38.翼
雪原に響く戦いの音は、いまだやんではいなかった。
大剣がうなり、一人の頭と胴を切り離す。防寒具で隠れていた若い男の顔と金色の髪が、そのとき初めてあらわになった。大剣の持ち主である盗賊狩りは、雪の上に転がった頭を一瞥もしない。
今しがた三人を戦闘不能にしたばかりのアントンは、頬についた返り血を軽くぬぐった後、さりげない所作で別の敵の剣を受ける。立派な顎ひげを生やした男が、悔しそうにうめいた。
「くっそ……なんなんだ、てめえら」
「さっきから言ってるじゃないか。盗賊狩りって」
アントンはあくまでも真剣に答えるが、男は納得しなかったようだ。ぎり、と歯ぎしりの音がして、長剣に力がこもる。アントンはその力を器用に受け流しながら、男ではない方を見て、目を細めた。
「――終わりにしろ」
この場の誰のものでもない、冷やかな声がする。顎髭の男がとっさに退いた。相手の姿を見るなり、青ざめる。「お、オボロ様っ!」と、おかしいくらい引きつった声を上げる。羽飾りのついた帽子をかぶった男は、表情を変えなかった。アントンは、大剣を下ろして首をかしげる。
「あんたが、頭目?」
試しに訊いてみた。「違う」と否定された。男の視線が山の方角に向く。アントンだけでなく、盗賊狩り集団の全員が、彼の視線を追いかけた。
「俺たちの首領は、あっちだ」
確かに、彼らから少しばかり離れたところに、一人の男が背を向けて立っている。長槍を立てて、ただまっすぐ、山に顔を向けているのだろう。彼のかたわらには何人かの男女がいる。そのうちの一人、赤い髪の少女が男を見上げた。
「あの……本当に、よろしいんですか?」
「ああ」
気遣わしげな少女の問いに、投げかけられた男の答えはそっけない。彼は初めて、アントンたちの方を――正確には、帽子の男を振り返った。
「一度だけ、賭けてみようと思う。嫌なら逃げてもいい」
男が言うと、オボロと呼ばれた彼は肩をすくめた。
「いいさ。俺ももう一度くらいは付き合ってやる。俺がいなければ組織が回らんらしいしな」
長槍の男の左隣に立っている若者が、それを聞いてにやりとした。意味を知らないアントンさえも、そこに含みを感じる。帽子の男は改めて、竜狩人たちを見回すと、「そういうわけだから、武器を収めろ」と指示をした。彼らはしぶしぶ従っている。
アントンと部下たちが、何を考えるでもなくその光景をながめていたとき。ふいに、空がまぶしくなった。アントンは目を細める。
「お、お頭! 見てくだせえ、あれ……!」
部下の声が飛び込んでくる。
「――なんだ、あれ」
黒い山の頂上、さらにその上空に、煌々と光る緑があった。その輝きは、白昼の星とでもいえばよいのか。あまりにも現実離れした光景に、さすがの盗賊狩り集団も言葉を失い、見入る。始まったな、と誰かが呟いた声をアントンが聞き取ることは、なかった。
町に入ってすぐ、妙なざわめきに気づいて、ロンは眉根を寄せた。一部の人たちが鋭くささやきあい、空を指さしている。何かあったのだろうか、そう考えるより早く、連れのライサまでもが悲鳴を上げた。
「ろ、ロン! 空を見て!」
引きつった声に誘われて、空を仰いだロンは絶句した。
北の空に、星にも似た緑色の光が見える。この町からの距離などわからない。だが、不気味なほどにさえざえとした光だった。
「こ、これって」
震え声が勝手に言葉を絞り出す。
各地で聞くようになった竜の現状を知らせる話。その中に、『北の空に緑の光が現れる』という一節がなかったかと、ロンは思いを巡らせた。流れる思考はそのまま、彼らの知り合いから聞いた話へ辿り着く。
二人の商人は揃って息をのんだ。
光が明滅する。人々のざわめきが大きくなって――やがて、完全に沈んだ。
「本当にやるのか、君たちは……?」
空を見上げたままのロンは、我知らず呟いていた。
「
ばたばたと『家』に飛びこんできた傭兵に、ジエッタは厳しい視線をくれてやる。
「もう少し静かにしないか」
「すいやせんっ!」
どう考えても勢いで口にしたとしか思えない謝罪の後、彼は「今すぐ外見てくだせえ!」と喚き続ける。眉根を寄せてうめいたジエッタは、しかたなく窓のそばに歩み寄り、板戸をかけ声とともに持ち上げた。陽光と呼ぶには不自然な、緑色の光が、薄く差し込んでくる。異変に気づいたらしい『家』の人たちが、沸騰したように騒ぎ出した。セシリアが、ジエッタの方へぱたぱたと駆けてくる。
