7.影を背負う

 頭の奥が、ざわめいた。

 深い深い、己ですら気づかないような場所から、ふわり、と何かが浮かびあがってくる。

 それは静かに居座って。

 やがて――ゆっくりと、しみこんできた。

 

 

 ディランはふっと目を開けた。頭を抱えていた自分の手を、わずかに動かす。髪の毛が乾いた音を立てた。

 どれほど時が経ったのか。意識はあったはずなのに、まるで眠っているかのような時間だった。

「……へこみすぎて頭おかしくなったかな、俺」

 自嘲的に呟いて、ディランはのろのろと顔を上げる。わずかに見える窓の外。薄布ごしの風景は、灰色の雲で覆われてしまっているが、そのわずかな色合いの違いから夕刻であることが知れる。体は鉛のように重くなっていて、喉は痛むほどに渇いていた。唾を飲みこむと、痺れを伴って体の奥に流れてゆく。

 振りむくと、部屋には誰もいなかった。畳まれた地図だけが机の上にぽつんと残っている。ゼフィアーもマリエットも、気を遣って出ていったのだろう。あるいは呆れられたか。ディランは思わず、ため息をついた。

「何やってんだか」

 おぼろげに覚えている、ゼフィアーたちに投げた最後の言葉を思い出し、自分で呆れた。落ちこんでいたからといって、あんなふうにいじけるとは。師匠ジエッタに知られたら確実に殴られる。ディランは乱暴に頭をかくと、寝台からおりた。なんとなく肩が重い。頭もくらくらする。けれど、そのうちおさまるだろうとたかをくくって、彼は扉に手をかけた。

「あいつら、探すか。どこにいるかな。……食堂?」

 呟きながら、扉を開ける。そのまま出ようとしたが、直前で足をとめた。

 彼は緊張して息をつめた。自分の胸のあたりにあるつむじを見下ろす。

 少年がひとり、うつむいて佇んでいた。

 「……レビ」

 吐息のように名を呼ぶ声が、暗さを増す廊下に響く。小さな肩が激しく揺れて、レビがそっと顔を上げた。いつもは明るく輝いているハシバミ色の瞳が、迷いと悲しみに沈んで、まるで深い穴のように見える。ディランは思わず頬をひきつらせた。

 とにかく何か声をかけないと。急き立てられるように言葉を探すディランの耳に、かすれた声が届いた。

「ディラン」

 名を呼ばれ、彼はどきりとして視線を戻す。レビは眉と目尻を下げたまま、ディランを見上げていた。対の瞳がぼんやり揺れている。

 レビはしばらく唇を震わせたあと、開いた。

「――腕、平気です?」

「え?」

 きょとんとしたディランは、けれど慌ててそでをまくった。腫れはとっくにひいたようだ。痛みもない。

「大丈夫だよ。ほら、このとおり」

 ディランがぎこちなくおどけてみせると、レビはそこでかすかに笑った。けれど笑みは煙より儚く消えて、暗い表情のうしろに隠れる。

「ごめんなさい」

 少年は、泣きそうな声で言うと、うなだれた。一瞬、嗚咽のような何かが響いた。

 ディランは、苦々しさと少しの切なさをのみこんで微笑んだ。金色の頭に手を置くと、息をのむ音が聞こえる。

――おまえは異質だ。奥に居座る何かがささやく。


「わかっている」


 落とされた声には色がない。

 遠く、小さく響いて消える。

「……え」

 レビが弾かれたように上を向き、顔を凍りつかせた。全身が、ぶるりと震える。

 ――ディランはそれを見て、傷つくと同時に、安堵していた。

「わかっているんだ。だから、レビが悲しまなくていい」

「ディラン、は」

 目の前にいるはずなのに、レビがどんな表情をしているのか、わからなかった。ただ彼は、傷を抱えて、傷ついた少年の頭をなでる。いつも、そうしているように。

 ふっと。浮かびあがってきていた何かが、沈んだ。

 ディランはくしゃくしゃに顔を歪めている少年を見て、苦笑した。

「ほら、いつまで泣いてるんだ。気にしてないから大丈夫」

 レビはぽかんとしていたが、やがてわざとらしく唇を尖らせた。

「泣いてませんよ」

「まだ、な」

「もう。意地悪ですね」

 ディランがからかってやると、レビは小さな拳で彼の胸を小突いてきた。声を立てて笑ってから、レビの背中を軽く叩いた。

「そういえばレビ、みんながどこにいるか知ってるか?」

「下ですよ。下の食堂に向かってるって……トランスさんが」

 男の名を口にした瞬間だけレビの声が低くなった。ディランは首をかしげたものの、すぐにまあいいかとうなずいて、部屋の外へ出る。そっと扉を閉めると、廊下を黄昏の薄闇が包みこんだ。

