<夜魔>抄・七





 ある旧い家に二卵性の双子があった。

 妹は愛らしく、優秀で、けれど姉はそのすべてを凌駕していた。

 取り巻きの碌でもない少年たちまでも自分を放って姉に興味を示したとき、妹はもう我慢することをやめた。

 腐りに腐り、猛毒と化した嫉妬と悪意を解き放った。

 希望通りに少年たちを家に招いた。もちろん、姉がいて両親はいないときにだ。

 可愛らしい声で自分の部屋に姉を招いた。いつもつんけんしている妹が甘えてきたのがよほど嬉しかったのか、優しく善良な姉は無警戒について来た。

 ドアを開け、暗い部屋に押し込む。姉は武道の腕前も尋常ではなかったが、完全に油断していては発揮しきれない。

 いかに技に優れようとも常軌を逸した達人というわけではないのだ、単純な筋力で勝る少年たちが五人がかりでならば押さえ込めた。

 あとは、本当に碌でもない少年たちが劣情を発散するのを妹は笑い転げながら見ていた。

 性に対して潔癖なところのある姉が蹂躙され、あの完璧な姉が助けてとみっともなく泣き叫ぶ様には、気の触れそうなほどの快楽を覚えた。

 少年たちが満足して、妹はようやく姉に近づいた。

 姉はただ天井を見ていた。妹の姿も認識できないようだった。

 まだ足りない。妹の中の悪意は膨れこそすれ、欠片も減ることはなかった。

 そうだろうと元から確信はあった。

 だから、準備しておいた物を改めて引っ張り出してきた。

『ブスになれ! これでブスになれ!』

 こんなときでも美しい姉の顔に、大量の強アルカリをぶちまけたのだ。

 そして少年たちの狼狽の声を背に、妹は逃げ出した。けたけた笑いながら、あてもなく。

 指先までもが痺れるほど心地好い。ありとあらゆる束縛を抜け出して何もかもが自由になったと思った。

 もうこの快楽は止まらない。これがないことなど考えられない。

 普通ならばすぐに捕まったのだろう。

 しかし妹は、<魔人>になってしまった。

 多くの<魔人>にとっての災厄の種が生まれたのである。
















 灰色の世界。

 この異常に対し、襲撃と見た<夜魔リリス>の指示は早かった。

 八方への偵察の結果、分かったことは大きく分けて四つ。

 自分たち以外に動くものはなく、人の姿もない。

 有線も含めたすべての通信、情報機器の機能停止。

 このホテルを中心とした半径十キロメートルほどの空間から脱出できない。不可視の壁に阻まれる。

 そして、最初に東に送った者、それが帰ってこないために次に送った二人も帰還しない。

 東から抜けられるのかとも思ったが、すぐに否定せざるを得なかった。<夜魔リリス>の命令は偵察だ。何らかの発見があれば必ず帰ってこなければならないし、見つけられなかったにせよどこまでも行けるわけではないのだ。

