章外
Memories-0 原点
争いのはじまりを知る者は少ない。
ただ、最初の衝突が、ある森林の開拓を巡ってのものだった、というのは有名な話だ。
森を守るべき竜と、森をひらきたい人間たちが戦った。そしてある人間が竜を傷つけ、ある竜が人間を殺してしまった。
そして、ちろちろと燃えていた
灰色と白が微妙な加減で混ざり合った薄い雲が、競うように流れて太陽を覆い隠す。北の地、それも雪さえ降らないこの地域では当然の空模様。それはは、時として見る者を
楽しく飛んでいた彼は、ぐんっと高度を下げて地上を見る。樹木の育たないこの地域は、けれど夏季は地衣類のおかげで野が鮮やかに色づく。それを見るのも、そこで繰り広げられる人の営みを見るのも、彼は大好きだった。
さっそく遠くの野に人の姿を見つけ、竜の子は目を細める。たくましい体つきの人間は、狩人のようだ。獲物と思しき野鹿を豪快に担いでいる。もう少し追いかけてみよう、と彼は翼を打ちかけたが、
『やっと見つけたわ』
と響いた声にすくんで、止まらざるを得なくなった。わずかに背中を丸めた竜の子が振り返ると、彼と同じ青い鱗の巨竜が、ゆったりと飛んでくるところだった。その静かな瞳に気圧されて、水の小竜はますます背を丸める。
『お、オシアネ様……』
『勝手に出ていってはならないと、いつも言っているでしょう』
そう言った巨竜、オシアネは小竜の隣に飛んでくるなり、低く喉を鳴らした。不機嫌なようにも聞こえる音に、小竜が恐縮する。オシアネの目は、野に点々とついている人の足跡に向いていた。
『人間を、見に来ていたのですか』
小竜は問いに答えなかった。いや、怖くなって答えられなかったのだ。怒られることを恐れて縮こまる小竜を見て、オシアネがため息をこぼす。
『まったく。人を見に行くのは危険だと、あれほど教えたではありませんか』
『ご、ごめんなさい』
慌てて謝った小竜は『でも』と言って、野に視線をやった。狩人の姿はもうないが、靴の跡はうっすら見える。
『少し前までは、人と竜は仲良くしていたんでしょう? それに、オシアネ様はまた仲良くできるようにがんばっておられます。だから私も、人間から逃げ隠れするようなまねはしたくないのです』
『それは――』
オシアネは口ごもり、ややあって二度、鈍く喉を鳴らす。彼の言ったことが、事実であり、正しいことでありながら――手の届かない理想の一端でもあることを知っているから。
『言いたいことはわかります。けれどせめて、単身で行動するのはおやめなさい。万が一“狩人”に襲われては大変です。
特にあなたは、
『――はい』
オシアネの諭すような目を前にして、小竜は小さな声で答えた。申し訳ないという気持ちと、かすかな幼い不満がのぞいている。苦笑したオシアネが小竜の背を翼で軽く叩き、名残惜しそうにしている彼をうながした。
小竜は
二頭の竜が向かった先には、大陸にそぐわぬ緑の小さな林があった。水の主竜の一角であり、『北の
『いてっ』
『おまえ、また単独で遠駆けしてたんだって? そんなに、人間に興味があるのか』
『それは……だって、優しい人たち、たくさん知ってるんだもの。
『……やれやれ』
若い竜とオシアネの声が重なる。まわりから、そよ風のような笑い声が起きた。それは、馬鹿にするというよりはむしろ、ほほ笑ましいものを見るような空気で。小竜は恥ずかしそうに顔を逸らした後、林の奥へ飛んでいった。
彼を見送った大小二頭の水竜は、顔を見合わせる。
『本当、呆れるくらい優しいですよね、あいつ。
『よしなさいなリヴィエロ。私はむしろ、彼の言動を諌めることばかりしている。そうせざるを得ないのが悲しいことです』
『ううん、そうかなぁ……』
主の言葉に納得がいかないのか、
『だがなあ。最近、人間たちもずいぶん派手に我々を非難するようになってきた。武力衝突も起きているそうじゃないか』
『しかし、同胞が人を殺したこともあるのだろう。一概に、あちらばかりが悪いとは言えまい』
『同胞の棲みかを何度も訪れて、研究をしている怪しげな人たちもいるというし……』
ささやく声は、憂いを含んで細かった。話し声にひるんだかのように、リヴィエロが身じろぎする。対して、主竜オシアネは毅然として言い放った。
