第611話 決死の逃亡
目の前に舞い降りた邪竜の姿に、俺たちは言葉もなく立ち尽くす。
中でももっとも早く正気を取り戻したのは、意外にも俺だった。
「ティナ、逃げ――」
「嫌よ」
この場にいたら確実に死ぬ。だから俺はコルティナに逃亡の指示を出そうとしたが、その言葉が終わるよりも早く、彼女は拒否の言葉を返してきた。
「もうあんたを置いて逃げるなんて、死んでも嫌よ」
「コルティナ、頼むから……」
「これだけは絶対に引かないから」
決然と告げてくるコルティナだが、その足は生まれたての小鹿のように震えている。
彼女だって怖いわけではない。それでも、もう二度と俺を置いて逃げたくないという、彼女の決意を無にすることはできない。
もしここで、彼女の意思を無視して置いて行ったりしたら、彼女は一生、もう二度と立ち上がれない傷を心に負ってしまうだろう。
「死ぬぞ。確実に」
「承知の上よ。今度こそ、あんたと一緒に死んであげる」
「……まったく、ありがたい話だね」
俺としては、彼女には逃げてほしいと心から思っている。しかし、それを覆して一緒にいると宣言してくれた彼女の意思は、涙が出るほどに嬉しかった。
そんな彼女を置いて、どうして先に進めるというのか。
「わかった、一緒に来てくれ。まずはあいつを村から引き離す」
「わかったわ……マリア!」
コルティナの叫びに、茫然自失としていたマリアが正気に返る。
そして同時に、クファルも声を上げてきた。
「クハハハハハ! 邪竜よ、コルキスよ! そいつらだ、そいつらこそ元凶、最大の障害! 生かしておくな、決して逃がすな! 完全に、完膚なきまでに、徹底的に……殺せ! 燃やして引き裂いて潰して……喰らい尽くせ!!」
「――――――――――――!!」
クファルの狂気に満ちた言葉に、コルキスは歓喜の咆哮を上げた。
異界から呼び出され、狂人に支配された邪竜にとって、この世界は破壊すべき存在。しかし思うままに破壊することは、召喚者であるクファルによって阻害されている。
そんな状況で限定的とはいえ破壊を命じられたのだから、歓喜するのも無理はない。
人の可聴域を超える咆哮が、周辺の大気を震わせる。このまま数十秒も聞いていれば、鼓膜が破れていたかもしれない。
「マリア、私たちを飛ばして。山の方角!」
コルティナはその方向に負けぬよう、全力で叫びながら一報を指差す。
それはライエルたちが魔神と遭遇した、あの山だ。
「で、でも――」
「狙われているのは私たちよ。このままここで戦闘になったら、村が巻き込まれるわ。村には――フィーナもいるでしょ?」
「その説得は、ずるいわよ」
フィーナを人質に取られては、マリアに選択の余地はない。
次の瞬間には、俺とコルティナは村から二キロほど離れた草原の中にいた。
これはいきなり山まで飛ばしてしまうと、俺たちを見失ってしまう可能性がある。
そこで見える範囲で、俺たちを村から離脱させたのだろう。
「よし。じゃあレイド、あの山の向こうまで行くわよ!」
「は? 山向こうまでか?」
「山の陰に入れば、村に被害が出ることはないわ」
言われて俺は、なるほどと納得する。
離れただけでは、ブレスを持つ邪竜の攻撃範囲から逃れることはできない。
ならばどうしても戦闘地域と村の間に、堅牢な障害物を用意する必要がある。山の向こうなら、その条件は満たせる。
数キロだけ離れた場所に跳んだのは、マリアから見える範囲なら邪竜からも見えるという判断だろう。
コルティナに促され、俺たちは全力で走り始めた。
「レイド様!」
背後でフィニアの悲痛な声が聞こえた気がするが、それを振り返っている余裕はない。
邪竜にとって、二キロというアドバンテージは、限りなく少ない。
小さいとはいえ、山向こうとなると、まだ数キロは走らねばならなかった。
元々体力に乏しい俺は全身の力を抜き、糸の力を使って手足を操り、移動をし始める。
そんな俺たちを追って、クファルとコルキスも動き始めていた。
「あんたのそれ、何かズルいわね」
「体力がないから仕方ないだろ。それよりもそっちの方がズルい」
俺と同じく体力に問題を抱えるコルティナも、
その速度はかなり早く、馬の全力疾走にも引けを取らないはずだ。
もちろんそんな速度で動いて、コルティナに負担がかからないはずがない。
おそらく目的地に着くころには、彼女は使い物にならなくなっているはずだ。
そもそも、彼女の本領は戦闘技術ではない。
餌として狙われているのなら、それを利用して戦場を移動させる。そこから先は、俺の仕事だった。
「俺を置いて行くなぁ!」
そう言って俺たちの後ろをものすごい速度で追いかけてきたのは、ガドルスだった。
狙われているのは俺たちだけとはいえ、彼がついてきてくれるのは心強い。しかしそれは、彼も死の危険に巻き込まれるということである。
「いいのか、このままだと一緒に死ぬぞ?」
「バカモン、今更お前たちを見捨てられるか!」
「ガドルス――」
俺は思わず感極まって涙を流しそうになった。生まれ変わってから、どうも涙腺が弱くなった気がする。
それはともかく……
「ライエルとマリアは?」
「二人は考えがあって村に残っておる。村には怪我人もかなり出たからな」
「そうか」
クファルを村に引き込んだ時に、すでに大量の怪我人が出ていた。それを考えれば、マリアは村を離れるわけにはいくまい。
ライエルも、フィーナが心配だろうし、村に残るのも納得だ。
俺たちと違い、あの二人には家族がいるのだから、死んでもらっては困る。いや、俺も家族ではあるのだが。
そんな少し暢気な会話をしながら逃げ続け、どうにか山の向こうに回り込むことに成功した。
ここならば山に隠れて開拓村が見えないため、被害は少なくて済むだろう。
「逃げ切れると思ったか、レイドォォォ!」
山向こうの草原に辿り着き、一息ついていた俺たちの下へ、クファルと邪竜が追い付いてきた。
コルティナはすでに身体の方が限界を迎えているため、移動できそうにない。
「ガドルス、コルティナを頼む」
「レイド、お前はどうする?」
「まあ、何とかやってみるよ」
勝ち目なんて欠片もない。それどころか、どれくらい戦い続けられるかもわからない。
それでも、彼女が背後にいるというだけで、限界を超えて頑張れる。その確信はあった。
「さぁ、鬼ごっこはここまでだ。決着をつけようか」
不敵な笑みを浮かべ、俺は邪竜に向けて一歩踏み出したのだった。
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