9.爛漫

 彼女はいつも、太陽の花のように笑っていた。絶世の美女というわけではなかったが、愛嬌があって、みんなから好かれていた。特に彼は、彼女の浮かべる無邪気な笑顔と、いつでも明るさを失わない姿勢に、誰より強く惹かれたのだった。

 彼が好意を自覚してから、戸惑いながらも彼女に寄りそうようにしていたためか、恋仲になるのに時間はかからなかった。好意が強い結びつきに変わったそのときから、彼女はより明るく笑うようになった。

『ねえ、来てちょうだい。このお花、とってもいいにおいだわ。香薬にできないかしら』

 森の脇道に咲く草花を指さしながら、はしゃぐ彼女の姿を、よく覚えている。時にその勢いのよさに振り回されながらも、彼はその日々を間違いなく幸福と感じていた。

 永遠に続くものだと思っていたのだ。

 あの日の空も、それを思わせるほど鮮やかな青だった。

 けれどその日、彼女は、借りた小屋の窓から、不安げに空を見上げていたのだ。

『ねえ。なんだか空気が湿っぽいわ。雨が降らないかしら』

『雨? こんなに晴れているのにか』

 彼をはじめ、仲間たちがそれはないだろうと、いつもの明るい調子で言うと、彼女も笑って「そうね」と言った。彼女はもともと、物事を気にしすぎるきらいがあったし、本人も最近はそれを自覚しはじめていたのだ。だから彼女も、彼女のまわりの人も、このときの予感を、重要なことだと思わなかったのだ。

 昼を過ぎ、まっ黒な雲がわきだすまでは。

 地上さえも黒く染め上げるほどの雲は、すぐに水滴を落とした。水滴は見る間に豪雨へと変わった。そして、彼女が湖畔で足を滑らせた瞬間、彼ははじめて後悔した。


 どうして、みんなに外に出るのをやめようと言わなかったのか。

 どうして、雲が増えてきたときに、引き返そうと提案できなかったのか。

 どうして、自分だけでも彼女を信じてやらなかったのか――。


「ソニア!」

 伸ばした手は届かずに。

 小さな体は、どす黒い水の中へと沈んでいった。



     ※

     

     

 ナーラは、重い扉をそっと閉めると、廊下を歩きだした。石造りであるせいか、細い通路はひんやりしている。明かりはぽつぽつと灯された蝋燭と、小窓から注ぐ白昼の明かりだけ。かえって明かりが不安をあおるような場所だ。

 靴音が、やけに反響している。自分の心臓の音も外に聞こえているのではないかと、思わせるほどの静寂だった。

 しばらくして、彼女は、鉄格子の前に立つ。鉄棒をにぎった手が、細かく震えた。わずかに翳って見える内側はけれど、彼女の想像していたような、陰惨な場所ではなかった。寝台と、小さな卓が備えられている。角灯だろうか、明かりをともせるものも見えるが、今はがともっていない。中にいる人が頼めば、体をふくものを持ってきてもらえたり、別の場所で排せつをさせてもらえたりもすると聞く。

 彼の状態を考慮しての待遇、といえば聞こえはいいが、あまり過酷な環境に置いてさらに狂われても困る――というだけだろう。ナーラは、胸がきりきり痛むのを感じた。

「ヴィダル」

 詰まる喉へむりやり空気をとりこんで、揺れる声で名前を呼ぶ。鉄格子の向こう、薄い闇の凝る場所で、濃い影がのそりと動いた。うつむいていた顔が上げられ、くらい瞳が彼女をとらえる。

「ナーラ……?」

 ヴィダルは、うつろな声で彼女を呼んだ。ナーラが大きくうなずいてみせると、目をみはる。そのときやっと、彼らしい理知的な雰囲気が感じられた。

「君が、来るとは思ってなかった。しかも一人で」

 暗い所、嫌いじゃないか。そう続いたヴィダルの言葉に、彼女は思わず舌を突きだしていた。

「そりゃあ怖いけど! 心配してきた人に、その言い草はないじゃんか」

「ごめん、ごめん」

 変える声は、さざ波に似て穏やかだ。けれど、以前のような明るさはない。ナーラは、目を伏せた。蝋燭の光すら、わずらわしいほどまぶしく思える。

――事件の顛末を聞いたときには、頭がまっしろになった。どうして彼が、と思った。なんでそんなことをしたんだと、心の中でなじりもした。同時に、今まで気付けなかった自分が、憎らしかった。