『ここ数十年ほど、人間たちとの関係がよくないのは事実。しかし、これまで説得を続けてきて、私たちの思いをわかってくれた人々もいます。信じるのをやめるべきではない。……大丈夫。私がいます』
オシアネが穏やかに言いきると、竜たちの低いささやきはぴたりとやんだ。彼らは尊敬のまなざしを主へ向ける。リヴィエロもまた、その姿をまぶしそうに見ていた。そして、先ほど奥へ飛んでいったはずの小竜も。
オシアネは、暇さえあれば人間と竜の説得に向かうほど、和解に対しての情熱を持っていた。その活動に小竜やリヴィエロが参加することもあるにはあるが、二頭はまだ若いということで、連れていってもらえることの方が少ない。
そしてまた、小竜がオシアネに叱られた翌日から、水の主竜は忙しなく大陸を駆け回った。淡々と繰り返される、いつも通りの日々。しかし、あるとき、変化があった。
『え……。それでは、話し合いの場がもうけられるということですか?』
住処へ戻ってきたオシアネに、一頭の眷族が問うた。オシアネは、一度、ゆっくりと喉を鳴らす。
『ええ。ひとまず、ここの水竜の何頭かと人間の代表者たちで話し合おう、ということになりました。お互いの主張を聞き、今後どうすべきかを決めることになるでしょう。またとない、機会です』
噛みしめるように言ったオシアネへ、水竜たちは感動のこもった目を向ける。それはリヴィエロや小竜も同様だった。
今までずっと、彼女がこのときを待ち望んでいたことを、眷族たちはよく知っている。そして、眷族ではない小竜も。だからこそ、やっとこの時が来た、とみんなで喜びあうことができた。
その日のうちに、オシアネ以下話し合いに参加する竜たちが選ばれた。小竜も希望を出したことは出したが、今までと同じで、若すぎるという理由で同行させてもらえなかった。同じ年頃の別の竜が行くことになったので、リヴィエロも留守番組だ。それでも彼らは、晴れやかな気持ちで見送り、人と竜の話がつくのを、そわそわしながら待った。
しかし、一週間経っても、竜たちは帰ってこなかった。
訝しく思った留守番組の竜たちは、同胞の行方を追うことにした。小竜やリヴィエロも、今回ばかりはまわりの反対を押し切って同行した。そして彼らは、話し合いの場となったはずの、大陸北東部の廃村へ辿り着く。
『気味が悪いところだな……』
リヴィエロが呟いて、喉を鳴らす。
村が廃村となったのは、ずいぶん前のことのようだ。ぽつりぽつりと建つ家々は、そのほとんどが腐り落ち、風化してわずかな骨組みや床板だけをさらしている。耳が痛くなるほどの静寂の中、小竜は、不気味さが風景のせいだけでないことに気づいた。
『なんだろう。すごく……嫌な気配がする』
鼻をしきりに動かした小竜は、やがてふらふら奥へ向かって飛びはじめた。導かれるように飛ぶ彼の耳に、制止の声は届かない。ほかの竜たちも、しかたなしに彼の後についていった。
見えたのは、とうの昔に屋根が落ちた、木組みの建物だ。村の中では一番大きかったに違いない。翼を動かし、その中をのぞきこんだ竜たちは――言葉を失った。
わずかに残った床板の上には、奇妙な模様が描かれている。『
『オシアネ、様……?』
誰かが呆然と呟いた。小竜も、色や音がわからないままに、倒れたオシアネの上へふらふらと飛んでゆく。
『オシアネ様、いつまでも眠っていてはいけませんよ。みんな、みんな、あなたを待っているのだから』
小竜は、力の抜けた声を落とす。しかし、わかっていた。オシアネがもう、その声を聞くことはないのだと。
青い目に光はなく、鱗もくすんでしまっている。大水竜オシアネの命は、そこにはなかった。呆然とする彼の耳に、そこかしこから同胞の名を呼ぶ声が飛びこんでくる。
『ぁ……ああ……』
小竜はその場でがくりとうなだれる。口の中で繰り返し、繰り返し、母であり師であった竜の名を呼ぶ。届かぬ存在に呼びかける。けれど、それは、意味のないことだ。
そのときになって、彼らはようやく、水竜たちが人間に
『魂の気配が、ない』
絶望した声で言ったのは、年長の水竜だった。全員がはっとして、あたりを探る。竜が死んだ後に、必ず残る命の香りは、微塵も感じられなかった。
『どういうことだろう。みんな死んでしまっているのに、魂だけがないなんて』
リヴィエロが首をかしげて、疑問を口にする。明るく取り繕った声は、廃村にむなしく響いた。
