第四部 空へ還るとき

第一章

1.静けき日

 体が震える。内側が脈打つ。呼応するように震えながら、青い光が闇の中へにじんでゆく。

 広がる光は形をつくり、すぐに揺らいだ。

 失った翼は、未だすべては戻らない。けれど確かに、闇の中で時を待っている。


 再び、大空に舞う時を。



     ※



 さえざえとした青空の下、灰色の岩が連なっている。ところどころに白と黒のまだら模様が見えていた。生き物の気配はない。この時期は、虫の一匹さえも姿を見せないのである。ごつごつした岩の上を、砂まじりの風がなでてゆく。生温かい風は、冷たさの中にかすかな炎の気配を宿していた。

 複雑に重なりあった岩のむこう、生き物の目につきにくい場所に、この世のものとは思えぬ光景が広がっている。

 無数にある、丸い金色の光が、人間を十は包めそうなほどの大きな光の球を囲んでいた。まわりの小さな光は、時々、鈴のような音を立てる。その合間を縫って、小さな子のおしゃべりのようなささやきが漏れていた。

 光が静かになることは少ない。この岩場にあっても、しゃんしゃんという音色と、細いささやきは響きつづける。それらはまた、雑音となって岩場に広がった。けれど、重い何かが羽ばたく音が、雑音をさっと打ち消した。蛍火のような光が一斉に震える。

『クレティオ様』

 光の中から声が漏れた。

 大きな光のかたわらに、寄り添うようにしていた大きな生き物が、首を持ち上げる。金色の鱗に覆われた、巨大な蜥蜴とかげに似た体と、背から生える一対の翼。つまりそれは、竜だった。

『静かにしなよ。彼を起こしたらかわいそうだ』

 竜、クレティオは、冷淡とさえいえる声を小さな光たちに投げかけた。そのうちのひとつが、細かく震える。

『むしろ、起こした方がよろしいのでは?』

『眠っているように見えて実は死んでいた、とか、私は嫌ですよー』

 最初の声に呼応するように、別の光がそう言った。眷族けんぞくたちの心配を、クレティオは軽くあしらう。

『そんなの僕だって嫌さ。大丈夫、彼は生きてるよ。……まだ、深い傷は残ったままだけどね』

 僕では治しきれない、とかぶりを振る。珍しく消沈した様子のあるじに戸惑ってか、眷族たちは押し黙った。クレティオも、無言のまま、大きな光の中をのぞきこむ。

 大きな光の中心には、もう一頭、竜がいた。青い鱗に覆われた巨竜。とはいえ、クレティオよりは小さい。その竜は今、丸まって目を閉じ、闇のように静かな眠りの中にある。眷族がいうように、死んでいるような気さえしてくる竜の姿を前にして、クレティオは目を細めた。

 変化へんげを維持することすらできなくなるとは思わなかった。相当負荷がかかっていたのだろう。……今回の件に限らず。

 喉の奥から低音が響く。クレティオは、みずからのうなりに不快感を覚えた。だからといってどうすることもできず、慰めのように翼を震わす。りんぷんのような光が舞って、消えた。

 そのときだ。光の中の青い竜が、わずかに瞼を持ち上げた。光竜こうりゅうの眷族たちが沸き立つ。

『あ、見て!』

『お目覚めですよ、クレティオ様!』

『よかったー』

 クレティオも、好き勝手に騒ぐ竜たちに呆れつつ、大きな光の中をのぞきこむ。薄目を開けた青い竜は、茫洋とした瞳で金色の竜を見上げた。

『……クレティオ?』

 口の隙間から、かすれ声がこぼれた。懐かしい響きに安堵しつつ、クレティオは悪童のように目を細める。

『やあ。おはよう、ディル』

 ぼんやりしていた竜――ディルネオは、虚を突かれたようにまばたきする。寝ぼけた顔ではあるが、目には光が戻っていた。彼は自分の体をゆっくりと見回して、呟く。

『私、は』

『あー、そうかそうか。君、その体になるの久しぶりだものねえ。二十二年ぶり?』

 ディルネオは答えなかった。ただ、呆然と、本来よりくすんだ翼を見つめて――ふいに、叩き起こされたかのように目をみはる。跳ね起きようとして失敗し、よろめいた。光たちが不安そうに揺れる中、クレティオは穏やかにたしなめる。