「ヴィダルがソニアを本当に想ってたことは知ってたし、ソニアが亡くなったときにすごく悲しんでたことも知ってた。けど、竜に手を出すまで思い詰めてるとは、思わなかった」

 声は返らない。しかし、息をのむ音がした。ぎゅっと鉄格子をにぎる手に力をこめれば、わずかにかたい音がした。

「ごめんなさい。もっと、ちゃんと……話をすれば、よかった。私、きっと、逃げてたんだわ。ソニアが死んじゃったことからも、ヴィダルからも」

 格子の前でうなだれる。闇の奥から、布のこすれる音がした。

「ナーラが謝ることじゃない。僕が愚かだったんだよ。甘言に踊らされて、事実無根の言い伝えにすがって……あげく、自分が毒に侵されてるんだから。笑い話にもならない」

「ヴィダル」

「今はこうしてナーラと話ができてるけど。多分、狂ってるときの方が多いんだ。ありもしないものを見て、それに振り回されている。頭のどこかでわかっていても、そのときは、それが現実だと思っている。……こんな奴に、心を傾けすぎない方がいい、ナーラ。危険だから」

 ナーラははっと、顔を上げた。うっすら見えるヴィダルの顔には生気がない。頬がこけ、目の下に隈ができている。瞳ばかりがぎらぎらと光っていた。――それでも、ヴィダルはヴィダルだ。彼女は赤毛を振りみだし、身を乗り出した。

「待って。待ってよヴィダル」

 呼びかければ、若者の自嘲的な声はやんだ。また、彼が自分を追いこみすぎる前にと、ナーラは言葉を続ける。

「ねえ。ヴィダルが、できるだけ前みたいな生活ができるように、私たちのもとで治療ができないか、フォールさんたちが国の人にかけあってるのよ。ヴィダルがどんなひどい状態でも、誰も見捨てない。見捨ててないわ。私だって」

 彼の目が、また、見開かれる。ナーラはなおも、強く言葉をつむいだ。

「それに、ほら、この間の旅人さんたちも、また会いに来るって言ってた」

「彼らが――」ヴィダルは呟いたあと、はじめて前のめりになった。「そうだ。あの人は、ディランさんは、どうしてる」

 突然出てきた名前に、ナーラは戸惑った。けれど、すぐに、あの「青い」感じのする少年のことだと気づくと、うなずく。

「今は、眠っているそうよ。ときどき長く眠らないといけない体質らしくて。けど、その前に言ってた。『また会おう。会って、ちゃんと話をしよう』って」

 ヴィダルは、はっと息を詰める。それから、なぜかほほ笑んで、ゆるくかぶりを振った。

「『また会おう』か。腹を裂こうとした相手に。……まったく、かなわない」

 北の大水竜様には。続いたささやきを、ナーラが聞きとることはなかった。彼女が首をかしげていると、ヴィダルがわずかに体を動かし、明るいところへ出てきた。やつれた顔でほほ笑む彼は、今までで一番穏やかに見えた。

「なあ。僕が戻ってくるまで、待っていてくれるか」

 彼の一言に、ナーラは目を輝かせ――もちろん、と笑ったのである。



     ※

     

     

 事件がひとまず終息し、若い薬師がデアグレード王国へ引き渡された後。ディランはすぐに、眠りについた。実に七日近く昏々と眠り続け、事情を知らない人々を、おおいに困惑させた。特に、セシリアが事情を知った後もだいぶうろたえていたと、後から聞いた。

 発熱などの副作用もなく、無事に目ざめたディランは、師匠にたっぷりしごかれてからファイネを発った。

 ゼフィアー・ウェンデルが、突然「翼を借りたい」と言い出したのは、その日の昼過ぎのことである。

 