「じゃ、行くか。……行って、平気か」

「……はい」

 二人は、お互いなんともいえない気分のまま、廊下を歩きだした。



     ※

     

     

「トランス」

 背後から女二人の声がして、トランスは振りむいた。マリエットとゼフィアーが、つれだって階段をおりてくるところだった。

「よ、おふたりさん」

 陽気に手をあげると、ゼフィアーが眉を寄せた。

「ひょっとしてトランスは、レビのところに行っていたのか?」

「おや、なんでわかった」

「なんとなく」

 返すゼフィアーは、しかめっ面だ。トランスは肩を揺らして笑うが、その声は乾いていた。無理にふざけようとして失敗したときに似た、なんともいえないむなしさが胸を満たす。

「あー。少しだけノルドパテラ観光でもしようか、って思ってたのにな。それどころじゃなくなった」

「そういうこともあるわ。また来ればいいのよ。いろいろと落ちついたあとに」

 マリエットが、階段の手すりに手をかけ微笑んだ。やわらかな笑みであり、一見してまったく憂いがないようにも思える。トランスはなんとなく安堵すると同時に気まずくなって、自分の目を階段の先へ向けた。すると、また、鈴を転がすような美女の笑声が聞こえた。

「自分が焚きつけた子が、どうしているか、心配?」

「……わかる?」

「なんとなく、ね」

 トランスがおどけて言うと、マリエットもまた目を細めた。まったくこの女どもは、と感服しつつ、トランスは階段の先からむりやり目をそむけた。

「ま、レビ坊ならどうにかするだろう」

「うむ。レビはああ見えて、とても強くて賢い子なのだ」

 ゼフィアーが腕を組み、なぜかえらそうにうなずいた。トランスは今度こそ、声を立てて心からの笑い声をあげる。

「ゼフィーがそういうんなら、間違いねえな!」

「うむ」

 うんうん、と首を縦に振る少女の頭を、男の大きな手がなでる。その光景を温かく見守ったマリエットが、暗くなりつつある窓の外を一瞥してから、二人に声をかけた。

「それで、どうするの? まさかこんなところで立ち話をして、待っているわけにもいかないでしょう?」

「そうさなあ」

 トランスは、少し考えるそぶりを見せてから、うなずいた。

「食堂に行ってるか。レビ坊にもそう伝えたし」

「了解だ。ご飯を頼んで待っていよう」

 ゼフィアーが拳をにぎって妙に張り切るその横で、マリエットが目を瞬いた。

「私が作らなくていいのかしら」

「甘いのがきそうだから、今日は遠慮しておく」

「――右に同じ」

 ゼフィアーとトランスの意見が合致する。とにかくマリエットの「甘いの」はできれば食べたくないのだ。銀髪の美女が苦情に何を思ったのか、トランスにはわからない。彼女はただ、肩をすくめて微笑んだだけだった。

 一階の食堂は、裏庭に続く扉のそばにある。小さな食堂はすでに人と火の熱で満たされており、足を踏み入れるなり、息がつまりそうなほどの熱気が押し寄せた。が、この北の地にあっては、それすらも心地いい。彼らは五人が座れそうな席を奥でなんとか見つけると、すぐさまそこを陣取った。食堂で働く年かさの男が、風変りな格好をした旅人を一瞥する。字が彫られた木の板をさしだし、注文は、と訊いてきた男へ、三人は手早く答えた。

