第4話 南雲も怜も初任者だ
外は、4月らしい暖かな日差しが降り注いでいた。
時折吹きつけて鼻先をかすめる風は、雑多な香りを含んでいる。
濃い葉の匂いや、どこか甘い匂いは体育館裏手にある立見山からの香りだろう。そして、わずかなアンモニア臭は学校周辺の田畑で使われる肥料だろうか。
空気の香りと言えば排気ガスだ。川と言えば、側溝だった。
この町に来て、初めて舗装されていない川を見た南雲は感動した。怜に聞くと、もう少しして水稲用の水がくれば、フナやめだかが泳ぐのだという。
「都会の人は変なものが珍しいんですねェ」
怜にそういって感心されたりもした。
「おはようございます」
怜も
つい1週間前から働き始めているが、大学時代からボランティアとして学園内に出入りしているせいか、南雲とは馴染み方が違う。2年や3年の生徒とはすでに顔見知りのようで、生徒たちからも慕われていた。
二人は、煉瓦張りの中庭を通り、職員室のある北館へ向かって歩いていく。放課後ともなれば、サッカー部がアップ練習に使う場所だが、ホームルーム前の今は閑散としていた。
「担当の1年の顔はだいたい覚えはりました?」
怜は顔を上げ、隣を歩く南雲に声をかける。南雲は曖昧に笑う。
「なんとなく、ですかね。名前は覚えているんですが」
「1年の全クラスですか?」
怜は目を丸くするが、全クラスと言っても各学年、普通学科、スーパーサイエンス学科、国際学科の3クラスしかない。しかも1クラス25人だ。公立小学校で臨時教員をしていた時は、35人のクラスが学年で6クラスあった。
名前を覚えていない教員は、児童からは信頼されない。
先輩からそう言われてきたせいか、南雲はこの私立中学校に赴任した時も、名簿を確認してその日のうちに名前とクラスはすべて覚えていた。
「5月の連休に入るまでには、顔と名前は一致させます」
にこりと笑って南雲は答える。怜は感心したようにその顔を眺めていたが、「私も頑張ろう」と拳を握る。
その仕草がなんともまた、かわいらしい。童顔のせいか、まだ十代後半の大学生のようにさえ見えた。
小学校教員時代は、周囲の同僚はほぼジャージだった。女性も男性もスーツやかしこまった服装をしているのは、『参観日』と決まっていた。
この学校に赴任し、驚いたのは教員の服装だ。女性は基本スカートを履いているし、男性は体育教師以外はスーツにネクタイだ。スーツ自体そんなにもっていない南雲にとって、明日の休日は衣類の買出しに充てると決めていた。
北館の集合下足室に向かうにつれ、学生の数も増えてきた。
南雲や怜の姿を見ると、どの生徒も几帳面に頭を下げる。制服も規則どおりにきっちりと着こなし、南雲が中学時代にいたようないわゆる『不良』と呼ばれるような生徒はいない。私立の生徒はみんなこのようにお行儀がいいのだろうか。南雲は初日からずっとそう思っていた。
生徒たちに混じって集合下足室に入ると、日のあたらない屋内のせいか、ひやりとした空気が南雲の首筋を撫でる。生徒たちのざわめきや、下足室の臭気、安物の制汗スプレーやヘアスプレーの匂いが鼻腔をかすめた。
南雲は下足室の一番北側にある職員用の靴入れに歩み寄った。一瞬自分の場所がわからなくなるが、怜の隣りに自分の館内用クロックスを見つけて手を伸ばす。
「あ。お兄ちゃん」
一足先に上履きに履き替えた怜が、横でそんな声を上げた。クロックスに履き替えた南雲が顔を上げると、すぐ側の廊下を怜の兄であり、理事長の
「今から職員室?」
歩み寄る怜を一瞥し、
「校内では、理事長と呼べ」
はいはい、と聞き流す怜を惟は困ったように見下ろしている。年の離れた妹の扱いに困っているようにも見えた。
