル風のポーズを取り、気取りまくって走っている。く、くくくくそぅ……。時夫は焦りにとらわれながらも、必死でウーを真似た。辛うじて足が石化を免れる。

 二人は中庭テラスへと出た。雨が降っている。上空をすっかり恋文町に居座ったサンダーバードが旋回していた。女王側でも、こちら側でもない存在。敵でもあり、味方でもある。稲妻が降りかかってきた。

「他の階へ行くしかない。早く檸檬を置いてここを出よう」

 時夫の提案で、もと来た通路を戻ると、マネキン達は追っ手を見失ったためか、廊下でモノに戻り、走るポーズを取ったまま固まっていた。ちょうどエレベータが来たところだ。

「ハッハッハ、かかったなハウスマヌケ(ハウスマヌカン)共!」

「上へ参りマス?」

 駆け込むとエレベーターガールに七階を指定する。雨で濡れた二人を全く気にしないエレベータガールもよく見るとマネキンだった。ここの従業員たちは、皆マネキンだ。操作された存在だから、与えられた職務だけを全うし、二人の僅かな異変にも気づかないのだ。

 七階へ降りると、書店とCD、DVD売り場、それにゲームセンターである。ところがそこでは別の光景が広がっていた。廊下中を、ゾンビがあふれて歩いている。

「ななな、なんだこいつらは」

「お客だよ! みんな元はお客さんじゃん」

 幸い、足の動きの鈍いタイプのゾンビばかり。二人を見ると両手を前にして、ゆっくり追ってくる。が、良く見ると女子高生や若い女性が多かった。

「あれよ。あれが原因だわ」

 プリクラのカーテンが閃光で輝くたびに、中から客がゾンビになって出てくる。ゾンビ・プリクラ。画像処理でゾンビになれるが、実際の被写体も魂を抜かれ、ゾンビになってしまう。写真で魂抜かれるなんて、ありすの言い草ではないが。これも意味論だ。きっと、場異様破邪道だからゾンビが出てきたのだ。ハロウィンの仮装行列などで、人はなんでゾンビになりたがるのか? そのゾンビ願望が意味論によって実体化したともいえるのが、このゾンビ・プリクラなのである。

「これ以上、犠牲者を出してはいけないわね」

 ウーが何をしようとしているのかを時夫は察した。ここへ来て、時夫には迷いがあった。檸檬が爆弾なら、ゾンビやマネキンと化した誘拐の犠牲者達に被害が及ぶだろう。

「なぁ、もしも……」

「そっから先は言わないで。言いたい事は分かる。小説だって結局、その後どうなったかを書いてない。あたし達は人質解放を含めて、全ての問題が解決する思いを込めて檸檬を置く。それがあたし達のミッション。それ以外は何もしないのよ。あたしたちの意味論を信じましょ」

 ウーは決意を檸檬に込めて、書店の画集コーナーにそっと置こうとした。

「爆発するなら、この階を離れなきゃいけないな。うわっ」

 ゾンビがあちこちから集まって、すでに二人を取り囲んでいた。

「うさぎビーム!」

 ハート型の光弾がウーの胸から続々飛び出していった。ゾンビは将棋倒しになぎ倒されていった。紅海を真っ二つに裂いたモーゼのように出来た道を、二人は走って脱出した。

「やばい……ヤっちゃった。あれっ? 使えるぞ」

 石川ウーは目を丸くして両手を見つめ、驚いている。時夫は人質達をなぎ倒したことが気になった。

「ここ、科術使えるよ。早く、ありすに伝えないと」

 ゾンビの数は尋常ではなく七階にあふれかえり、ウーはできるだけうさぎビームを使いたくなかったので、走って逃げる。七階にも外にテラスに出ることが出来た。外は晴れていた。サンダーバードはどこかに立ち去ったのかもしれない。羊雲が広がっている。見ていると、羊雲が降りてきて、羊の群れが空を見上げているオブジェが人工芝の上に整然と並んだ。ベンチだ。七つ目団地でピョンピョン跳ねていた羊共か?

