10.再びの帰郷

 ぼろ小屋のような宿屋の一室、その片隅。手燭の火が揺らめいている。茶色の三つ編みをぶらさげた少女は、己の目と手を一心不乱に動かしていた。彼女の目の先には大きな紙。少女は紙と、正確には紙に描かれている陣と、真剣に向きあっていた。一人の女性と人ならざる少年が、その様を穏やかに見守る。

 ふいに、じんわりと部屋が明るくなった。ぴっちりと窓を閉ざしているはずの板戸の先から、淡い白光が差し込んできたかのようだ。そのまぶしさが気になったのか、少女はぴたりと手を止めた。細い息を吐きだす。少年が、それを待っていたかのように口を開いた。

「どうだ、ゼフィー。だいぶ解読できたか?」

 彼がそう呼びかけると、少女――ゼフィアー・ウェンデルは彼を見て「うむ」とうなずいた。

「もうすぐ半分、といったところだな。なかなかにしんどいけども、慣れてくると楽しい」

「それならよかったわ。楽しくもない古代文字をひも解くのは、すごく辛いことだから。ゼフィーはそういうのに向いているのかもしれないわね」

 目をきらきらさせているゼフィアーに笑いかけたのは、マリエットだった。少年、ディランは彼女たちのやりとりをほほ笑んで見守る。言葉を交わしあった直後、ゼフィアーが眉をひそめた。

「それにしても、すごく寒いな。今までの寒さとは違う……体の芯が凍るような感じがする」

 彼女はかすかに震える声で言った。だが、縮こまる少女とは対照的に、女性は動じず眉を上げる。

「あら、それは当然だわ。その戸、開けてごらんなさい」

 細い指が窓をふさぐ板戸を示した。今の外の様子など気にしてもいなかったディランとゼフィアーは、顔を見合わせる。ディランの方が立ち上がり、少しだけ板戸を外した。とたん、白い光が視界いっぱいに飛びこんできて、たじろぐ。

「うわっ」

「危なかったな。一気に外してたら、目がつぶれてたかもしれない」

 声を上げるゼフィアーをよそにディランは淡々と呟き、そして、目が慣れてきたところで改めて外を観察した。意識せずとも、しみじみとした言葉が漏れる。

「なるほど。これは、寒いわけだ」

 彼らが見る窓のむこうは、一面、見事な銀世界だった。


 イスズたちとの衝突の後、騒ぎになる前にと一行は急いでレッタを出た。それから間もなく砂漠を抜け、しばしの旅を経て、デアグレード領内に入った。それが四日ほど前のこと。そして、二日前から雪はちらついていた。

「けどなあ。まさか、こうも見事に積もるとは思わなかったぜ」

 ディランが板戸を外したのがきっかけだったのか、仲間たちはその後続々と起きだしてきた。宿の外に出たところで、トランスがしみじみ呟く。一方、何かにおびえているような表情を見せたレビは、そうっとディランを見上げてきた。

「あ、あのう、ディラン。デアグレードって、こんなにたくさん雪が降るところでしたっけ?」

「……いや。真冬にちらつくことはあったけど、積もるほど降ることはめったにない。こんな時期ならなおさら」

 ディランはきっぱり答えた後、「アルセン国のドナとか、ラスカとか、あのへんなら積もるかな」と付け加える。あんな辺鄙へんぴなところに行ったことがあるのか、とトランスに興味を示されたが、苦笑とともに受け流した。そんな会話のかたわら、レビとゼフィアーは揃って険しい顔をする。

「あの、ゼフィー……。まさかと思いますけど、これも竜が関わってるってこと、ありますか?」

「確認するまでもないだろう。少々、派手になってきているようだな」

 何が、とは言わず、ゼフィアーはうなずいた。彼らの声を聞きながら、ディランがふっと目を上げてみれば、灰色の空から白い欠片が舞いおりてきている。まだまだ、雪はやまなさそうだ。

 物思いにふけっていると、雪を踏みしめる音が近づいてきた。宿屋の手続きをしてくれたマリエットが戻ってきたのだ。ディランが視線を投げかけると、彼女は顔にかかった銀髪を軽く払い、微笑した。