 つまり、帰れない状況にある。仕掛けた何ものかがある以上、それにやられた可能性が高い。

 この閉鎖されたと思しき空間で敵がいる。思いついた名は当然ひとつだった。

「これは<竪琴ライラ>の仕業かしら?」

 人の目を気にする必要がないとあって、<夜魔リリス>は少年たちともどもホテルの前の道路に陣取っていた。

 敵が近づいているとなると屋内にはいられない。身動きが取りづらい。

 <夜魔リリス>は五十名を脇に従え、たった一人と向き合っていた。

「答えなさい、<双剣>ツインソード。仕掛けてくるなら三週間後ではなかったの?」

「ああ、やっぱり聞いてたんだなあ。人間関係なぞどうやって把握したのか怪しかったが、案の定か」

 相馬小五郎は悪びれずに左の口の端を上げた。

 部屋の前でわざわざ場所を指定したことが誘導であったのだと理解し、<夜魔リリス>は今更驚きもしなかった。

「それで、答えなさい。これは<竪琴ライラ>?」

「そうだろうな。まさかここまで早く仕掛けてくるとは俺も思っていなかったが」 

 小五郎に苦痛の色はない。知らなかったのは本当だということだ。

 しかし<竪琴ライラ>であろうと推測できる理由くらいはありそうではあった。

「この際だから不正確でもいいわ。この現象についてあなたの考えるところを正直に教えなさい」

「やれやれ、嫌な訊き方をしてくるようになった」

 <夜魔リリス>は沈黙とともに待つ。小五郎のはぐらかすような言葉も無意味であると理解している。この期に及んで急速に学習が進みつつあった。

 だが、返答そのものに対しては声を上げることになった。

「聞いたことはある程度だが、神官派には周囲に被害を出さず、かつ標的を逃がさないための裏技か何かがあるそうだ。解除のトリガーは発動者かそれ以外のすべての死亡。本当かどうかは知らないが」

「神官派ですって……?」

 そうとなってみれば単純なことだ。<竪琴ライラ>六派は担当領域に閉じ込められて出られないわけではないのだから、財団派以外が仕掛けてきてもいい。特に神官派と剣豪派の領域は財団派に隣接している。

 その上で、神官派であることには違和感があった。

「俺も来るなら剣豪派だと思っていた。序列二位から七位がまとめて襲撃すれば、ほぼ間違いなく片付くだろうからなあ。それに神官派が出張ったなんて話は今まで聞いたこともなかった」

「……これはあなたの想定よりもいい知らせなのかしら? 悪い知らせなのかしら?」

 剣豪派は個人戦闘力に長ける。今しがた挙がった六振に勝てた<横笛フルート>は一人たりともいないという。

 強いて言うならば盟主であるはずの<奏者プレイヤー>鏡俊介が出張ればそれも覆るのかもしれないが。

 小五郎は皮肉げに口元を歪めた。

「悪い知らせだ。お前にとっても、それから俺にとってもな」

 周囲がざわめいた。<夜魔リリス>にとっての都合が悪いということしか理由付けできないようだった。

 すっかり腐り果てている少年たちよりも正確なところを読み取ったのが<夜魔リリス>であるのは、当然の帰結であったのかもしれない。

 しかしそれでもまだ漠然としたものでしかなかった。

「想定される戦力は?」

「もちろん一人だ。自分以外が死に絶えないと解除されないのなら、一人で来るか最初から味方にも犠牲を出すつもりか、どちらかしかあり得ない。無用な犠牲を出す選択をあのステイシアが採るとは思えん」

