せいくらべ・十一






 人を騙すときに重要なことは何だろうか。

 卓抜した話術。実に望ましいだろう。

 落ち着いた雰囲気。信頼を得られそうだ。

 押しの強さ。勢いが趨勢を決めることは戦でもよくあることである。

 嘘と事実の混合。至高とされる割合には諸説あるものの、裏返せば有効であること自体は疑う余地もないという意味にもなる。

 挙げ始めればきりがあるまい。すべては複雑に絡み合っているのだ。

 ともあれ、いずれ劣らぬはたらきをするには違いない。しかし慣れぬ者には少々難しい。

 だからまず、たった一つを心がければいい。

 自分を騙す。これは事実であると信じ込めばよい。味方からでは生ぬるい。

 それは自信を生み、詭弁を作り出す。その過程で嘘と事実は適度に混ぜ合わせられるだろう。

 偽りが真実の響きを帯びるのだ。

 必ずしも悪ではない。厳しい環境への適応や本能的な恐怖に立ち向かう勇気も、これと似ている。

 程度の差はあれ、大抵の人間が習得している技術である。












 街は暮れなずむ。

 既に十九時にも近く、眩い光は消えたものの、未だ夜の空気に移り切らない。

 雑踏の中、徹は標的を追っていた。

 さほど苦労はしない。何かに集中しているのか、周囲を警戒する様さえ見せないのだ。道行く人々が避けて行ってくれるおかげで移動そのものも楽だった。

 逸る心を押さえ込む。せめて人気のないところでなければならない。明確な証拠を見せるのを待つべきなのかもしれないが、気づいた以上は一日たりとも放置すべきではないと徹は考えていた。

 不意に、標的が道を折れた。追えば民家に挟まれた細い路地を右に左に行き、やがて雑木林が姿を見せたかと思うとその中へ入っていった。

 まさに何か人目を避けたいことを行おうとしているのか、あるいは気づかれて誘われているのか。

 判断はつかなかったが、ここまで来て乗らないわけにはいかない。警戒しながら徹も足を踏み入れると、人の足で踏み作られた道はあった。

 そして視界はすぐに開けた。

 小さな神社だ。清潔に整えられてはいるが人の姿はない。

 正確には、拝殿へと向かう石段の前で何かを探してか周囲を見回している標的だけがいた。

 油断していたつもりはなかった。だが、視線がこちらに吸い付いた。

「……こんなとこで何やってんですか?」

 ぎょっとしたような表情に困惑も乗せて彼はそう言い、改めてまた別種の驚きを見せる。

 観念して徹も進み出た。

「それはこちらの台詞だ。こんなところに何の用があるんだ?」

「いや、俺は……」

 少年は気まずそうに視線を逸らす。落ち着きなく、全身が細かに揺れていた。

「後で報告するんで今は見逃してもらえませんか? 急いでるんで……」

「そうはいかない。私は君に用がある」

 徹はゆっくりと近づく。

<剣王>ソードマスターを斃したのは<妖刀ムラマサ>だと、つい先ほど判明したそうだ。にもかかわらずなぜか君は今朝から知っていた。以前にも<王者チャンプ>が<横笛フルート>に加わったと君から聞いたな」