「見慣れない字だったな。ひょっとして、この大陸ではあの文字が使われているのか?」

 無愛想な男が去ったあと、ゼフィアーが首をかたむける。トランスがうなずいた。

「おもに大陸北部ではな」

「でも、今の時代にはあまり使われなくなった文字のはずだけれど。このあたりにはまだ、名残があるのかしらね」

 興味深そうなマリエットの呟きに、残る二人の視線が吸い寄せられる。

「なんだなんだ、詳しいな。さっきの文字は竜研究とは関係ないだろ」

「ええ。でも、ご先祖が北大陸の部族の出身だったから」

 さりげなく暴露された彼女の身の上話に、トランスとゼフィアーは目をむいた。

 なんとまあ北大陸に縁のある人が多いことだ、とゼフィアーが感心する。その様子を横目で見ていたトランスは――けれどふと、そばに誰かがやってくる気配を感じて、顔をあげた。自分のそばに影を落としていた人を見上げる。目をみはってから、悪戯っぽく笑った。

「おう。来たか」

 彼の声に、女ふたりが振りむいて口を閉ざす。

 視線の先で少年の手をひいて佇んでいたディランが、疲れを残した顔で微笑んで、片手をあげた。

 

 ディランがレビとともに食堂を訪れ、奥の壁際に見覚えのある人影を見つけて歩いていくと、緊張感のにじんだ視線を向けられた。くわしくは事情を知らないはずのゼフィアーとマリエットでさえ、何かをうかがうようにしている。あんな醜態をさらしたのだから当然か、とディランは苦笑した。それでも、何もなかったふうを装って、堰に腰かける。

「悪い、遅くなった」

「構わねえよ。俺たちだって、さっき着いたところだ」

 向かいあったトランスがひらひらと手を振る。

 そうしてしばらく、どこかぎこちない世間話をしていると、料理が運ばれてきた。その中に見たことのない肉の燻製くんせいを見つけ、ディランは首をひねる。それから、北大陸出身者の男をうかがうと彼は喜々として燻製肉に手をつけていた。ならば問題なかろうと、ディランも肉を切り分けにかかる。

「これから、どうするの? このまま《大森林》に向かう?」

 食事のさなか、誰にともなくマリエットが問いかける。肉をほおばっていたゼフィアーが首をひねり、トランスとレビが微笑んだ。

「いいんじゃね? いつまでも手がかりなしじゃ、ゼフィーもディランも落ちつかないだろ」

「そう、ですね。それでいいと思います」

 そこでディランは顔を上げ、平然と食事を続ける男に問う。

「トランス、街を見て回らなくていいのか? 故郷なんだろ」

「あー、いいって。さっきまでであるていど見て回れたし、『知り合い』に出くわして揉めたら面倒だし」

 ディランは首をひねったが、すぐに彼の事情を思い出してうなずいた。トランスの知り合い――それはつまり、過去に彼を追い出した貧民街の人々だ。かつて何があったか、詳細をディランは知らない。なのでどちらが良い悪い、と断ずることはできないが、鉢合わせたら険悪になるのは確かだろう。

 結局、翌日にノルドパテラを出て、《大森林》を目指すことになった。食事もつつがなく終わり、人の流れの途切れない食堂をあとにすべく、ゼフィアーたちが席を立った。ディランはなんとなく、それを最後まで見送ってから自分も立ちあがった。椅子を戻して歩き出そうとしたとき、視線を感じて振り返る。

 レビが佇んで、気まずそうに彼を見ていた。

「レビ?……どうした?」

 問いかけるのにためらったのは、あのときと同じ言葉が出たからだろうか。苦味をのみこむディランの前で、レビはしばらく内容のない言葉を呟いていたが、やがて軽くかぶりを振った。

「なんでもないです……ごめんなさい」

 暗がりに沈みかけている瞳が、ディランへ向く。彼は、内心慌てて彼の手をひいた。

「いちいち謝らなくていいって。ほら、急ごう。みんな行っちゃうぞ」

「はい」

 二人は、来たときと同じように、連れ立って歩きだす。

 うつむいたレビの口が、わずかに動いた。


「やっぱり――言えない。言えるわけ、ない」


 言葉は熱とざわめきにかき消され、前を行く人にすら届かない。

 一方、細い腕をひくディランもまた、浮かびあがる何かの気配を感じて眉をひそめた。

――いまだ、彼らは影を負ったまま。影を引きずり、新しい土地へ向かおうとしていた。


 この翌日、五人はノルドパテラを発つ。アントンたちとは残念ながら会えなかった。

 危うい空気をまとった彼らが、道の先に森林の姿をとらえるのは、これより六日後のことである。

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