『無理をしない方がいい。わかってると思うけど、魂の傷は癒えていない。僕は、君が死なない程度に応急処置をしただけだ』

『あ……ああ』

 ディルネオは、困惑しきった様子で返事をした。そうか、と呟いた後、またもとのようにうずくまる。

『で、具合はどうよ』

『うん。あのときよりは楽だ。ありがとう。でも、すごく、眠い』

『だろうね。もう少し、眠っていた方がいい』

 クレティオが静かに言うと、ディルネオは喉を鳴らした。同時に、首のあたりに青い光が灯る。それはみるみる広がって、彼の全身を包んだ。クレティオは思わず固まってしまう。眷族たちも、驚きの声を漏らして鳴った。

 光は間もなくおさまって――その中から、十代の少年が現れた。青みがかった黒髪は、つかの間舞い上がって、ふわりと肌に吸い寄せられる。クレティオはほほ笑ましく思いつつも、目をすがめた。

『君さ、実はその姿、気に入ってる?』

『それもあるが……こちらの方が、魂を守るには都合がよいだろう』

 おどけたような彼の言葉は、正論だ。そうですか、と言ったクレティオは、胴をわずかにひねって彼の方へ寄せる。ふらりと倒れかかってきた少年の体を受けとめた。すぐに規則的な寝息が聞こえる。クレティオは、穏やかに喉を鳴らした。

『おやすみ、ディラン』

 彼の、人間としての名を呼んで、光の竜はそっと翼をたたんだ。


 少年の姿をした竜は、かなり深い眠りの中にあるようだった。少し揺れたくらいでは、身じろぎすらしない。かえって無防備に思える彼の様子を、クレティオはしげしげとながめた。

 ディルネオほど変化のうまい竜は、ほかにいないだろう。もともと、人里に下りるためによく変化を使う竜ではあったし、今ではそこらの少年と変わらないほどに、力を抑えられるまでになっている。もちろんそれは、七年間、無意識に変化しつづけてきたせいでもあろうが。

 クレティオが物思いにふけっていると、こつん、と硬質な音が響いた。現実に引き戻された竜は、再び騒ぎだす光竜たちをなだめ、首を巡らす。

 今まで竜以外いなかった岩場に、人が立っていた。銀色の髪に緑の目の女性。両手に手袋をはめ、肩や足もと、そしてひょっとしたら胸元などを、かたい革で覆っているほかは、旅衣というにも軽装すぎる格好だ。何やら模様の入った白い長衣をなびかせて、彼女は竜たちの方へやってくる。携えた槍が高い音を立てた。

『やあ。お迎えは、君か』

 クレティオは明るく言い、目だけで眠っている少年を示す。

「ええ」

 女性は短く返すと、クレティオの前で足を止めた。

「大丈夫なのかしら、彼」

『うん。今は寝てるだけ。ただ、僕では魂の傷は治せない。今後も気をつけた方がいい』

「わかったわ。ご忠告、ありがとう」

 クレティオは、妖艶にほほ笑んだ女性へ背を向ける。眠る少年を抱きとめた彼女は、そのまま、ぐったりしている体を背負った。

「――ごめんなさいね、クレティオ」

『やだなあ。謝らないでよ。僕が勝手にやったことさ』

『それより行きな。ルルリエが待ってるでしょ?』と、クレティオは女性をうながす。彼女は小さくうなずいてから、竜たちに背を向けて歩いていった。岩場のむこうにかすんでゆく人影を見送りつつ、光竜はぽつりと呟いた。

『そういえば彼女、竜の研究をしてるって言ってたっけ。……惜しいなあ。もう少し早ければ、いいもの見られたのに』


 上空から、一面緑の草原と、白と茶のまじった砂漠を見ることができる、西大陸東部。小国イェルクの、ある宿場町の近郊――それもひと気のない場所に、一頭の竜が降り立った。小柄な白い竜だ。鱗の代わりに、羽毛のような毛が全身を覆う。白毛をつかのま風になびかせた彼女は、あたりに人の目がないことを確かめると、ゆったり翼をたたんだ。同時に、その背から女性が滑り下りる。その女性――マリエットは、未だに眠っているディランを背負いなおすと、竜の子どもを振り返った。

「ありがとう、ルルリエ」

 意識して、いつもよりゆっくり話す。ルルリエは、軽快に喉を鳴らした。

『このくらい、お安い御用だわ』

 自信に満ちた風の小竜の言葉に、マリエットは薄くほほ笑んだ。

「頼もしいわね。ところであなた、これからどうするの?」

『そうね……』

 ルルリエはわずかにうつむいて、考えこんだ。それから一度、羽ばたいた。びゅうっと突風が吹いて、足もとの草を揺らす。

『せっかくだから、もう少し一緒にいようかな。ディランと……色々話がしたいし』

 ディランを見つめる緑の目に、明らかな戸惑いの色がある。ルルリエの声と視線が、複雑な感情を含んだものになってしまうのは、しかたのないことだろう。マリエットは出かかったため息をのみこむと、「そう」と返した。