「それは……」

 苦悶にも似た複雑な表情を浮かべる少年に、徹は畳み掛ける。

「君は裏切ったのか、それとも元から情報の攪乱が目的で騎士派に入り込んだのかね?」

「違う! 俺は……」

 激昂しかけ、それでも少年は押さえ込む。

「……話は後で聞きます。今は急がないといけないんだ」

「逃すと思うか?」

 去ろうとした少年の足元に雷撃を打ち込む。

「私は騎士派を守らなくてはならない。君は消す」

「違う、スパイは俺なんかじゃ……」

 否定の言葉が途切れた。

 徹はクラウンアームズである戦鎚『ミーティア』を顕現させ、じりじりと迫る。

「では君以外の誰がスパイだと?」

 少年は答えなかった。見開いた目でこちらを見て、笑いたいような泣きたいような表情でゆっくりとかぶりを振った。

 そして歪んだ顔のまま構えた。

 徹は踏み込む。紫電が放射され戦鎚が振り上げられた。

 対して少年は開けた掌を徹へと向けた。超出力の光の奔流による、得意の攻撃だ。

 だが光は放たれない。構えた手が震えていた。

 撃てるはずがないのだ。少年は技術が出力に追いついていない。器用に敵だけを撃つ術がない。このまま水平に攻撃を放てば射線上の民家まで灰燼と化してしまう。

 だから一拍遅れて、背を向け逃げようとした。

 その一拍が命取りだった。少年の心情に気づかぬ徹にとってはただの好機。戦鎚によって肩から胸を叩き潰していた。

 内包する潜在出力が極めて豊富である少年は生命力にも恵まれている。それだけでは死なない。当然のように徹は幾度も戦鎚を振り下ろす。死ぬまで続ける。逃がしなどしない。少年を指導していたのは徹自身なのだ。

 少年は死んだ。無念と後悔と、最後の瞬間は絶望を浮かべて死んだ。

 死した<魔人>の肉体は塵も残らない。

 夜の帳が落ち、後には戦鎚を手にした徹と、もう一人だけが社にあった。






 十代後半、いつもは闊達な雰囲気の少女。

 彼女はいつからいたのだろうか。

 徹が少年に仕掛けたときには姿はなかったはずだ。

 徹は少女を知っている。それなりに優秀な疾駆方ダガーであったように思う。騎士派では特に珍しい女性の<魔人>だというのに、あまり目立たない印象である。

 名を上月茜と言ったか。騎士派全ての名を覚えている自信のある徹も少しあやふやだった。

 そして彼女は少年の恋人である。

 茜は無表情にこちらを見ていた。

「何してんの?」

 声も平坦だ。目の前で恋人が叩き殺され、現実感をなくしているのか。

「君には悪いが、こいつはスパイだった。諦めてくれ」

 徹は彼女につらい光景を見せてしまったことを後ろめたく思うも悪びれない。

 騎士派を守るための汚れ役を全うできたのが清しくすらあった。

「スパイなんかじゃねーよ」

 無表情のまま茜がぽつりと言う。

 そういえば口が悪かったような、と思い出しつつ徹はかぶりを振った。

「信じたくない気持ちは分かるが、事実だ」

「理由ならある」

「いや、だからね……」

 彼女の言葉を半分流しながら、どう宥めすかしたものだろうかと徹は思案に暮れていた。

 だから茜の表情が変化してゆくことに気づけなかった。

 唇が大きく横に引き伸ばされ、端が釣りあがってゆく。目もきゅうっと細められた。

 心底愉しげな、おぞましい笑顔だった。

「スパイなのはあたしだからだよ、ブァァァァァァァカ」

 何を言っているのか、すぐには理解できなかった。

 脳髄まで浸透してもまだ、幻聴であったように認識していた。

「何を言っているんだ、君は」

「情報の収集とばら撒きのために騎士派に入り込んだのはこのあたしだっつってんだよアホが」

「何を馬鹿な……」

 足と指の先の感覚がなくなった。次いで、頬と背が冷たくなった。

 そんなことはありえない、あってはいけない。この二言だけが脳裏を巡る。なぜそうであってはならないのかの答えは出さない。そんな恐ろしい答えを出せるわけがない。

「あいつは<王者チャンプ>が<横笛フルート>に加わったと嘘をばらまいた!」

「そらーあたしが吹き込んだからなァ」

 にやにやと、茜。

<剣王>ソードマスターを斃したのは<妖刀ムラマサ>だと知っていた!」

「それもあたしが吹き込んだからに決まってんだろ」

 にやにやと、茜。

「あいつは……!」

 必死に彼が間諜である理由を探すものの、そもそも思いつく事柄がその二つしかない。

「あいつがスパイなんだ、そうだろう!?」

 目を剥き、間の抜けた同意を求める。

 無論のこと、少女は否定するのだ。

「いい加減認めろよ。ジンセー諦めも肝心だぜ?」

 茜は本当に愉しそうだった。口元を引き締めようとしては失敗して緩ませている。

「恋人補正は凄いなァ。ちょっとやそっと怪しいこと言ったくらいなら自動的に気のせいだと思ってくれるし、いくらなんでも怪しすぎること言ってもとりあえず自分で確かめてからーって、上に相談しないでいてくれるんだもぉんなァ」

