31.虚無の果て
地面を蹴って飛びのくと、先ほどまで彼がいたところを湾曲した刃がなぞる。危なかったな、と、ディランは内心冷や汗をかいていた。剣戟の軌跡はすぐに消え、悔しそうな男のうめき声が聞こえる。だが、それはすぐに途切れた。男の背後で跳躍したマリエットが槍を回転させ、あろうことか金属の柄を相手の側頭部に叩き込んだのである。いびつな半月を描いた槍は、そのままくるりと回転し、女性の手へあるべき形でおさまった。
「石突でぶん殴られるのと、どっちが痛いかな」
「どちらも同じでしょう」
優雅に着地した女性は、しれっと言い放つ。今さらだが、人間を倒すことに慣れすぎていて怖い気もした。ディランも、他人のことをとやかく言える身ではないのだが。だから表面では肩をすくめるだけにして、マリエットに歩み寄った。そこへちょうど、また鳥に変化したルルリエが飛んでくる。
『こっちはなんとかなったわね。あと、さっきちらっと見てきたけど、レビたちも奮闘してたわ』
『見てきた……おまえは、相変わらずだな』
ディランは、一見お気楽なルルリエに、低い
「そうなれば、あとは――」
続けようとした声にかぶせるように、耳障りな金属音が響いた。不快感に顔をしかめながらも、全員がそちらを見る。そして、息をのんだ。
わずかに離れた場所ではあるが、トランスとオボロが派手にやりあっている。トランスはわずかな焦燥をのぞかせながらも、間合いを測りながら、それでいて男の気が決してよそに向かないよう、牽制している。その甲斐あって、ゼフィアーたちも援護に向かえそうな気配があった。
ディランが肩の力を抜きかけたそのとき、刃のぶつかりあいとは質の違う音がする。トランスが、短剣の鍔あたりで、無理やり一撃を受けたようだった。しのぎきれない、というのはディランの目から見ても明らかで――結果、その通りだった。トランスはとうとう短剣を手放した。距離を取りはしたものの、すぐにほかの武器――弓で対応するのは無理だろう。
空気が張る。簡単には割って入れない攻防だ。苦い顔をしたディランはけれど、息をのんだ。無意識のうちに腰へ伸びていた手が、ひやりとしたものを触る。愛用のものとは、少し違う手触りの、剣の柄。
迷い、ためらった。だが、命には代えられない。
素早く剣を剣帯から外した。柄をしっかり握って、走り出す。オボロは仕掛けてこようとしている。ディランは息を詰めて走った。この手が届き、敵の手が及ばない距離まで。男に気取られる前に足を止める。靴底が地面をこすり、激しく鳴った。
「トランスっ!!」
ディランは、腹の底から声をしぼりだし、名前を呼ぶ。全員の意識が彼に向いて、トランスの目に理解の色が浮かんだ。――その瞬間、彼は、帯びていたもうひとつの剣を投げた。センが使っていた、そして彼らに託した《魂喰らい》の剣が、不安定に回転しながら宙を舞う。トランスはわずかに体をひねり、腕を伸ばすと、器用に鞘をつかんだ。迷いのない手つきで剣を引き抜き、ディランに目をやった。言葉はないが、感謝は十分に伝わった。ディランはほほ笑み返してから、後ろに下がる。オボロが一度彼をにらんだが、すぐ視線をトランスへ戻した。
「へえ……こういう剣、得意じゃないんだけどな、俺。ま、ないよりはずっといい」
構えを取りながらトランスが呟いた。得意じゃないと言う割に、その動作は自然で、なめらかなものだ。
ディランは目を凝らしたが、次の瞬間、彼の姿は視界から消えていた。
特に驚くでもなく、消えた方向に目を走らせる。予想通り、甲高い音がした。
トランスの短剣が持っていた頃も含めれば、十合以上になろう、打ちあい。それは、またしばらく、絶えることなく続いた。長剣を使いなれた者の目から見れば、確かに男の立ち回りにはおぼつかなさがある。けれど、それだけだ。彼は十分、オボロと渡りあっている。そして、そこへ誰かが入りこむ余地は、なかった。
鋼が互いを弾きあう。高音が響き、火花が散る。ディランはそのたびに、心臓をねじられるような感覚を味わっていた。《魂喰らい》――かつて竜の魂だったもののぶつかりあい。それは竜たちの心身へ、少なくない影響をもたらした。少し前まで忙しなく羽ばたいていたルルリエが、ふらりと、マリエットの肩にとまる。
『もう……《魂喰らい》がぶつかると、こんなふうになるのね』
ルルリエの声には、おどけるような響きがある。影響があるといってもそれは、彼女たちにとってはせいぜい、軽い乗り物酔いくらいの感覚なのだ。だから竜たちは、顔をしかめはしても、戦意を失わない。だが、ディランだけは、無意識のうちに体を丸めていた。
こみあげてきたものを、無理やり飲み下す。
傷つき、ひび割れた魂が、刃がぶつかりこすれるごとに、震える。
早く終わってくれと、願わずにはいられなかった。
※
言葉の中に真実はないだろう、と、トランスはなんとなく思った。舌打ちしたいがそれどころではないので、心の中で悪態をつくにとどめておく。相対している男は、時折うっすらと、笑みのようなものを浮かべていた。こういう手合いは、言葉や表面的な立ち居振る舞いよりも、剣や目つきのちょっとした変化の方に、本心が表れる。だからこそ思うのだ。彼が先ほどまでに語った言葉に真実はない、と。