 小五郎がゆっくりと皆を見回す。

「いや、そもそもステイシアの意向なぞ無視した襲撃じゃあないかな、これは」

 <夜魔リリス>と誠以外は視線を合わせない。落とすか、逸らしてゆく。もう何も考えたくないのだろう。

 果たして、誰が来るというのか。考えたなら気付いてしまう。

 <夜魔リリス>の麗しいくちびるが震えた。

「……つまり……」

「来たのはおそらく処刑人だ」

 小五郎の口調はどこまでも苦い。それはこれまで生き恥を晒してきた理由の半分が失われたに等しいからである。

「済まんな。なるたけ生き延びさせてやりたかったんだが……あいつが来た以上、目的は皆殺しだ」

 体感温度が下がった。

 どよめきが爆発的に大きくなった。互いに見交わし、不安の顔を目の当たりにしては恐怖の色を浮かべる。

 たった一つの名で空気が塗り替えられていた。<竪琴ライラ>の処刑人という悪名はそれほどの威を有しているのだ。

 その実態を知る者はほぼない。噂ばかりが歩き回り、肥大した空想が事実であるかのように語られる。

 曰く、狙われて逃れられた者はない。

 曰く、昨日までの仲間を屠ることに一切の惑いがない。

 曰く、罪なき子供を巻き込もうと雑草を散らしたに等しい。

 そして噂に過ぎないはずのこれらが否定されたことは、神官派からすら一度もないのだ。

 大げさだなどと笑えたものではなかった。

「黙りなさい」

 <夜魔リリス>の声が凛と響いた。

 少年たちは一斉に口を噤む。呪縛のせいばかりではなく、威厳ある女王然としたその響きに逆らいがたいものを感じ取っていた。

 <夜魔リリス>は改めて小五郎へと声をかけた。

「こうなったなら、今回ばかりは本気で私に協力しなさい。死にたくはないし、死なせたくもないでしょう? ひとまずは処刑人を斃すこと、利害は一致するはずよ」

 妥当な申し出だ。小五郎が逆らいながらもある程度手を貸していたのは少年たち、少なくとも財団派出身の者を救うためである。この状況を打開してから再び<夜魔リリス>の首を狙えばいいと、そう言っている。

 <夜魔リリス>は妥当なつもりだった。少年たちも当然だと思った。

 小五郎が、目を剥き身を震わせ、苦悶を滲ませながら掠れた声を上げた。

「こ、と、わる」

 命令に背いた報いである。

 だが崩れ落ちない。震えながら、飛び出さんほどに目を見開き、歯を食いしばり、それから口角を上げて笑みを形作ってのけた。

「いいか、げん……慣れたぞ」

 嘘である。この苦痛は最大限の苦しみという概念として与えられるものだ。もしも耐性を得るようなことがあったならば、その分だけ苦痛が増すのだ。

 それでも事実、小五郎は両の足で立っていた。

「何を言ってるんだ!?」

 <夜魔リリス>より先に少年の一人が叫んだ。

「死んだらそれで終わりだろ!? 力を合わせて切り抜けるんだよ! 怖いからって逃げるなよ!!」

 小五郎はすぐには答えない。

 少年の言葉はまったくの的外れである。死に逃げるとは、まだ為せること、為すべきことを残しながら諦めて死を選ぶことをいう。小五郎のうちに少年たちを救うという目的はある。しかし第一ではない。

 小五郎は今もって<竪琴ライラ>だ。<魔人>が人々を傷つけぬためにこそ戦っている。害悪である<夜魔リリス>を屠れるであろうこの状況で、自らその可能性を減らすような真似をするわけがない。

 このときをこそ待っていたのだ。この瞬間のために罪なき者まで手にかけてきたのだ。<夜魔リリス>にはここで確実に死んでもらう。皆が道連れになろうともだ。

 少年の叫びは、欺瞞を重ねてでも、泥水を啜ろうとも何としても生き残らんとする、それもまた命の強さではある。

 しかし小五郎は否定した。

 八割が苦鳴混じりに、誇りをもって咆哮を上げる。

「ただ生きているだけがァッ! それほど、尊い、なら! カビにでも生まれ変わればいい!! 俺はヒトだ、これで死ぬとしてもそのために生きた!!」

 重く重く響く。

 そしてもう目もくれない。見るのはただ<夜魔リリス>のみ。

 それを受け、<夜魔リリス>のくちびるが、不思議なほどに優しく弧を描いた。

「そうね、あなたはずっと敵だったわ」

 す、と白魚のような右手が小五郎へと向けられる。そこから放たれるのが不可視の打撃、斬撃、刺突であることを小五郎は知っている。長所も短所に理解している。

 譬えるならば、それは攻撃で編まれた籠だ。標的空間へと全方位から押し込むように加えられる息をつかせぬ連撃、一度ひとたび捕らえられたなら抜け出すのは困難を極める。

 攻略法は単純、設定された殺戮領域キリングスフィアへと捕らえられる前に距離を詰めてしまえばいい。全方位から速度重視に叩き込むという攻撃である以上、至近距離では自身を巻き込むため使えない。使ってもいいが耐久力の勝負になるだけだ。

 もっとも、殺戮領域設定にかかる時間などほとんどない。もう既に発動させるだけになっているだろう。下僕たちを自分の前に置いて盾としていないのはまさに、巻き込まないためだ。