 理解したくないのに分かってしまう。

 彼女は虚言をばらまく際の囮として少年を使ったのだ。騎士派らしからぬ超出力を有する少年は、否が応にも目立つ。上月茜という存在を霞ませるのにうってつけだったのだ。

 現に徹は彼女のことを今まで思い出しすらしなかった。疑う以前の問題である。

「おかしいと思わなかったのかねェ……今までバレずにやってきたようなデキる奴が、<妖刀ムラマサ>なんて不自然な情報をうっかり漏らすわけねーだろ? どんな恐るべきドジっ子だよ」

 奥歯が鳴る。震えが止まらない。自分が何をしたのか、目を逸らすのが得意な徹にもこれ以上自分自身を誤魔化すのは不可能だった。

 そして答えは少女が、いっそ優しく告げる。

「あいつはあたしに利用されてただけの、かわいそうなピエロさ。かわいそうにかわいそうに、教育係に殺されちゃいましたとさァ」

「貴様が騙したんだろうがッ!」

「そだよー?」

 茜の声は軽い。

「でもさー、あんた演出してるほどアタマ良くはないけど、並くらいはあるじゃん? でもって年食ってるじゃん。なーんであんな変な餌にひっかかるかなァ? や、引っかかりそうだとは思ってたけどね?」

「待て」

 食いしばる。今一度、徹は恐慌を起こしそうになっている自分を押しとどめた。

「ならばあいつはなぜはっきり弁明しなかった!? 途中で戦闘態勢になったのは言い訳できないことがあったからだろう? 大人しく捕まってから疑いを晴らせばよかったはずだ!」

「いやいやいや」

 失笑。まさに鼻で笑い、口の端に笑みを残したまま茜は大げさに手を振って見せた。

「さっきも言ったじゃんか。恋人であるところのー、あたしを守ってくれようとしたわけだ。まずは自分自身で真偽を確認しようって、ここまで追いかけてきてたわけ。でもって抵抗したのは当たり前だろ? まさか自覚ないの、あんた?」

 言わんとすることが徹には分からない。誤魔化しではなく、本当にまったく分からない。自分は間諜を始末しに来ただけだ。それ以上でも以下でもないのだ。

 茜はもったいぶるように、顎に人差し指を当てて小首を傾げると脈絡の見えないことを言い出した。

「<無価値ベリアル>のクソヤロー曰く、『誰かにお願いを聞いて欲しいなら、その人が嫌がることをするのではなく、むしろ望みを叶えてあげましょう』」

「また<無価値ベリアル>か!」

「うぃうぃ、ご存知クソヤロー。地獄に落ちろごーとぅへるって言ってやりたいとこだがよ、元から住処が地獄で意味がねえ。あたしとしては人の嫌がることする方が好きなんだけど、今回のこれは奴のプロデュースなんさァ」

 ころころと表情が推移する。おどけるように、それから憎々しく、皮肉げに笑って最後はやれやれと言わんばかり。

「あんたは手柄が欲しかった」

 どきりと心臓が跳ねた。

「最近いいとこなしだからね、<騎士姫>や筆頭騎士マスターナイトは仕方がないとしてもそれに次ぐ、騎士派三番目の立場は固守したかった」

 聞き続けるべきではないと分かってはいた。恐ろしいことを口にするのだと察してはいた。

 だからこそ聞かずにいられない。そうしなければ否定することもできない。

「とはいえこれは補強要素に過ぎない。なぜならスパイを見つけてみせるだけでなんか切れ者っぽい演出はできるからだ。普段のあんたなら多分そうしていた。疑った相手があいつでさえなきゃあなァ」