「さっき、商人さんに聞いたら、たくさん積もっているのはこのあたりくらいみたいだわ。ファイネのあたりは、道には雪がないそうよ」

「それならいいけど」

 聞こえるか聞こえないかくらいの小声でチトセが言う。よほど寒いのか、彼女に握られた手槍が小刻みに震えていた。ディランも思わず身震いする。確かに、すごく寒い。けれど、立ち止まっていてもどうにもならない。幸いなことに、先に行った隊商が雪をあるていど踏み固めてくれているらしい。その上をなぞるように進むしかないだろう。

「よし、ここは頑張るか!」

 ゼフィアーがことさら明るい声を上げ、みながそれぞれの表情でうなずいた。

 白い雪がはらはらと、空を舞っている。


 道を慎重に進んでいくにつれ、情報どおり、雪は少なくなってきた。数日に及ぶ旅のすえ、ファイネ付近の獣道に差し掛かった頃には、雪は脇道に少し残っている程度になっていた。そのことに安堵の息を吐いたのは、ディランたちだけではなかっただろう。

 ファイネは荒くれ者の町。行き来する傭兵たちとすれ違うことは、やはり多かった。以前来たときと同じように、中にはディランの顔見知りの傭兵もいて、彼らは少年の姿に気づくと、気さくに手を振ったり、肩を叩いたりして去っていった。今も一人を見送ったディランが頬を緩めていると、少年少女がのぞきこんでくる。

「な、なんだよ。俺、そんなに変な顔してたか?」

 熱く注がれる視線にたじろいだディランは、訊いた。ゼフィアーとレビはどこか温かな笑みを浮かべ、チトセは半眼になっている。

「いや。ディランがあまりにも嬉しそうだったからな」

「ぼくもちょっと嬉しくなりました」

「……あんたってつくづく厄介だなあ、って思った」

 三者三様の言葉を受け取って、ディランはとりあえず「どういう意味だ、それ?」とチトセに訊いてみたものの、黙殺されてしまった。問い詰めるほどのことでもなかろうと、彼は潔くあきらめて、視線を前に戻す。緩やかに蛇行しながら伸びてゆく道。その先には、覚えのある町の影。

「あれがファイネね。入るのは初めてだわ」

 マリエットが、感慨深げに呟いた。

 道なりに進んでゆくうちに、踏み固められた地面と点在する石畳が見えてくる。ぼろぼろの看板の横を通り過ぎると、熱気と喧騒が、わっと押し寄せてきた。懐かしい活気にディランはほほ笑んだ。トランスも平然としていたが、ほかの四人は圧倒されているようだった。

「二度目だけども、慣れないな」

「ぼ、ぼくもです。けど、少しだけ、ほっとしてます」

 子どもたちのささやきが聞こえる。

 ファイネは、良くも悪くもいつも通りだ。傭兵やごろつきたちが闊歩かっぽし、平穏な日常のかたわらで、時には流血さえともなうけんかが繰り広げられる。今も、六人の視線の先で、大男二人が取っ組み合いをしていた。まわりには、どこかの傭兵団員と思われる人々が集まっているが、止める気はないらしい。それどころか、はやし立てる者がいる始末だ。中心にいる二人は、大声で互いを罵りながら、時々殴りあっている。ディランたちは、「触らぬ神に祟りなし」とばかりに知らんぷりをして通りすぎようとしたのだが――そこでひときわ大きな音が響いた。少し、強く殴りすぎてしまったらしい。殴った方はうろたえた様子を見せた。殴られた方――ちょうど、ディランたちの側に立っている男――は、右の頬のあたりを押さえながら立ち上がると、「ふざけんな」というような意味のことを大声で叫んだ。

「あ、切れた」

 なんでもないことのように、チトセが呟く。その横で、取っ組み合いが激しさを増していた。一行は、なんともいえぬ雰囲気の中、顔を見合わせる。

「どーするよ、これ」

「止めた方がいいんじゃないですか……?」

「むー。けども、私たちは部外者だからなあ。素知らぬ顔をして通りすぎた方がよいのかもしれん」

 交わされる言葉は、どこか緊張感に欠けている。チトセはすでに傍観を決めこんでいるようだし、マリエットも平然と事の成り行きを見守っている。彼らを横目で見ながら、ディランは苦笑した。こいつら本当、肝が据わってるよなあ、と、自分のことを棚に上げて考えた。