「ここにもエレベータがあるぜ。早く外へ出よう」

 従業員用エレベータに時夫は飛び乗り、石川ウーが続いた。

「あ、こりゃダメだ。四階までしか行かない」

 慌てているうちに四階へ到着した。だが今ならサンダーバードがいないはずだ。外へ走り出すと土砂降り。稲妻が激しく打ち付ける。雄たけびが聞こえてくる。

「なんだよこれは。サンダーバードがいるぞ」

 階によって天気が違うってどういう事なんだ。

「四階が気に入っているみたいよ。七階は気に入らないけど」

「じゃあ外階段からは出られないじゃないか」

 テラスにはさっきと違う光景が存在していた。マネキン達が一箇所に固まって、サンダーバードの稲妻にびしばし当たっているのだった。

「引き返そう」

 と時夫がいうもつかの間、稲妻を浴びてリフレッシュした?イナズマネキン達は猛烈なスピードで二人を追ってくる。

「一瞬一瞬をわたしはわたしで生きていく。媚びない明日に向かって走れ走れ!」

 いちいちポーズを取りながら、外人女が般若のような笑顔でイナズマネキン達に指示を出していた。

「ウィンターコレクションめぇ……ひょっとしてサンダーバードをも手なずけやがったか」

 名前が分からないポスターの女に毒づいてもしょうがないが、追われるまま、二人は階段を上がって再び七階に戻る。外を見るとやっぱり雨は降っていないが、それどころではない。下からマネキンの大群が、そしてこのフロアはゾンビがぎっしりと待ち受けていたのだから。

「わわわ……は、早く檸檬を」

 二人は通路の途中で完全に取り囲まれた。

「分かってるわよー、でもこの人たち元は人質でしょ。ほんとにここでいいのかな」

 四階のポスターの二次元女を攻撃するべきだった。石川ウーがそう後悔した瞬間、ゾンビとマネキンが一斉に二人に掴みかかってきた。そしてウーは本の上に、そっと檸檬を置いた。

 建物全体が振動する爆音が鳴り響き、一瞬無音になった。それと共に、檸檬色のはじける果汁、ペンキをぶちまけたようなレモン色がフロア全体を包み込んでゆく。実にすっぱい爆発だった。それに加えて駄菓子のパチパチパニックやシュワシュワ感もある。炭酸でも混じっているのか? 書店の中は無秩序に破壊され、ゾンビも、マネキンも当たりそこら辺一体が檸檬色に染まった。時夫もウーも同様だ。だが、黄色い果汁に染まっただけで、人質たちは元の人間に戻っていた。

「やった……遂にやったぞ」

 菓子井基次郎の勝利。石川ウーの意味論が正しく発動した瞬間である! その後も果汁の爆発は続いていた。消防車が集まってくる音が外から聞こえてくる。あの入り口の金ぴかの送水口に消防車のホースがセットされ、スプリンクラーから勢いよく水が吹き出てきた。

 人質達はパニックになりながら、ここから逃げ出そうとエレベータに、階段にと殺到した。

「あっ佐藤さんご一家!」

 ウーはその中にうるかの一家を見つけた。

「ど、どうも。これは? ……わたし達に何があったんでしょうか」

 佐藤家主人が当惑いっぱいの顔で答えるのが精一杯だ。

「理由はともかく、娘さんは無事ですから。早く外へ逃げてください!」

 ウーがそれを伝えたところで、人の流れに逆らえない佐藤一家は、そのまま下階段へと吸い込まれていった。あまりに人が多いその洪水のような流れに、時夫は立ちすくんだ。

「これじゃあ俺たち脱出出来ないぞ」

「上へ行くのよ」

「何でだ。もう檸檬も置いたじゃないか。この上って、まさか展望レストランか?」

「ここまで来たんだから」

 何を言っているんだ彼女は、無事爆発も起こったし、長居は無用だ。とはいえ、もはや白井雪絵を連れ戻さないと気がすまないのは金沢時夫も同様だった。

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