 ルルリエが、いつかのように小鳥に変化するのを待ってから、マリエットは宿場町に向けて歩いた。幸い、それほど距離はない。すぐに街の影が見え、土と草原は石畳に変わった。荒っぽいざわめきと人の往来の隙間をくぐりぬけ、青い扉の宿屋の前に立つ。

『みんな一緒にここに来たのが、もう昔のことみたいねえ』

「そうかしら。……そうかもね」

 マリエットは、ルルリエの冗談に笑い含みの声で答える。けれど、白い小鳥を見つめる目には、隠しきれない切なさがのぞいていた。

 宿の主人に声をかけてから二階に上がる。不思議と慣れた足取りで部屋の前まで行き、扉に手をかけた。そのとき。

「じゃあ、質問」

 扉を開けると同時に、そんな声が聞こえた。トランスの声だ。見ると彼は、寝台のひとつをのぞきこむように立っている。それを見ただけで、マリエットは状況を察した。――あれは、レビが寝ているはずの寝台だ。

「これ、何本?」

「……三本です」

「せいかーい」

 トランスと、どうやら目覚めたらしいレビは、軽妙なやり取りをして、笑いあっていた。反対側に見えるゼフィアーとチトセも、顔を見合わせて苦笑している。相変わらずな人々の様子にほほ笑んだマリエットは、ようやく口を開いた。

「気がついたのね。よかった」

 すると、全員の視線が彼女の方へ集中した。

「おっ、マリエット! おかえり」

「ええ、ただいま」

 トランスの挨拶に、マリエットは静かに返した。「ルルリエも一緒か!」と叫びながら、ゼフィアーが飛び出してくる。たわむれる小鳥と少女をよそに、マリエットはレビのそばへ歩み寄った。寝台に座りこんでいるレビは、顔色が少し悪いものの、笑顔を見せるだけの余裕はあるらしい。

「具合はどう? どこか痛かったりしないかしら?」

「大丈夫です。まだちょっと、頭がぼうっとしますけど……そのくらいです」

 ありがとうございます、とレビは律儀に頭を下げる。

 彼のハシバミ色の瞳は、吸い寄せられるように、マリエットの背のあたりを見た。

「……あ、あの」

 レビが口ごもる。マリエットはあくまで冷静に、背負っているディランを一瞥した。

「大丈夫よ。今はただ、眠っているだけだわ」

「ほ、本当ですか?」

「びくともしないな」

 身を乗り出すレビのそばから、いつの間にか来ていたゼフィアーも、ひょっこり顔を出した。この騒ぎの中でも微動だにしないディランを、全員がなんともいえぬ表情で見つめる。気まずい沈黙の後に口を開いたのは、短い黒髪の、仏頂面の少女――チトセだった。

「で、どうすんの。そいつ」

「どうする、と言われてもね。とりあえず、寝かせておくしかないんじゃないかしら?」

 小さく首をかしげたマリエットは、顎を動かしたチトセを見てから、あいている寝台にそっと少年の体を横たえた。聞こえる寝息は穏やかなままで、そのことに誰もが安堵する。背後から飛び出してきたゼフィアーが、少しだけ背伸びをして、掛布をそっとかけた。

「ファイネのときのような、苦しそうな感じはないな。そのうち目覚めると思うが」

「ええ。起きるまで、そっとしておいてあげましょう」

 不安そうに目を伏せるゼフィアーの頭をぽんぽんと叩いたのち、マリエットはもう一度、ほかの仲間たちの方を振り返った。――あんな戦いの後だからだろうか。表情には、疲れと憂いが見て取れる。そして、そう思う自分も似たような顔をしているだろうと、彼女は自覚していた。目に見えない何かが重く沈んできそうな空気の中で、ばさばさっ、と小さな羽ばたきの音が響く。

『ねえ。とりあえず、別れたあとにあったことを聞きたいわ。ディランのことも含めて』

 すねたようなルルリエの声は、かろうじて場の雰囲気を和らげた。誰かが、そうしよう、というようなことを言った後、全員がレビのまわりに集まる。そして、北大陸であったことを、かわるがわる風竜ふうりゅうに語って聞かせる。誰かの声が途切れた後、マリエットは黄昏へ向かいつつある空を目の端に捉えて、口を開いた。

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