 しめりけを帯びた空気が、森の中に落ちてくる。生い茂る草は踏みつけるたびに音を立て、虫の羽音と鳴き声が、そこかしこから響いてきた。木の枝を跳ねのけた短髪の少女が、顔をしかめて前を見る。三つ編みを揺らし、迷いのない足取りで森を往く少女に、剣呑な声が投げかけられた。

「どこに行くつもり? 故郷への挨拶なら、さっき済ませたでしょ」

「そちらがおもな目的だったわけではないのだ」

「はあ? わざわざ、起きぬけの竜に無理させたからには、それなりの目的があるんでしょうね」

 少女――チトセが、思いっきり顔をしかめる。彼女が鋭い気配をまとったのを察したのか、振り返ったゼフィアーは、歯を見せて笑った。彼女たちのやりとりを傍観していたディランは、参ったな、と頭をかいた。大陸横断くらいは、主竜の彼にとって造作もないことだ。けれど、それを口に出せば、気の強い元竜狩人からどんな切り返しがあるかわからないので、やめておく。

 黙々と、森を進んだ、その先。木々が途切れて、ひらけた空間が見えた。最後尾で警戒に当たっていたトランスの気の抜けた声が聞こえる。彼らは間もなく、ゼフィアーを先頭に森を抜け――広がる光景に、息をのんだ。

「これ、って……」

「すごくきれい。西大陸にも、こんな場所があったのね」

 唖然とするレビの横で、マリエットが穏やかに笑う。トランスとチトセも歓声を上げ、ディランはただ目を細めた。それぞれの反応を見せる仲間たちに、ゼフィアーが改めて顔を向ける。

「これを、みんなに見せたかったのだ。あの事件が起きたときに、ふと思い出してな」

 頬を染めて笑う彼女を、ほのかな花の香りが包みこむ。


 森の先の草原には、紅や紫の花が咲き乱れていた。強い毒を放つこともなく、風に遊ばれるままにたたずんでる花ばなは、やわらかな色彩と香りを広げて、訪れる生き物たちを癒していた。

「紅星草――ここまでまとまってるのは、はじめて見た」

 ゼフィアーにとげのある視線を向けてばかりだったチトセですら、呆然として花畑に見入っている。

「ちょうど、今が見ごろなのだ。村の人たちも、よくここへ来るのだ。あ、このくらいの香りなら中毒にはならないから、大丈夫だぞ」

「……実は、ちょっと心配してました……」

 ゼフィアーの言葉にレビが答えると、ある者は笑い、ある者は呆れた。マリエットなどは、「でも、うかつに触らない方がいいわよ」と、物騒な補足をしている。手を出そうとしていたトランスが、おどけてそれをひっこめた。

「こーんな、きれいなのになあ。人を狂わせる毒に変わるんだもんな」

 肩をすくめて呟いたトランスは、静かなまなざしを、花に注いだ。


 それからしばらく、六人は言葉もなくタミルの花に見入っていた。しかし、風がそよいで花ばなを揺らし、花びらが宙を舞うと、ゼフィアーがディランの袖をひく。

「どうかしたか」

 穏やかに問えば、ゼフィアーは目を伏せた。

「ディランは――亡くなった人に、竜に、もう一度会いたいと思うか。それが、たとえ幻でも」

 投げかけられた問いに、ディランは息をのむ。べにと紫の欠片を追いかけつつ、青い瞳が蒼い空をなぞった。


 千五百年の中で、喪ったものは多い。争いの絶えない時代を生きてきたから、しかたのないことではあったが、悲しみとやりきれなさは、いつもついて回っていた。理不尽な死を迎えた命があった。自分の力不足のせいで亡くしてしまった者もいた。自分に牙をむき、どことも知れぬ場所へ姿を消した、友も。


 会いたいと焦がれたことはある。けれど、人と違った感覚を持つ彼は、それをかなわぬことと受け入れていた。彼らの魂は、すでに、竜たちが守る「自然」の一部に変わっているのだと。ただの竜だった頃ならば、彼は迷いなく、それを口に出したことだろう。