「あいつに何の関係が……!」

「あんたは排除の機会と名分を逃せなかった」

 一枚、そしてまた一枚。巧妙に本心を包み隠していた欺瞞が剥がされてゆく。

「期待の新人、未来の砲撃方筆頭マスターボウ。自分の立場を脅かすあいつのことが、あんたは恐ろしかった、憎らしかった。せっかく得た地位を失うのが怖かった」

「何を証拠に……」

「さっきの、あいつがどうして釈明せずに迎撃体勢を取ったのかの理由、教えてやるよ」

 茜が笑う。たっぷりの悪意を込めて、最初の笑顔と同じものを見せる。

 耳にする前に分かってしまった。因と果が脳内で結ばれてしまった。

「待て……」

「あんな素晴らしく嬉しそうな顔で殺すって宣言されたら、何言ったって無駄だと思うだろー」

「嘘だ!!」

 その否定こそが嘘である。

 少年の奇妙な表情を覚えている。あの泣き笑いのような顔を覚えている。

 だが、徹は繕おうとすることをやめない。

「そんな出まかせ、いくらでも言える! 俺は証拠を出せと言ったんだ!」

 替わりに口調が素に戻った。

 茜は笑みを納めない。

「証拠、ねえ……」

 わざとらしく小首をかしげながら右手の人差し指をゆっくり揺らす。

「そういやあんたさー、騎士派メンバーの名前、全員覚えてるんだって? あいつが言ってたんだ」

「……そのはずだが」

「で、あいつの名前言える?」

「もちろんだ」

 何を馬鹿なことを言い出したのかと薄い嘲笑を浮かべ、徹は反射的に頷いた。

 そして記憶を探る。

 顔から探る。

 人間関係から探る。

 似ていたような気がする響きから探る。

 もう一度、顔から思い出そうとする。

 度忘れだろうか。

 騎士派は二百名以上いる。思い出すのには時間がかかる。

 茜と目が合った。

「あれあれどーしたのかなー」

「待て、待て待て! 知ってる! 知ってるはずだ!」

 全員を覚えているというのも一応は演出の一つであるが、元から得意ではあった。覚えていないはずがないのだ。

 覚えないよう企図してでもいなければ。

「これもあいつが言ってたんさー、自分の名前覚えてくれてないんじゃないかって。ってかマジ? ほんとに覚えてねーの? すげえ! 言ってみただけなのに。え? マジで!?」

 茜が手を叩いて囃し立てる。

 全身が震えた。もはや怒りなのか羞恥なのか判別がつかなかった。

「それで、何をやりたいんだお前は? どうして俺の前にわざわざ出てきた?」

 出た声は、冷えて乾いていた。少女を見る目も凍てつき果てていた。

 茜の笑みの質が変わった。

「殺る気になったか。あたしを殺せば、あとは帰って適当に誤魔化せばいいって?」

 言うとおりである。ここで起きたことを知っているのは己と少女のみ。始末してしまえばあとは何とでもなる。

 そう徹は考え、茜は一笑に伏した。

「アホだなー」

「何を」

「四辻圭が、あの<門番>ゲートキーパーが気づかないとでも思ってんのか?」

 あくまでも軽い口調だったというのに、徹は声を詰まらせた。

 かつての騎士派、全盛期と評すべき時期を覚えている。

 エリシエルの志向性、カリスマ性。猛の戦場勘と制圧力。そして圭の文武に及ぶ調整力。

「やー、こっそり見ててびびったね。筆頭騎士マスターナイトってば超有能じゃん。こっちの予定の倍の早さで事件片付けちまってさ、おかげでこんな雑なことする破目になった。自分がどんだけ危ないことやってたのか肝冷えたー」

 茜が哀れむように、溜息めいて告げた。

「断言してやる。すぐに気づかれるぜ。ありゃあんたなんぞとは身を置いてるステージが違う」

 これが他の誰かについてであったなら笑い飛ばせただろう。だが四辻圭という男にだけは当てはまらない。

 さすがはケイだ、と何度口にする機会があったか。ついには口癖と化し、何の違和感も覚えなくなってしまった。

 誰もが見落としていたことにあっさりと気づく。結果的に正しい行動を行う。目の前の少女を今まで見過ごしていたようにすべてを見通せるわけでこそないが、やがては真実に至る。