「首領、あれって」
「ああ。始まったね」
『家』のざわめきをよそに、ジエッタはぽつりと呟きをこぼした。
その後も、傭兵が続々と窓辺に群がってくる。いつもなら怒声とともに追い返すところだが、今回ばかりはしたいようにさせていた。
窓のむこう、北の空には緑の星が見える。星のような光、といったほうがいいかもしれない。
「さあ。これで、あとあたしらにできるのは、あいつを信じることだけだ。――見届けてやろうじゃないか」
頼もしい仲間たちを振り返り、『烈火』の女傭兵は不敵に告げる。
儚くほほ笑む弟子の立ち姿が、脳裏によぎった。
※
凛とした声が言葉を紡ぎ、まわりの《神官》たちがそれを唱和する。空中の竜たちは、力を展開した後は黙り込んだまま。《魂還しの儀式》が始まってから、そんな光景が絶えることなく繰り返されている。陣の外に立つ四人は顔をこわばらせているが、ディランは不思議とも不気味とも思わない。儀式とはどれもこういうものだ。彼もまたこうべを垂れ、祈りの言葉を唱和する。言葉の流れも単語の音も、馴染みあるものと似ているようで、少し違う。今の世で古代語と呼ばれている言語だ。
『一応、詠唱の内容を教えておく。けども、覚えきれないと思うし、発音も難しいから、言えそうなところだけ唱えてくれればいい』
旅の途中、仲間たちに教えていたゼフィアーの声が、耳の奥によみがえる。ディルネオとしての記憶が定着しつつあるディランにとって、古代語の発音程度は簡単なことだが、今を生きる人々は、そうもいかない。だからこそゼフィアーはああ言った。
韻を踏んだ声が途切れる。詠唱を一巡したらしい。儀式の成功が確認できるまでは、言葉は一度終わっても、わずかな間をおいて、また最初から唱えなおされる。その間にディランはあたりを観察した。ディランの一番近くにいるのは、レビだ。愛用の棒を支えにして立っている彼は、少し青ざめてきている。命の力を陣に吸われているのだから、しかたがない。そう考えたとき、詠唱が再開された。余計なことを考えたせいか、ディランも虚脱感を覚えて体を折る。
けれど、そこで、ふと違和感を抱いた。
魂が震える感じは、《魂喰らい》の武具を身に受けたときと似ている。
が、それとは別に――押し込められていたものが飛び出てきそうな、妙な気配があったのだ。
気配の正体がなんなのか、考えている暇はない。少女の声が途切れたのに合わせ、終わったばかりの詠唱を繰り返す。
時間の流れは、とても緩やかだった。それゆえに、ひどく長く感じた。陣の明滅は徐々に激しくなっている。もはや、輝く緑色が周囲の光景を薄くさえぎるほどだ。視界の端に、顔を覆う商人の姿が見えるが、彼の輪郭すらも光のせいで薄らいでいておぼろげだ。
光は強い。今にもあふれて、弾けそうなほどに。けれど。
――その先に、進まない。
ディランは苦みを噛みしめる。
陣は確かに光を放ち、明滅を続けている。だが、それだけだ。もうずいぶんと詠唱を繰り返しているが、いつまで経っても竜魂の還る気配はない。
『……まずいな』
竜の声が聞こえる。ディランはその意味を理解した。理解して、恐れたのは、彼だけではなかった。
「まさか、力が足りないの?」
離れたところからささやきが聞こえる。マリエットの声だ。
見えるかどうかはわからないが、ディランはうつむいたまま大きくうなずいた。
「あらら、そりゃ大変。もっと踏んばるぞ」
「じょ、冗談? こっちはもう、じゅうぶん、踏んばってるわよ……!」
荒い息遣いの下から声がする。チトセの主張ももっともだ、とディランは苦笑した。彼もまた、先ほどから嫌というほど陣を意識して、命の力がそちらへ流れてゆくのを感じている。そして、自分からも押し流そうとしていた。魂を認識できる竜だからこそできる芸当だろう。それでもまだ、陣の輝きは変わらない。時が止まってしまったかのように。
ゼフィアーの詠唱が大きくなる。外周に立つ四人の顔がゆがむ。視界の端に、ふらつく少年の姿を捉えたディランは、ぎくりとした。
まずい。
先ほどの竜と同じ言葉が脳裏をよぎる。
この手の儀式は、長く続けてよいものではない。参加者に無理を強いることになる。それに、長く続けすぎると、陣自体の力が弱まって、儀式そのものが立ち行かなくなってしまう。おそらく、これ以上時間をかけられない。
どうする、どうする。何をすれば、変えられる――!