「おい、こりゃなんの騒ぎだ!」

 結局、一行がどっちつかずのままでいるうちに、別の大声が響いた。野次馬たちがぴたりと動きを止め、道の先を見る。歩いてきた壮年の男を前にして、顔をひきつらせていた。彼は、鋭く光る双眸であたりの様子をうかがうと、すぐに状況を察したらしい。人垣を乱暴にくぐりぬけ、輪の中心に行って、大男二人の拳を手でやすやすと受け止めてしまった。

「げ」

 声を上げたのが誰だったかは、わからない。野次馬か、中心の二人か。

「馬鹿かてめえら! 限度ってもんを考えろ!」

 殴り合いを止められた後、そんな言葉とともに一発ずつげんこつをもらった男たちは、しぶしぶといった様子でどこかへ歩いていった。まわりにたむろしていた傭兵たちも、祭の後のように冷めた空気の中で散ってゆく。取り残された一行は、少しの間戸惑っていたが、けんかを止めた男の方が彼らに気づき、歩いてくる。

「なんだ、懐かしい面子めんつが揃ってるじゃねえか。けんか観賞か?」

「サイモン。わかってると思うけど、俺、そんな趣味ない」

 ディランがため息とともに言うと、サイモンはにやりと笑って、彼の頭を叩いた。

「それで、今日はどうしたんだ?」

「ああ。あれから色々あったから……ちょっと、報告をな」

 弟分の答えに何を思ったか、サイモンは目を細め、「そうか」とこぼした。

「……知り合い?」

 怪訝そうに見てきたチトセへ、ディランが「『暁の傭兵団』の人だ」と答えると、彼女は愕然としてディランとサイモンを見比べる。サイモンもそこで、前はいなかった女性二人に気づいたらしく、目をみはった。仲間が増えたのか、と言う声は、妙に弾んでいた。サイモンはくるりと彼らに背を向け、振り返る。

「来い。おまえが顔を出せば、首領ボスも喜ぶだろう」

 人波に向かって歩いていく男の背を、六人は慌てて追った。

 チトセとマリエットの紹介を差し挟みながら、『暁の傭兵団』の『家』を目指す。サイモンについて歩いていたら、ほどなくして、記憶にある建物が見えてきた。よそから譲り受けた建物は、やはり大きな模様替えなどはしていないようだ。傭兵団にそぐわないかわいらしい扉に男が手をかけようとしたとき、ちょうど、扉が内側から開かれた。少しだけ後ろに下がって扉をかわしたサイモンは、中からひょっこり顔をのぞかせた、快活そうな若者に声をかける。

「おう、ラリー。出かけるのか」

「サイモンさんじゃないっすか。いやね、俺、これから巡回なんっすよ」

「そうか、頑張れ」

 先輩の激励を受けたラリーは、嬉しそうに外へ飛び出してくる。

「無理するなよ」

 さりげなく横からディランが声をかけてやると、ラリーはおもしろいほど驚いて、立ち止まった。

「あっ! ディランじゃねえか!」

 彼は嬉しそうにそう言ったが、すぐサイモンに「巡回行け」とうながされ、しかたねーなとぼやいて走り去ってゆく。元気な若者を見送ってから、サイモンと一行は改めて、小さな入口をくぐった。街の中より荒っぽい声が飛び交う空間で、サイモンが声を張り上げる。

「ジエッタ、戻ったぞ。おまえの弟子とその友達ダチを拾ってきた」

 声が場を打った瞬間、家はしんと静まりかえる。そしてまた、家の傭兵たちが一気に沸いた。そして、その間を縫うようにして、一人の女傭兵が現れる。

 ああ、本当に師匠は変わってない。ディランは、胸のうちが温かいもので満たされてゆくのを、確かに感じていた。

 黒髪を雑に束ねた彼女は、『家』にいるからだろう。ごつごつとした装備を脱いで、刺繍のひとつもない簡素な麻の上下をまとっていた。ただし、剣は腰にさしたままだ。申し訳程度に羽織られている黒い上衣がわずかに揺れる。彼女は一行の姿を認めると、立ち止まって腕を組んだ。

「こりゃ、懐かしい顔ぶれだね。はじめましての奴もいるか」

「うむ。久しぶりだ」

「あなたがジエッタさんね。はじめまして」

 緊張に顔をこわばらせているチトセとは対照的に、マリエットは堂々と挨拶した。ゼフィアーやレビも落ち着きを取り戻したようだ。ジエッタは、彼らと簡単な挨拶を交わすと――感情の読み取れない表情で、ディランの前に立った。