 気づかれる。間違いなく。

「……ケイならきっと許してくれるはず」

 そのはずだ、かつて出会ったときも許してくれたのだ。

 自分に言い聞かせるも、即座に否定がなされた。

「ねーよ。騎士派が許さねー。公明正大、清廉潔白が身上だぞ? 嫉妬による冤罪からの殺害とか、筆頭騎士マスターナイトとして、無罪放免って沙汰下すわけにゃいかねーだろうよ」

 ぎり、ぎり、と奥歯が鳴る。少女の目に映るほどに身体が震えた。

 昔を思い出す。

 邪魔者むすめが殺されたとき、アルコールによるいい気分が吹き飛ばされたとき、何を思ったか。

 警察が来る。マスコミが来る。かなりの時間を拘束される。生活が暴き立てられる。過去も明らかにされる。

 自分の行っていたことが育児放棄かそれに近いものであるとは承知していた。罪に問われるか否かまでは分からなかったが、どちらにせよそれ以前にまずいのはマスコミだ。幼い子供が殺された。その父親の人物像やいかに。飛びつかずにはいられないはずだ。そして煽りに煽った見出しが踊るのだろう。

 周囲の目が変わる。あの軽蔑のまなざしがまた向けられる。

 ふざけるな。どうして俺がそんな目に。

 耐えられるわけがなかった。

 だから<魔人>になったのだ。姿と名を変え、しがらみを断ち切ったのだ。

 それでも不安は尽きなかった。

 誰かが気づいてしまうかもしれない。ひょんなことからばれてしまうかもしれない。

 ならば、美しい理由を作ればいいのだ。

 自分は娘の仇を討つために<魔人>となった。好都合にも犯人はまだ捕まっていない。自分は今までの己を悔い、愛に目覚めて復讐を誓ったのだ。

 この美しい物語ならば、設定ならば、仕方がないだろう。人を捨てて<魔人>となるのに相応しいだろう。

 そして四辻圭と出会った。

 圭は、悔やむべき過去から生まれ変わった兼任徹という設定にうまく乗ってくれた。そして仲間に勧誘してくれさえした。

 すべては順調に進んでいたはずだった。騎士派は堅苦しく暑苦しいが、<魔人>としての徹の力量と最年長ということとで大抵の相手が立ててくれた。

 騎士派が今の徹の安寧の場であることに偽りはなかった。圭とエリシエルが自分の後ろ盾となってくれる存在であり、守護者であるという思いに嘘はなかった。だから何よりも大切な自分と同様に信じるべき三つであったのだ。

 その安らぎを、目の前の腐れ女が奪ってくれた。

「よくもやってくれたなクソガキがァッ!」

 すべての仮面をかなぐり捨て、軋むほどの憎悪を徹は吐いた。

 怒りからこぼれた紫電が境内の樹を焼いた。

「楽には殺さんぞ貴様……死ぬまで指先から順に叩き潰し続けてやる……!」

 雷光は少女にも伸びた。

 しかし茜はそれを片手で払うと、徹の憎悪を受けて立つに相応しい、実に人を小馬鹿にした笑みを浮かべた。

「いいねいいね、やっぱゲスにはゲスらしい顔が似合う。とはいえあたしは別にあんたと殺し合いたいわけじゃない。勧誘に来たのさー」

「ほざけカスが!」

「おっと」

 少女の姿を雷は捉え損ねる。恐るべき速度で掻き消え、石段下の鳥居の上に現れていた。

 騎士派で見せていた力は当然のように擬態だったのだろう。疾駆方筆頭マスターダガーである一輝にもそうそう劣るとは思えない速さである。

 しかし、放たれたのは裁きである雷なのだ。

「ってーな、やっぱ避けきれねーのか」

 舌打ち一つ、茜は少しだけ不機嫌そうな顔を見せてから、気を取り直して呼びかけてきた。

「毒食わば皿までっつーだろ、乗るかどうかはあんたの好きにすりゃいい。とにかく<横笛フルート>に来な。あんたはその方が幸せになれる」

「ああ、貴様をブチ殺してから考えてやるよ」

 直線と、弧を描いての四つの雷。

 茜はまたも跳んだ。今度は短い石段を登った先の、拝殿の前だ。雷は鳥居に掲げられたこの社の名を破壊するにとどまった。

「あんまり暴れると見つかるぜ? 人が来るかもしれねーし、騎士派の誰かが来るかもなー。雷撃使いなんて珍しいから即バレだ。正直あたしはあんたと心中する気はねーんだよ。次攻撃してきたらもうやだ逃げるー」