もちろん、すべてが嘘というわけではなかろう。いくらかの本音はあるだろう。ただし、表層に出ている感情がすべてではない。本質はきっともっと単純で、それでいてぽっかりとあいた大穴のように空虚なのではないか。まだ若いのになんだか面倒くさいね、とトランスは少しだけ、帽子の男を憐れんだ。
また、目の前で火花が散る。オボロは隙あらばトランスを押しのけて、竜たちへ斬りかかるつもりだ。まだ竜狩人たちも残っているから、それは避けたい。なんとか男を牽制しながら、トランスは口もとに笑みを刻んだ。
――まあ、そういう面倒くささは、俺も負けてないだろうがね。
ろくでもない半生だったという自覚はある。特に幼少期はあまりにも荒みすぎていた。ディルネオに拾われていなければ、今頃もっとねじくれた性根の男になっていただろう。考えただけで、笑いがこみあげてきそうだ。
だからこそ、オボロの目にちらつく炎のような輝きを、見逃さず捉えることができる。その輝きは恐ろしく、悲しかった。
ぶおっ、と風がうなる。突き出された剣を《魂喰らい》の長剣で受けた。だが、今度の一撃には予想以上の力がこもっている。防ぎきることができず、鋭い突きが肩をかすめた。
「おっと」
トランスは飛びのいた。あえて大きく距離を取る。するとまた、休みなく突きが繰り出される。防ぐことに集中していた隙に、オボロはトランスの脇をすり抜けようとした。
が、それも想定内だ。
一瞬、焦りを見せた男はしかし――すぐに、片足を軸に体を反転させて剣を振りかぶった。自分に向かって振り下ろされる剣の気配に気づいたのだろう、オボロは軽く跳んだ。長剣は空を切る。トランスは眉ひとつ動かさず、剣を引っ込めて敵の死角に回りこむ。オボロが苛立たしげに振り向いて、武器を再びトランスへ向けようとした。が、それより早く、長剣が閃いた。
オボロがそのとき見たのは、どんな光景か。トランスには知りようがない。ただ、事実としては、長剣の切っ先が鋭く男の眉間を突いた。ぱっくりと割れた額から、思っていたより勢いよく血が噴き出る。オボロの顔に初めて、動揺の色が見えた。言葉にならない声を上げ、自分の剣を振りかぶる。なりふり構わない一撃に、さしものトランスもひるんだ。竜狩人は今度こそトランスを押しのけて、駆けた。
「やべえ……!」
口をついて出たのはそんな言葉だった。彼が慌てて後ろを見た頃にはもう、オボロは標的を定めていて――彼の突き出した剣は、標的の喉元でぴたりと止まった。
冷やかな静寂が満ちる。周囲で戦っていた人々や竜でさえ、動きを止めた。止まった時を再び動かしたのは、声だった。
「……むなしい狂気だな」
喉元に《魂喰らい》の剣が突きつけられているというのに、ディランの声は静かだった。人の言葉ではあるが、それはもう、水竜としての雰囲気をまとっている。
「おまえを最初に見たとき、なんとなく、私が友だと思った人間に似ている気がした。だが、やはり違う。おまえのまとうものは、彼よりももっと熱くて、暗い、深淵のような感じがする」
「……それがどうした?」
「おまえは、理由を持たないのではないか? 竜を殺す理由を。――もっと言えば、殺すことそのものに、意味を見いだしている」
剣呑なオボロの声に、ディランは穏やかに返す。トランスは、割って入る機会をうかがっていたが、動くに動けなかった。何しろ、あと少し切っ先がぶれれば一巻の終わりなのである。あの男がどう出るか、と身構えた。ひょっとしたら逆上しだすかもしれない、と警戒していた。が、その予想は外れる。
「意味などない」
オボロの目から、狂気が消えた。いや、正確には、奥底に沈んだのだろう。
「確かに自分だけの理由は持っていない。が、意味を見いだしているわけでもない」
ああ、今わかった。オボロの口から、ささやきの音が漏れる。
「俺はただ、己の衝動に身を任せ、『あいつ』の補佐という口実で暴れているだけだ。むなしい狂気、とは、よく言ったものだな」
あふれ出る血は、顔をつたって地面を濡らす。けれどオボロは、まったく気にしていなかった。剣が音もなく引かれる。
「そんな狂人にはな。おまえたちの目指す世界に、居場所などないんだよ。だからこそ、おまえを殺そうとする幼馴染に手を貸している」
引いた剣をぶら下げるようにして持っていたオボロは――ふいに、血にまみれた口の端を歪めた。唇は音を紡がない。だが、トランスには聞こえた気がしていた。
狂人に殺されたくなければ――斬ってみろ、という
オボロの手がぶれる。ぶら下げられていたはずの剣が、持ち上がっていた。誰かが何かを叫び、トランスもまた息を詰めて、駈け出そうとする。
その一切を、強い風が吹きさらった。
オボロは風の中で目をみはる。その驚きはすぐ、冷徹な微笑の下に隠された。振り上げたはずの剣をまた下ろし、今度は鞘に収める。彼の姿を覆い隠すように、砂埃が舞う。
「――オボロさん! 待って……!」
どこか悲痛な声がした。チトセだ。その叫びすらも、終わりは風の音にかき消される。
暴風が、
「甘いな、おまえたちも、竜どもも」
感情の読みとれない声。ひょっとしたら幻聴だったのかもしれないが、男の耳には確かな声に聞こえた。
やがて、巻き起こっていた風がやむ。そこにはもう、竜狩人たちの姿はない。代わりに『逃がしましたか』と苦々しい表情でぼやく、風の主竜が現れた。
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