その一年後。事態は大きく動いた。
北大陸と西大陸を中心に、人間たちによる竜の大量虐殺が行われたのである。のちに「最初の竜狩り」として歴史に残る大事件だ。そして、そのとき使われた武器は、今まで誰も知らなかった、「竜の魂に干渉し、砕く武器」だった。
魂を喰らう武具が、どこから来たのか。北の水竜たちは、誰からともなく悟った。
誇り高き竜の魂が、竜を殺す武器に作り変えられたのだと。
かつて、人と竜を生かすために戦っていた彼らの命が、今、同胞を殺すために使われているのだと。
青い鱗の小竜は、色のない大陸を眼下に捉えて飛んでいた。
竜の大量虐殺が起きて以降、血を血で洗う争いが各地で勃発している。心ある竜たちは、それを止めるために、世界中を飛び回ることとなってしまった。もはや齢など関係ない。小竜も自ら戦火の中へと入っている。
今もまた、ひとつの仲裁を終えた後だった。彼の頭の片隅にはいつも、無残な死を遂げた竜たちの姿が焼き付いている。最期の瞬間を見届けることも叶わず、目の前からいなくなってしまった彼らの面影は、竜たちを静かに苦しめていた。
ため息をこぼした小竜は、なんの気なしに地上を見る。そして、ぎょっとした。
かつて村であっただろう廃墟から、ひとりの少女が飛び出してくる。薄い服に毛皮の上着を乱暴にはおっただけの格好。
『やめろ!』
小竜は叫んで降下する。自分を追う群に気づいたのか、立ち止まってすくみあがった少女へと、勢いよく覆いかぶさった。
『邪魔をするな!』
怒声が聞こえた。と思った次には、体中を焼くような殴るような、とにかく激しい衝撃が襲いかかってきた。それでも小竜は、声のひとつも上げず、少女の上からどくこともしなかった。
「……え、ねえ」
そばで響く声に気づき、小竜は薄目を開けた。いつの間にか意識を失っていたらしい。起き上がろうとして、失敗した。鋭い痛みがあちこちに感じられる。しかたなく、頭だけをわずかに動かして、声の方を見た。
「あ、起きた」
そこには、竜の群から逃げていた少女の姿があった。彼女は小竜と目が合うと、無邪気な笑顔を見せる。が、笑顔はみるみるうちに
「おけが、したでしょう? 痛い?」
舌足らずな問いかけに、小竜はゆっくりと答える。
「大丈夫。このくらい、すぐ治るから」
「本当に? でも、すっごく痛そうよ。血だって出てる」
「本当に大丈夫」と小竜が繰り返すと、少女は唇を尖らせた。それから彼の顔の前に座りこんで、何かを差し出してくる。濃い緑色の、小さな球体だった。
「これ、がじがじ噛んで。痛いのによくきくの」
力強く言われたので、声に圧された小竜は、言われた通り球体を噛み砕く。すぐに、目を細めた。
『にが……』
「にがいでしょ。わたしもそれ、苦手なの」
そう言って笑う少女に、小竜は呆れのこもった視線を注いだ。
彼の言った通り、少しして小竜は問題なく飛べる程度にまで回復した。ひとまず、少女とともに、目につきにくい岩陰へと避難する。少女は膝を抱えて座りこむと、寒々しい北の大地を見やった。
「みんな、死んじゃった。お父さんも、お母さんも、隣のおじちゃんも、字を教えてくれたおじいちゃんも」
声がこぼれる。
「逃げた人たち、どこにいったのかな。ぶじ、かなぁ」
少女はぽつりと言った。大きな目がうるんで、たまった涙が頬をつたい落ちる。悲しみに沈む横顔を無言で見た小竜は、低く喉を鳴らした。
「君は――私が、怖くないのか」
今、訊くことではないだろう、とは思った。けれど、訊いていた。少女は目を瞬くと、ゆるくかぶりを振る。
「怖くない。だって、あなたが殺したんじゃないもの。それにあなたは、わたしを助けてくれたもん」
幼子の答えは単純だった。
小竜は、目をみはる。――みながそう考えられたら、争いなど起きなかっただろうと、思った。
「あなたは、わたしが嫌いじゃないの?」
「なぜ」
「だって、とっても悲しそう。お友達が、死んじゃったのかと思って」
人間に殺されて――続くはずだった言葉を、少女はのみこんだ。小竜は苦笑して、たたんだ翼を一瞥する。
「そうだね。私も……母のようだった竜を、人間に殺された」
「じゃあ」
「でも、私の答えも君と一緒だよ。君が殺したんじゃない。だから、嫌いになんて、なるわけがない」
小竜がきっぱり言うと、少女はへらっと笑った。残っていた涙の粒がこぼれるが、彼女はそれをぬぐうこともしない。