「クソが」

 煮えた頭が自制を取り戻した。

 今すぐにでも殺してやりたいが、そううまくはいかないことも理解できていた。

 速さを求める<魔人>は多い。それは速度にこそ強さと格好良さとを求める少年が多いからではあるのだが、実戦に際しては彼らの空想とは別の強みが生じる。

 速度と機動力に大きな差がある場合、勝る方に戦う気がなければそもそも戦闘にならない。逃げられぬ状況でない限り、あるいは劣る方に逃さぬすべがない限り、背後から一撃をくれてやるくらいが関の山だ。

 まさに今のこの状況である。

 茜が声を立てて笑った。

「まあ聞きな。あんたは既に詰んでる。早く逃げとかないと捕まる。逃げても結局は日本中に<竪琴ライラ>がいて、結局逃げ場なんてない」

「貴様のせいでな」

「いや悪かったよ、反省してる」

 口だけである。むしろ愉しそうに茜は続けた。

「で、あんたの<魔人>としての一番の長所って何なのか自覚してるか? さっさと答え言っちまうが、あんた強いというか、多分<魔人>としての素質が高いんだ」

 徹は少しいぶかしげに眉を顰めた。

 強い。それは分かる。仮にも砲撃方筆頭マスターボウなのだ。

 しかし素質が高いとはどういうことなのか。

 散々虚仮にされたせいで飢えていた自尊心がどうしようもなくくすぐられ、興味が湧いた。

「どういうことだ?」

「<王者チャンプ>とあんたの試合は見てたよ。あんたの<轟雷>ミヨルニルも見た」

 それが強い、と言われるのかと思った。

 しかし茜が口にしたのはまったく逆のものだった。

「あのショボい凌駕解放オーバードライブがあんたの素質の高さを証明してるんじゃねーかと思うわけだ」

 徹は何も言わない。この娘が迂遠で煽るような会話を好むことをさすがに察したのだ。茜に対する怒りと憎悪がなくなったわけではないが、益体もなく攻撃性を発揮するよりは、これからの身の振り方を頭の半分で計算しながら彼女の次の言葉を待った。

凌駕解放オーバードライブってのは使える奴が稀にしかいないせいでまだよく分かんねーんだが、使えるかどうかは望みの強さに、効力の強さは地力が関わってるって見方が濃厚だ。ところがそれが本当なら、なんであんたのはあんな強いだけの雷撃なんだろーな? 白兵方筆頭マスタークラブが使おうとしてたらしいやつは何か知らんけどメチャクチャやばそうだったみたいなのになァ」

 言われてみればその通りではあった。徹としても聡司に力が劣っているつもりはない。

 くすぐられた自尊心に火がついた。

「つまりあれは俺の本来の凌駕解放オーバードライブではない、と?」

「あれはあれで上っ面では望んでなくもないんだろーがね、あんたはあんなお行儀のいいタマじゃねーだろ。自分が一番大事、後は自分にとって都合がいいか悪いかだけ。それが騎士派万歳<騎士姫>万歳平和万歳そのためなら私死んでもいいです、ってもうギャグだろ。けどなー」

 茜が囁いた。彼女の言葉を聴こうと耳をそばだてている徹にはそれでも聞こえた。

「そんな上っ面だけの思いで、ほとんどの奴らが必死になっても至れない凌駕解放オーバードライブを使えちゃってるわけだ。必ずしも素質とは限らんけどさー、何かはあるだろ。妥協とかしないでさ、思いっきり本音で生きてみなよ。あんたはきっと、もっと強くなるはずだ」