「……お久しぶりです」

 射抜くような、それでいて穏やかな視線に肩をすくめ、ディランは言った。ジエッタはにやりと笑うと、彼の肩を乱暴に叩く。

「今度はちゃんと、半年以内に帰ってきたか、ばか弟子」

「あれ? 気にしてたんですか?」

「あたりまえだ。音信不通になって、いつの間にか死んでました、ってことになったら洒落にならないじゃないか」

「縁起でもないことを言わないでください」

 相変わらず取り繕うことをしない師匠に、弟子は穏やかに苦言を呈する。ぽんぽんと、応酬が行われている隙に、団員たちがわらわらと集まってきた。前に来たときのような、激しすぎる歓迎はなかったが、今回もディランはあちこち叩かれたりなでられたりと忙しい。中には、ゼフィアーやレビ、そしてトランスにまで声をかける人もいた。

 長槍を携える女性の姿に気づいて唖然とする傭兵の姿を視界の隅に捉えながら、ディランはジエッタに話しかける。

「……あれから、結構『破邪の神槍』とぶつかってるみたいですね」

「そりゃそうだ。あんなことがあったからね、あたしたちも竜について調べながら、彼らの生息地に向かったこともあったのさ。その先でばったり連中と遭遇したり、したしねえ」

「いやに積極的ですね」

 ディランは師の言葉に目を丸くする。竜のことを調べたのは、彼の記憶探しのついでだろう。が、そこから竜の住処に向かおうという発想になるところが、『暁の傭兵団』らしい。彼らの行動力に感心していると、ふいに、頭に温度を感じた。ジエッタが、手を置いていた。

「それで、そっちはどうだったんだい」

 いきなり、そう問いかけられて、ディランは返答に窮した。口を開きかけたまま、呆然と見つめ返す。そのうちジエッタの方から「当ててやろうか」と言ってきた。

 鋭い目が、少年の奥に潜むものをのぞきこもうとするかのように、暗く光る。

「記憶、戻ったんだろう?」

 彼女の声に、傭兵たちが一斉に振り返り――ディランは声を詰まらせた。

 急に、苦しくなった。変だな、と思う。

 どうしてこんなに苦しくなるのか、理由もきっかけも、わからない。

 自分で自分がわからない。一度はその事実を受け入れて、けれどそれではいけないと思い直して。

 手がかりも何もなく、記憶を探し始めた彼を、傭兵団の人々は、嫌な顔をせず応援してくれた。彼のことを信じてくれた。だから、もしも記憶が戻ったら、師匠にはすぐ報告しようと、心に決めていた。

 それなのに。今、何も言えなくなるのは、なぜなのか。

 今さら口を閉ざしたって、何も変わらないだろう。そうだと言うだけでいい。自分に言い聞かせ、ディランは声を上げようとした。

 が、その直後――いきなり、地面が強く揺れた。

「な、なんだ!?」

 傭兵たちが声を上げる。デアグレード王国は、地震が少ない。そのため、傭兵たちも地面が揺れるということに慣れていなかった。

「静かにしな!」と、ジエッタがぴしゃりと言い放ち、恐慌状態になりかけた『家』の中を静める。その頃にはもう、地面は揺れていなかった。

「……おさまったのか?」

 トランスが、眉を寄せて呟いた。

 地面は、数度、突き上げるような縦揺れを起こしただけだった。地震にしては揺れ方がおかしい。

 不審と不安で張りつめた静寂の中に、鋭い声が落とされる。

「……この気配、まさか」

 小さな声だったが、よく響いた。全員の視線が自然とそちらに吸い寄せられる。三つ編みの少女が、扉のむこうをくっとにらみつけていた。いつもの飄々とした雰囲気が消えている少女の佇まいに、仲間たちは何が起きたのかを察する。ディランがそれを確認しようとしたとき、しかし、『家』の扉が開けられた。

「大変だ!」

 叩きつけるような扉の音すらかき消す叫び声。飛びこんできたのは、ラリーだった。そのまま、何事かをまくしたてようとする彼を、ジエッタが視線ひとつで黙らせる。

「何があった」

 彼女が改めて問うと、ラリーは荒い呼吸の隙間で言った。

「さっき、町に駆けこんできた奴が言ってたんだけど……近くの林のあたりで……竜が、暴れ出したって……!」

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