 しかし、今は違うのだ。わずか七年とはいえ、人としての生を越えてきてしまっていた。

「……どう、なんだろうな。わからない。幻に会っても、むなしくなるだけだし」

 ゆえに、彼は、曖昧にほほ笑む。

 ディランの抱く深淵に、『伝の一族』の末裔たる少女が気づいたかは、わからなかった。彼女はただ、そうか、と言って、花たちを見つめる。

「私は、どうだろうな。たとえば、お主が先にいなくなってしまったら、それを乗り越えられるだろうか」

 ゼフィアーの細い手が、胸元で揺れる首飾りにのびる。その内側にある青い竜鱗を、確かめるようになでる。ディランは何も言えず、彼女を一瞥したあとは、同じように花畑を見つめ続けた。


 ヴィダルたちのこと、事件のことは、聞いている。彼が、しばらく都で拘留されたあと、監視つきで薬師たちのもとへ戻るかもしれないと、ナーラが言っていた。また、事件の裏で糸をひいていた可能性のある人物については、調査中らしい。報告を持ってきてくれたマリエットが、難しい顔をしていたのが、気になった。ひとまずは決着した事件だが、いくらかの謎と、重い苦みを、関わった人々の中に残していった。

 その苦みを噛みしめているのは、ディランたちとて、同じなのだ。


「ゼフィー、ここにいたのね」

 森の方から明るい声が聞こえてくる。まっさきに振り返ったレビが、顔を輝かせて手を振った。「ゼフィーのお母さん!」という彼の言葉に、当の少女も目を丸くする。森の木々に手を添えて、確かにアリアが立っていた。

「かあさま、どうかしたのか」

「セイダが帰ってきたわよ、ついさっき」

「とうさまが!?」

 ゼフィアーが裏返った声を上げる。まわりで聞いていた四人も、思わず顔を見合わせた。

「みなさんも連れて、戻っていらっしゃい。きっと、セイダも喜ぶわ」

 ゼフィアーは、つかのまもごもごと口を動かしていたが、やがて、そうする、と叫んだ。今にも走り出しそうな彼女を、マリエットとレビが優しくうながす。チトセやトランスもまた、彼らを追って、森の方へ歩き出した。ディランもそれに続こうと足を踏み出し、ふっと唇に笑みを刻む。

 母親に、仲間たちに囲まれて、明るく笑う少女を見る。

「おまえなら、大丈夫だよ。ゼフィー」

 きっと、彼女なら、ディルネオの魂が溶けてしまっても、それを乗り越えていけるだろう。

 あんなにも、強くて温かい人たちに、囲まれているのだから。

 とん、と肩を叩かれる。ディランが顔を上げると、そばで亜麻色の髪の男が笑っていた。

「何やってんだ、ディル。ぼけっとしてると置いてかれるぜ」

 かつてディルネオが拾った男は、今でもときどき、昔のように呼ぶ。そんな彼だから、今はディランと名乗る竜も、本来の笑みを向けられた。

「わかっているよ。忘れられる前に、急ごうか」

「ゼフィーがおまえを忘れるとは、考えにくいけどなあ」

 言葉を交わして、笑いあう。そのとき、また、風が吹いた。誰かに頬をなでられた気がしたディランは、ふっと振り返る。


――あんたにも、いい仲間がいるじゃないか。

 かすかに、そんなささやきが聞こえた。


「……ゲオルク?」

 呼びかけたが、声は返らない。背後には、相変わらず、鮮やかな花畑が広がっているだけだった。

「まさか、な」

 ほほ笑んだディランは前を向き、トランスと肩を叩きあってから、小走りで森の方へと向かった。


 タミルの花ばなは、静かにたたずみ、去りゆく人々を見送る。風に舞った紅色の花びらだけが、竜である少年の肩に落ち、彼らの旅路みちに寄りそった。



(外伝『きょうすいげつ』・完)

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永遠の青 しちみ @7310-428

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