 いつしか、少女の声が色香を帯びていた。先ほどまでの、むしろ粗野ですらある少年めいた響きからの落差が徹の背に官能を走らせる。

「もう一度勧誘するよ。<横笛フルート>に来なよ。あそこはもう、強さが偉さの実力社会さ。その中でのし上がってみたいとは思わない?」

 口調そのものもやわらかく、甘くなっていた。

「危険だな」

「でも状況が詰んでる今ほどじゃない」

 茜がゆっくりと石段を降りてきた。

「競い合うのさ。力と策略で頂点を目指す。あんたなら今ですら一派閥のトップは張れる。強くなったなら、どこまで行けるだろうね。<王者チャンプ>自身はともかく、嫌いじゃないだろ、ああいう存在はさ。なってみたくは、ないかな?」

 こつこつと少しずつ近づいてくる足音を聞きながら、徹は大学時代を思い出していた。

 楽しかった。馬鹿なことをやった。楽しかった。楽しかった。

 仕切っていたのは自分だった。何もかもをうまく捌けたわけではないが、それすらも楽しかった。

 一万円で本州縦断を試みたこともあった。一週間で女を落とせた回数を競った。台風が近づいているときにサーフィンをやってみて、危うく沖へ流されるところだった経験も。すべて、中心は自分だった。

 楽しかった。楽しかった。楽しかった。

 決して忘れていたわけではない。諦めていただけだ。人生の落伍者となってしまった以上、人が付いて来ないからである。

 しかしよくよく考えてみれば、それはただの人間だったときの話だ。

「できるさ。あんたの目の前には今でも無限の可能性が広がってる。何だってできるのさ」

 まるで読んだかのような茜の言葉も気にならない。

 彼女は石段を降り切っていた。

「あたしが憎いかな?」

「憎いね」

 徹は改めて少女の姿を観察した。

 はっとするほどの美人、というわけではない。ただ、素っ気ないスキニージーンズの脚線美が妙に目を引く。

 そしてそれ以上に、こちらを見つめてくる視線が毒と誘いを帯びてあった。

「あたしは腕に自信がある。人を侵す悪意にはもっと自信がある。あたしをどうにかできるのは、あたしよりも強い男だけさ。あんたは……」

 きゅうっと、くちびるが大きく弧を描いて笑みを形作る。

 悪意、と彼女は口にした。年に似合わぬ色香が示唆するように、見た目通りの年齢ではないのか、あるいは多くの闇を見てきたのか。

「あたしを蹂躙したい?」

 震えるほどの背徳感。劣情が徹の総身を満たした。

 女とは随分とご無沙汰だ。騎士派にいて、砲撃方筆頭マスターボウという立場にあってそういう遊びなどできようはずもない。

 この性悪でふてぶてしい女を泣き叫ばせたならどれほど爽快だろう。

「なら来なよ。勝ち抜いて、生き抜いて、あたしのところまで来なよ」

「行ってやるとも」

 自然と口にしていた。

 力でもって男たちを薙ぎ倒し、女たちを捻じ伏せる。暴力の理とせいくらべの誘惑を受け入れた。

 どうしようもないほどの疼きと昂揚があった。失ったものを取り戻した喜びに震えた。

 そして物語が作り上げられる。慣れたもの、というよりももはや自動的である。

 その中で、徹はひとつだけ目を瞑った。そうしたかったから、己に騙された。

 頭の隅をちらりと過ぎった懸念に、気づかなかったことにしたのだ。








 人を騙すときに重要なことは何だろうか。

 慣れぬ者はまず、たった一つを心がければいい。

 自分を騙す。これは事実であると信じ込めばよい。味方からでは生ぬるい。

 それは自信を生み、詭弁を作り出す。その過程で嘘と事実は適度に混ぜ合わせられるだろう。

 偽りが真実の響きを帯びるのだ。

 必ずしも悪ではない。厳しい環境への適応や本能的な恐怖に立ち向かう勇気も、これと似ている。

 程度の差はあれ、大抵の人間が習得している技術である。

 しかし忘れてはならない。

 自分を、騙すのである。自分に騙されてはならない。

 手綱を放してしまったならば、待っているのは破滅であるのだ。





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