詠唱する口とは別に、頭が回転する。めまぐるしく流れる思考は、けれどいい答えを導いてはくれない。ディランが思わず悪態をつきそうになったとき。詠唱のむこうから、かすかに覚えのある声がした。
『こうなったら最終手段よ! みんな、展開して!』
そんなことを言っていた気がする。声の主はミルトレか。彼女は、ちょうど外周にいたはずだ。そしてさらに外側に、儀式に参加しない水竜がいくらか控えていたはず。彼らが、どういうわけか、一斉に力を使いはじめる。ディランは、水の揺らぎを肌で感じた。
空気が濃い水の気配をまとう。舞い降りる雪もしめりけを帯びた。日常的に使う程度の力で、「水」を山頂付近に集中させたのだろう。まるで、みずからの
詩的な連想をした瞬間、ディランの頭の中で何かがひらめいた。とっさに、胸に手を当てる。
内側は、脈打っている。強く、強く、主張するように。
きつく目を閉じれば、ほのかな暗闇の中に、青い光がにじみだした。胸にくすぶっているだけだったはずのそれは、今になって、広がりをみせている。
ディランはまた体を折り、歯を食いしばる。隙間からうめき声が漏れる。
「ディラン、無理しないでください!」
かすれたレビの悲鳴が聞こえた。ディランは強く首を振った。
いやだ、という思いもある。だが、それだけではない。
――そうじゃない。彼は声に出さず言った。
魂は、確かに震えている。けれどこれは、砕ける前の震えではない。むしろ、逆だ。
このままでは、あふれ出るものを抑えきれない。
《神官》の詠唱を聞きながら、ディランはどうにか空を仰いだ。陣を形作る竜たちは、輪を描いて飛んでいる。――ディランは今初めて、そこに明らかな「空席」があることに気づいた。陣の中央部。地上でいえば、ゼフィアーがいる場所だ。水竜たちの力の展開は続く。そして、陣の上を飛んでいる竜の何頭かが、ちらりと、ディランの方へ視線を向けた。
彼らの目は、語っていた。
「まったく、勝手なことを……」
ディランが呟くと同時に、また詠唱が一巡したようだ。あたりが一時、静まり返る。その隙にディランは、陣の外を振り返った。顔を引きつらせている商人と視線がかち合う。
「マリクさん!」
「お、おうっ!?」
ディランが鋭くささやくと、マリクは飛び上がってから、彼の方に駆けてきた。
「なんだ、どうした?」
「頼みがあります」
口早にそう言って、水竜は地面を指さす。
「少しの間でいいです。ここに、立っていていただけませんか」
すると、マリクは目を剥いた。
「……お、お、おいおい。つまり、君の代わりをしろと言いたいのか?」
「はい。立っているだけでいいです。やり方は、ゼフィーと陣が教えてくれます」
「け、けど俺、あの呪文みたいなのさっぱりわかんねえんだが」
「最悪唱えなくてもいい。まわりが補ってくれますから。本当に、立っているだけでいいんです」
ディランが強く繰り返すと、マリクの目に迷いが浮かぶ。
「う。それなら、やってやらんこともないけど。でも、それでディランくんはどうする気だ?」
口では問いかけをしながらも、すでにマリクは陣の方へ入ってこようとしている。彼の優しさに感謝しながら、ディランは逆に、陣の外に出た。
「俺は――上へ行きます」
短く告げたディランは、続くマリクの言葉を聞かず、彼がもたれていた岩の方まで走った。それからまっすぐ空を見上げ、軽く足踏みをする。
「それ」はもう、すでに外へ出ようとしている。
あとは、彼がふたを開ければいいだけだ。
危険が伴うことはわかっている。
けれど、今ならふたを開けられる。水竜の力に包まれていて、仲間が助けてくれる、今なら。
彼はひとつうなずくと、短い助走をつけ――
地面を蹴る寸前に、すべてを解き放った。
「なっ!?」
誰かが引きつった声を上げる。ディランは聞いていなかった。彼の体は青い光に包まれて、空を舞おうとしていた。
人だったそれはゆがみ、光の翼が生えてくる。人々は、異変に気づいて揺らめく光を追いかけた。
輝きは次第におさまってゆく。
誰もがその現象の意味を察した。息をのんだ。希望を、抱いた。
光の中から現れたのは、青い鱗の竜だ。彼はわずかな違和感を振り切ると、自分が本来いるべき場所へと目を定めて、翼を打つ。
「あれは――」
当然、ゼフィアーもその変化に気づいていた。見開かれた金色の瞳は、もろもろの感情を湛えてうるんでいた。
「ディラン……いや、ディルネオ……おぬし、翼を、取り戻したのか……」
涙をこらえたゼフィアーは、強くかぶりを振る。前を向きなおし、息を吸った。
――最後の詠唱が、始まる。
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