「じゃあ、わたしたち、おんなじだね」
ただ、先ほどと変わらない笑顔でそう言った。小竜も、喉を鳴らし、頭を少し動かした。彼は薄曇りの空に目をやると、翼をかすかに震わせる。
「さて、そろそろ、君を安全なところに連れていかないと――」
「バルバラ!」
小竜が少女に声をかけようとしたとき、正面から別の声が叩きつけられた。一頭と一人は顔を見合わせた後、声のした方を振り返る。少女が目をみはった。
いつの間にか、ぼろぼろの人間たちがそこにいた。少女を見て安心したようだったが、隣に竜の姿を見つけると、一気に殺気立つ。
「青い、竜⁉」
「このっ。まだ何かするつもりか!」
まずい、と。小竜は目を細めた。今すぐ逃げなければ危ない。傷は完全に治ったわけではないのだ。頑丈そうな棒や槍や銛を手にしている彼らに追いすがられたら、いくら彼でも飛べなくなるかもしれない。とりあえずひるませようと、息を吸い込みかけた彼は、けれど動きを止めた。
「待って!」
少女が声を張り上げて、竜をかばうように立つ。竜も、人も、驚いて固まった。
「だめよ! みんな、だめ! 彼はいい竜様なの!わたしを助けてくれた、やさしい竜様なの!」
彼女の声に圧されつつ、村の生き残りの人々は、じりじり距離を詰めてくる。少女が激しくかぶりを振った。
「だめだって! 竜様は、自然をつかさどるえらいいきものなんでしょう? やさしい竜様におけがをさせたら、またほかの竜様も怒ってしまうかもしれない。そうなったらまた、みんなが悲しい思いをするじゃない! そんなの、だめ!!」
泣きわめくような彼女の言葉に、小竜は息をのんだ。
それは、かつてオシアネが彼に教えてくれたことに、とてもよく似ていた。彼自身が今、胸に秘めていた思いにも。
村人たちは困ったように顔を見合わせたが、しぶしぶ武器を収めてくれた。少女がそちらへ嬉しそうに駆けてゆく。彼女の背を見た小竜は、ほほ笑んでから羽ばたいた。
翼の音が聞こえたのだろう。少女が、びっくりしたように振り返った。
「ありがとう。これ以上みなを怖がらせても悪いから、私はもう行く」
「う、うん」
うなずく少女は少しさびしそうだったが、すぐに明るい顔で手を挙げた。
「あ、待って!名前、教えて!」
小竜は首をかしげる。すると、少女が一生懸命続けた。
「だ、だって。名前がわかれば、またあなたがおけがをしたときに、さっきのお薬を持っていけるもん」
さっきのお薬。緑色の球体のことだろう。なんともいえぬ味を思い出した小竜は、思わず笑った。そして、「わかったよ」と前置きし、自分の名前を口にした。
少女と別れて飛んでいると、背後から声がかかる。振り向けば、ひどく焦った表情のリヴィエロが翼を動かしていた。
『リヴィエロ。そんなに焦って、どうしたんだ?』
『どうしたも何もない!おまえがいつまでも帰ってこないから、心配して見に来たんだよ!』
猛然と答えたリヴィエロは、小竜の体をながめまわして低くうなる。
『まさか、人間たちに何かされたんじゃ』
それを聞き、小竜は思わず笑っていた。『なんだよ!』と不満そうに言ったリヴィエロへ、彼は穏やかに言葉を返す。
『そう、疑ってかかるものじゃないよ』
目を瞬いたリヴィエロへほほ笑んで、小竜は視線をそらす。薄い雲が、静かに空を漂っている。いつもと変わらぬ風景だ。
この風景が永遠に続くものと思っていた。今は、永遠に続くものにしなければならないと、考えている。
そのためには、人の力が必要だ。
『大丈夫。希望はある。人も竜も、やり直せる』
彼は小さく呟いた。目の奥に、希望を与えた少女の笑顔を思い浮かべながら。
色のない大陸を、家を失った人々が往く。沈んだ顔をしている人が多い中で、一人、ある少女だけはどこか穏やかな目で空を見ていた。
記憶にあるのは青い竜。まだ鮮烈に思い出せるその姿を、声を、慈しむように思い返して、少女は優しくほほ笑んだ。
『私の名は――ディルネオだ。お薬、待ってるよ』
波のない海のように優しい声は、確かに彼女の希望になった。
※
これは、古い記憶の断片。
世界を揺るがすとある旅路の、ずっとずっと前につむがれた、物語。
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