初めて惟に会った時、何か武道をしているのか、と南雲は思った。
実際、剣道四段で、柔道でも黒帯所持者らしい。引き締まった体は肩幅も上背もあり、立ち姿には威圧感さえあった。小柄な怜とは兄妹とは思えないほどで、精悍な顔立ちも怜とはあまり似ていない。
南雲と目が合うと、軽く会釈された。慌てて南雲も頭を下げる。上司である上に、年齢も4つほど上だ。
「朝錬が終わったのか?」
怜と並んで歩きながら惟は声をかける。彼の言葉も訛りが少ない。職員室で聞いた話によると、彼は関東の大学出身なのだそうだ。
「新人戦に向けて意気込んでるのは、私と部長の
怜はそう答える。自分でも自覚はあるらしい。後ろをついて歩きながら、南雲はひっそりと苦笑した。
「剣道部はどうですか」
惟が不意に振り返って南雲に話しかけてきた。南雲は驚いて目を見開いたものの、
「少ないながらも真面目に取り組んでいます」
と返答した。惟は満足したらしい。そうですか、とうなずいて校舎一階東側にある職員室まで歩いていった。
「兄は、この学園の剣道部やったんです」
ちょこちょこと南雲の隣りに移動した怜が耳打ちする。それを聞いて最初に思ったのは、「だったら、剣道部の顧問をしてくれよ」だった。全くの素人の自分より、彼の方が絶対に専門的指導ができるだろう。
「藤先生は?」
南雲は尋ねた。兄の惟がしていたのなら、彼女がしていてもおかしくはない。だが、怜は唇を尖らせて首を横に振った。
「私は、女だからせんでもええ、って言われて」
剣道部に入れてもらえへんかったんです。そう言う怜を、南雲は不思議そうに見る。随分と時代がかった話だ。
がらり、と。
惟が職員室の引き戸を開く。グラウンドから遠いせいか、それとも小学校ほど生徒が砂を持ち込まないせいなのか。この学園の職員室の扉はスムーズに開く。南雲がつい数週間前まで勤めていた小学校の職員室の扉は、スライドさせると、やけにがりり、とひっかかる音を立てていた。
「おはようございます」
藤兄妹に続き、南雲も挨拶をして職員室に入る。職員室のそこかしこから、それに応じる声が聞こえた。入室した途端、ふわりとコーヒーの香りが南雲を包む。
「では」
怜が南雲に声をかけ、2年部の自分の机の方へ歩いて行った。南雲は顎を引くようにして頷くと、1年部の自分の机に向かう。自席の近くで立ち話をしていた国際交流課の外国人講師たちが南雲に気づき、軽く手を上げて席を譲る。南雲も応じながらイスを引いて座った。
鍵を開けて机からパソコンを取りだし、教科書や副教科本を取り出していると、隣の席の数学教師が声をかけてきた。
「大分慣れはりましたか?」
南雲は笑顔を浮かべてうなずく。今朝だけで、何回似たような会話をしただろう。どうやら自分は随分と頼りなく思われているらしい。
「うちは進学校やから、公立から来た先生は戸惑ってやと思うわ」
初老の数学教師はそう言って、やけに大仰に頷いている。南雲はあえて何も言わず、同じように頷いて見せる。確かに、入学式の次の日から、朝学習に続けて六時間目までびっしり授業があることには驚いた。おまけに、進むスピードが速い。中高一貫校なのだが、高校2年2学期時には高校3年生までのカリキュラムをすべて終わらせるように言われている。
南雲は初任者ということで中学校1年生の社会科のみ請け負っているが、今後は高等科への異動もある、とは聞いている。
「ま、ぼちぼち頑張ってください」
数学教師は手作りらしい学習指導要綱ノートに再び目を落とすと南雲にそう言った。
「さて、頑張りますか」
南雲も小さくそう呟いた。
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