 苦痛に苛まれ足取りすらもよろける今の小五郎に避けられるはずもない。

 はずもない、と誰しもが思っていた。事実でもあった。

 そのための前提条件を覆せる可能性を知っているのは小五郎だけだった。


「――――死人しびとは何も望まない」


 小五郎は万全の一歩を踏み出した。

 不意を突いたことで<夜魔リリス>による発動は一拍遅れ、危ういながらも殺戮領域を抜けたのだ。

 痛みはない。苦しみもない。ただ、駆ける。

 これは異能ではない。<魔人>としての力ですらない。

 『葉隠』にて説かれた、武士のあるべき姿より編み出された技法だ。毎朝、目覚めるごとに己の死を想い、生死に惑わされることなく行動する。その理念を自己暗示の方向に突き詰め、別物とした。

 死人は何も望まない。死人は何も恐れない。死人は何も喜ばない。

 死人は痛みを感じない。死人は疲れを覚えない。死人は己を省みない。

 藤枝という家に継がれたこれは、己を怪物へと変える。あらゆる抑制を解き放ち、自身の肉体が発揮できる最大の筋力を発揮させ、痛みもなく疲れもなく、意識と乖離した身体が物理的に動けなくならない限り戦い続けることができるのだ。

 無論のこと、自身もただでは済まない。骨格は筋力を支えきれずに砕け、解けた後は昏倒必至、生命維持だけで手一杯になってしまう。

 動きそのものに関しても過剰な身体能力のせいで精妙が失われ易い。だからこそ、徹底的になぞり尽くした基本的な動きを藤枝は重視するのだ。単純な動き、ただ袈裟に斬るだけでも、常軌を逸した膂力と速度をもってすれば必殺となる。

 この死人の法こそ相馬小五郎、藤枝壮介ふじえだそうすけの切り札。これまで何人なんぴとも破り得なかった<夜魔リリス>の異能を、人間としての技法が打ち払ってのけた。

 <魔人>となってより、使ったのは初めてだ。話を聞いたオーチェに、絶対に使用してはならないときつく戒められていた。

 その理由を今、小五郎は己が身で痛感していた。

 まず、身体能力の爆発的な向上が一切ない。常と同じ力しか発揮できない。苦痛を消し去っただけだ。

 そしてそれだけでは済まされない。

 一歩目は万全だった。二歩目は力が抜けた。三歩目には視覚が半分失われた。

 急速に死んでゆくのだ。己を死人であると錯覚するほどに強烈な暗示が殺してしまうのだ。人であったならば現実に生きている肉体が歯止めをかけてくれるが、<魔人>はそうではないのだと知った。

 しかし小五郎は止まらない。死人は省みない。死に切る前に<夜魔リリス>を屠ればいいだけだ。射殺す矢として駆ける。

 <夜魔リリス>とて竦んでいたわけではない。不可視の攻撃も領域としてしか放てないわけではない。

 飛び来るそれを、小五郎は左の黄刃『下顎牙インフェリア』を投擲することで迎撃した。

 四歩目。あと一歩で事足りる。

 <夜魔リリス>はかわせない。少年たちはその後ろ、動くことすらできていない。

 ただ一人を、除いては。

 遮る影ひとつ。

 反応して割り込んだのではない。不吉な予感に予め身を投げ出していただけだ。自分がどうなるか、勘付いてはいただろうが。

 鮮血が散った。

 右の白刃『上顎牙シュペリア』は横山誠の胸板を貫き、切っ先は<夜魔リリス>の豊かな胸に触れただけで止まっていた。

 普段であれば誠の身体など薄紙ほどの妨害にしかならなかっただろう。だが、もう小五郎に力はない。刹那の差で、その薄紙すら破り切れない。

 見事だ、と口元だけは笑みにできた。誠の消えたその向こう、<夜魔リリス>がひどく悲しげに、己を庇って死んだ者など目にも入らぬという風にこちらを見ているのが最後に焼きついた。

 命をも捨てる献身すら、この憐れな女の心に届くことはなかったのだと、こればかりは最後まで訳が分からないと嘆息して小五郎も消え去った。












 時を刻む音は聞こえない。

 灰色の世界はすべてが止まってしまったかのように、足音もまだ遠い。







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